『生きる』立派な人は経済の場では探せない
黒澤明監督の代表作『生きる』。黒澤作品といえば、時代劇アクションとなりがちだが、この『生きる』も、ヒューマンドラマでありながら、テンポがよく感情移入しやすいエンターテイメント映画になっている。
実は自分はこの映画、中学生の頃テレビで観たきり。久しぶりに観た。大人ばかりが登場するこの映画を、よくもまあ楽しんだものだ。子どもだって大人の事情は理解できる。
官僚主義を批判したこの映画『生きる』。悲しいかな2018年の現代日本は、映画製作時の1952年からまったく問題解決に踏み出していない。改善どころか、むしろ当時より今の方が悪質化したようだ。日々のニュースには、ほとほとウンザリさせられる。このまま日本はどこへ向かうのだろう。今の子どもたちやその次の世代の将来を思うと、不安はつのるばかり。
主人公は志村喬さん演じる市役所の課長の渡辺さん。「役所仕事」なんて揶揄されるように、渡辺さんも無気力無責任のたらい回しの仕事ぶり。部下からは「ミイラ」と影で呼ばれている。日々の仕事は退屈で、まさに「生ける屍」。あるとき自分は末期癌だと知り、絶望の淵に立たされる。
渡辺さんが医者に行く。医者は「軽い胃潰瘍」と、本当のことを伝えない。渡辺さんの余命は半年、長くて一年。当時は不治の病は宣告しないものだったらしい。残酷な宣告だという解釈なのだろうが、やっぱりこれでは嘘の診断なので困る。医者に行く意味がない。医者は渡辺さんの家族にも、彼が末期癌だとは伝えていない。渡辺さんが自己判断で、余命僅かだと決めている。
誰だっていずれ死ぬ。死期がある程度掴めるなら、知る権利はある。そのタイムリミットを意識して、やらなければならない準備もある。人生の終活だってしたい。命に関わることなので、宣告は重要だ。
この映画の面白いところは、作品の中盤で、主人公の渡辺さんが早々に死んでしまうところだ。後半は通夜の席に集まった人たちの回想で、死期を悟った渡辺さんの残りの人生の行動が語られる。
「聞いたか坊主」という表現法。噂話で物語が語られていく。だから立場によって、渡辺さんの生前の行動の解釈が変わってくる。渡辺さんの手柄を横取りして、政治利用しようとする上司や、その上司におべんちゃらしてるだけの者もいる。「俺だって死ぬと分かったら必死に仕事する」なんて、口ばかりの同僚もいたりする。これらは観客である我々の視点と同じだ。
困っている市民を助けるため、公園を作ることに奮闘する渡辺さん。残りの人生を人のために使うことに覚悟を決めた。公園作りを反対する勢力に雇われたヤクザが脅したって、腹が決まってる渡辺さんには響かない。役所の誰もが非協力的だ。部下が「渡辺さんは腹が立たないんですか」と問う。「私には腹を立てている時間がないんだよ」と、孤独な闘いに邁進する。
渡辺さんが死ぬ前に覚悟を決めて公園を作り上げると動き始めた場面で、バースデイソングのメロディが流れる。感動的だ。渡辺さんは自分の死を意識したからこそ、ここで初めて生まれ変わったのだ。
どんなに世の中が腐敗しても、立派な人はいる。経済は、競走があってこそ成立する世界。人を蹴落としてなんぼのもの。経済が生じる場所で立派な人を探しても、姿を表すことはないだろう。利害関係のある場所では、「立派であること」は求められていない。
他人や子どもたちの将来を考え、行動している人はいる。金儲けよりも大事なことがある。誇り高く生きること。それは誰かに認められたいとか小さなことではない。立派な人たちは、皆勤勉で努力家だ。
そんな物語に出てきそうな人に出会うと、その志の高さに純粋に感動してしまう。どんなに川上が濁っていても、立派な人は点々といるものだ。
世の流れをキャッチして、これからどうなっていくのか考察していく。過去の失敗を認め、それを糧に改善していく。過去の栄光にすがらず、功績は尊重する。自分個人の思想だけに執われない。今の子どもたちが如何に豊かな人生を送れるか考えられる想像力と行動力、そして力。無力であってはいけない。
誇り高き人は、経済社会では埋もれがちなもの。『生きる』の渡辺さんのような存在は、表舞台に出ることはほとんどない。如何に汚れた世界でも美しいものを見つけられるか。
渡辺さんは、死を間近にしてこそ生かされた。エイブラハム・リンカーンの言葉ではないけれど、「どれだけ長生きしたかより、どう生きたかが重要」なのだろう。誇り高く死んでいく渡辺さんは、人間らしく終活できたに違いない。
映画の中で、人びとが口ずさむ歌は、英語の歌詞が多い。黒澤明監督が思い描いた日本は、欧米始め世界の文化をすんなり取り込んだ国になっている。
いま経済大国日本の神話も崩れ、自分たちが思っている以上に経済破綻している可能性すらある。先日の武田製薬のアイルランドの会社買収みたいな、これからは日本の会社が外資系と合併していくことが増えるだろう。もう日本だけの国内完結型では、やっていけなくなるのではないだろうか。
日本独自の産業は減り、日本は世界の企業の支社が集まるプラットホーム的ポジションになっていくかもしれない。そうなると今までの国内のあらゆる産業の考え方が変わっていく。それは大変なことでもあるが、そのために新しい精神になっていくことは、とてもクリエイティブだ。
もしかしたらこの改革には自分の世代には間に合わないかもしれない。でも、今の子どもたちが笑いながら、安心して大人になっていける未来を築くことを模索するとなると胸が踊る。考え方の新陳代謝。古きを捨て新しいものを受け入れる。こんなことを想像したら、とても楽しくなってしまった。
映画『生きる』は、完成した公園で遊ぶ子どもたちの姿で終幕する。報われないやるせない印象か、希望に満ちたラストか、どう解釈するかは観客に委ねられている。現実の現代も動き始めている。改革の時は迫っている。
自分も英語の勉強、ちゃんとやらなくちゃだな。
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