『オオカミの家』考察ブームの追い風に乗って
話題になっていたチリの人形アニメ『オオカミの家』をやっと観た。人形アニメといえばチェコのヤン・シュヴァンクマイエルやブラザーズ・クエイなんかがすぐ思い浮かぶ。自分はとくにブラザーズ・クエイが好きで、かつては作品集のレーザーディスクも持っていた。日本でブラザーズ・クエイの個展があれば観に行ったりもしていた。『オオカミの家』の監督は、クリストバル・レオンとホアキン・コシーニャの共同監督。2人組ということで、ブラザーズ・クエイをすぐさま彷彿とさせる。
『オオカミの家』はアート映画に部類する映画だろう。上映館も渋谷のイメージ・フォーラムでやっていたので、当初はカルト的な客層をターゲットにしていたと思う。それが口コミが口コミを読んで、一気に上映館が拡大していった。このようなアート映画が、川崎のシネコンのいちばん大きな上映館で流れてしまったのだから、かなり風変わりな事象。アート映画を大きなシネコンで鑑賞するという体験は、日本ではそうそうできるものではない。これだけのヒットとなるのだから、普段こういったタイプの映画を観ないような客層も動いたのが想像できる。『オオカミの家』がここまで大ヒットしたのは、世界でも日本だけだったとのこと。ホラー映画というカテゴライズで宣伝したのが、功を奏したようだ。
自分はホラー映画が大の苦手。お金を払ってまで、なんで怖い思いをさせられなければならないのかと、まったくもって理不尽な娯楽だと思っている。こちとら平生普段、生きてるだけで恐怖体験の連続だ。それに追加オプションで恐怖体験させられるなんてまったく解せない。ブラザーズ・クエイ好きの自分ではあるが、『オオカミの家』はホラー映画とカテゴライズされてしまった以上は、怖くて鑑賞を躊躇せざるを得ない。宣伝方法の工夫で獲得した客層もあれば、逃げてしまう客層もある。
日本版オリジナルの『オオカミの家』のポスタービジュアルも怖い。予告編のなんと怖いことか。そもそもヤン・シュヴァンクマイエルやブラザーズ・クエイだって悪夢的な怖い映像だった。たいていは作品のテーマを知れば、それほど怖いものではなくなってくる。相手の懐に飛び込んでみれば、案外楽しいことも見つかるもの。『オオカミの家』のテーマは、実際にあったチリの近代史を扱っている。これは深読みしていった方が、さらに怖くなってしまいそう。
『オオカミの家』のビジュアルはとにかく悪夢的。なんじゃこりゃとなる。これを1時間強観せられるのかと思うと、なんともクレージー。こんな映画を喜んで観るのもなかなかだが、つくる方もなかなかだ。もちろん良い意味で。
ホラー映画の人気にあやかったというのもあるが、昨今のアジア作品での考察ブームも作品が盛り上がる追い風となった。なんじゃこりゃとなる映画を、きっと何か意味があると、観客が勝手に頭を巡らせて考察していく。ときにはつくり手の想像を遥かに超えた考察も生まれてくる。個人の感想を公に発表できるネット時代。手の込んだ難解な作品だからこそ、オタクの研究心に火をつける。
考察ブームは、SNSが進んだからこそ誕生したファン活。誰もが気軽に自分の意見を発表できるシステムが、この文化を流行らせた。マニアックな映画を観て、いろいろ感ずることはあるのだけれど、いかんせん観客を選ぶ映画なので話し相手がいない。ネットの向こうの広大な世界には、自分のマイノリティな発言を面白がってくれる人が必ずいる。現実社会では無趣味無関心の「仕事人間」を演じながら、裏ではディープな趣味の世界に身を投じている。そうして精神的なバランスを保っていくのは、現代的な処世術でもある。
そもそも欧米の映画ファンは、ここまで考察好きではない。表現の解釈は観たもの聞いたものそのままで、すべて字義通りに受け止めてしまう。一般的には、深読み文化は皆無に等しい。映画鑑賞は娯楽なので、学術的な資料ではない。娯楽は娯楽。ひととき楽しむための媒体。そこを深掘り研究してしまうオタク脳。日々相手を察することを求められる日本文化の土壌があってこその考察ブームなのかもしれない。
『オオカミの家』はチリの実際の暗い近代史を背景に描かれている。クーデターによって成立したピノチェト独裁政権。元ナチスの残党であるパウル・シェーファーと結託して、管理と支配が横行する施設コロニア・ディグニダを創設する。そこでは異常小児愛者といわれるパウル・シェーファーによる虐待や拷問、殺人が日々行われていたという。『オオカミの家』の主人公マリアは、そのコロニア・ディグニダから逃亡してきた少女。逃亡のよすがとして、空き家に停泊した様子を悪夢的に描いている。タイトルにある『オオカミの家』のオオカミとは、パウル・シェーファーのこと。劇中はマリアの独白のように描かれているが、この『オオカミの家』という動画は、コロニア・ディグニダが製作した作品という設定。架空の作品の真の意図は、パウル・シェーファーの思想の正当化にある。幾層にも視点を重ねてメタ化された語り口。作品のアイデアの起点はシンプルだけど、あえて複雑な語り口にすることで、いろいろと観客をケムに巻いている。1960年代に創立され、現在も形を変えながらも存続しているコロニア・ディグニダ。存命の被害者が大勢いると想像される事件をひとつの作品に仕上げるなど、自分がクリエーターだったなら、怖くて踏み込みたくない領域でもある。
映画が始まって、早速観たのを後悔した。もちろんこれはホラー映画としての褒め言葉。悪夢的な映像で淡々と展開していく。映像も怖いが音も怖い。自分は最初、スピーカーを通して鑑賞していたが、途中からヘッドホンにしてみた。凝りに凝った音響デザイン。耳元で囁かれているような感じ。背筋がゾクっとくる。『オオカミの家』は、ヘッドホンでの鑑賞を推奨する。ウトウトしてしまったら、どこからが夢でどこからか映画かわからなくなってしまう。
ストップモーションアニメを観ると、自分はたいてい気分が悪くなる。これは明るい作品やコメディ要素がある作品の方が、かえって落ち込んだりしてしまう。不思議なもので、ヤン・シュヴァンクマイエルやブラザーズ・クエイのような、真正面から暗い作品の方が、体調は元気なままでいられる。
ストップモーションアニメは、ほぼ個人や少人数で制作される。ライティングの関係で、撮影スタジオに日の光を遮断しなければならない。閉め切った部屋の中で、延々黙々と作品づくりに没頭する。ときには何日も、誰とも接しないで創作することもあるだろう。クリエイティブ活動は、自己を解放する治癒効果もあるが、のめり込みすぎると逆効果にもなりかねない。精神的不健康さが作品に反映されて、観客に伝播するのかもしれない。
この『オオカミの家』は、観ていて清々しい気分にすらなってしまった。こんなに暗くて怖い世界観にも関わらずにどうしてだろう。それはきっとレオン&コシーニャ監督の人柄が反映しているのかもしれない。もっと怖くならならいかと、手を変え品を変え、どうやったら観客を不安な気分にさせる表現かと、きゃあきゃあ言いながら制作している姿がうかがえてしまう。
ホラー映画とコメディ映画は、つくり手の発想が似ている。常に観客の反応を意識して、どうやったら観客を怖がらせたり笑わせたりさせられるか試行錯誤する。つくり手が他人の目を意識しながら、ものづくりをしているので、自然と明るくなってくる。逆に作品自体のテーマが明るくても、独りよがりに近い作品となってしまうと、観せられる方は元気を吸い取られてしまう。ストップモーションアニメは、ハリウッド映画のような大工場で多くの人によってつくられる分業スタイルではない。制作者個人の温度がそのまま観客にダイレクトに伝わってくる。レオン&コシーニャ監督の性格の明るさや子どもっぽさが、作品を通して伝わってくる。
実在した事件を元に、ホラー映画をつくっていくというのは、いささか不謹慎でもある。その真面目なんだか不真面目なんだかわからない微妙な作風が、日本人の性格にマッチしたのかもしれない。コロニア・ディグニダ事件は、1980年代生まれのレオン&コシーニャ監督たちには、子どものころの出来事にあたる。はじめからちょっとファンタジーに近い事件だったのだろう。
実録もののリアルな語り口ならいくらでもできる。コロニア・ディグニダを描いた作品はいくつか存在する。ただどんな視点で描いても暗くなってしまう題材なので、楽しい映画にはなりづらい。『オオカミの家』ぐらいデフォルメして描いてもらわないと、重すぎて鑑賞するのを控えてしまう。史実の根幹は変えずに表現だけ変えていく。つくり手の芸術的センスが問われていく。
現代の日本映画も、戦争を知らない世代が、戦争をファンタジーとして描く作品がヒットしたりしている。なんとも際どくてモヤモヤするが、こういった風化は皮肉にも平和の現れとも言える。深刻な歴史を、面白おかしく取り上げていくサイコパスな感性。エンターテイメントに走った歴史ものであっても、その舞台となった歴史を調べたくなるのであれば、つくり手に真摯な姿勢があるのだろう。最近はちょっと紛い物の歴史作品ばかり。所謂「歴史改ざん系エンタメ」が横行しつつある。それはエンタメのあり方としては、あまりいい傾向ではない。
レオン&コシーニャ監督のこの映画への着想は、きっと壊れた精神世界をビジュアル化できないかということがアイデアに先行しているだろう。精神疾患を患った人が見る幻覚世界を具現化する。ただただ不気味な映像をつくっても、とっかかりが弱いので、具体的なモチーフはないだろうかとコロニア・ディグニダにたどり着いたのではないだろうか。不条理映像の理由づけとして、逆算して辻褄をあわせていく感じ。
ただセンセーショナルだけを狙っていただけなら、ここまで観客の興味は惹かない。ちゃんとコロニア・ディグニダの思想をおさえたうえで、作品への落とし込みがあることが大事。「あなたはチリ人ですか?」みたいな意味深なセリフは、意味がわからなくとも怖い。マリアがイマジナリーフレンドとしている豚は、やがて擬人化される。豚の化身は、最初は有色人種なので移民を意味している。豚が丸焼けになって生まれ変わった姿は、ブロンドの白人となる。白人で生まれることが、最高の幸せだと言わんばかり。さりげなく白人至上主義のレイシズムの価値観が見えてくる。
マリアは三匹の豚を逃したと冒頭にオオカミが言っていた。もしかしたら、マリアだと思っていた人物も、逃げた豚なのかもしれない。
マリアたちが部屋に描かれた絵で表現されたり、人形になったり変幻自在に登場する。夢の中の登場人物が、いつのまにか別の似た人に変わっているのにも似ている。まるで生成AIでつくられた動く写真の映像にも似ている。ただ生成AIがつくる映像は無責任で、動画の最初と最後では、人物がまったくの他人になっていたり、景色が日本からいつの間にかヨーロッパに変わってしまったりして、辻褄が合わなくなってしまう。それはそれで不気味な映像ではある。けれども、創作者があえてビジュアルをずらして同一人物を描くストップモーションアニメでは、キャラクターデザインが壊れているようで壊れていない。最低限の約束ごとが根底に流れている。法則のある不安定さ。それが執着のある悪夢っぽい。
チリでは国が映画づくりに助成金を出してくれるとのこと。文化もひとつの産業と捉えているのだろう。チリでは国が助成金を出したからと言って、作品の内容に干渉してきたりしないという。なんというおおらかさ。日本では、カネを出したからには口も出すのがあたりまえ。表現の自由が許されるのは羨ましい限り。『オオカミの家』は政治的な内容でもある。それが堂々と海外に発表されている。「ロックで政治を語るな」と言っていた人もいるが、サブカルチャーはカウンターカルチャーも含んでいるので、本来ならば「ロックだからこそ政治を語るべき」なのかもしれない。
そんな国情の違いがあれど、日本では日々、多岐にわたるジャンルの映画がつくられている。支援者が少ない中、貧しいながらに工夫して映画づくりをしている日本のクリエーターたちの凄みも感じる。日本のアニメも外資系出資で制作される作品も増えてきた。日本は独自でなんとかしようとするのではなく、企業買収など、他国からの資金源で生き延びる方向に舵取りが始まりつつある。それでも日本のアイデンティティーはなんとか守られそう。なぜなら、その海外出資者たちは、日本のカルチャーに敬意を持っているから。
映画づくりをはじめ、日本の産業が、先進国ではいままでなかった道を歩み出している。
『オオカミの家』という作品を通して、チリという国の近代史を知り、自国のサブカルチャー事情も考えさせられる。かなり不思議な映画体験だった。
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