『ボーはおそれている』 被害者意識の加害者
なんじゃこりゃ、と鑑賞後になるトンデモ映画。前作『ミッドサマー』が面白かったアリ・アスター監督の最新作『ボーはおそれている』。自分はホラー映画が苦手。評判だった『ミッドサマー』もなかなか触手が伸ばせないでいた。『ミッドサマー』は、ホラーなのに可愛らしい雰囲気がずっと気になっていた。映画鑑賞後は、面白かったとはいえグロい場面の連続にやはり少し凹んでしまった。歳をとってきて、ホラーに対する耐性が弱ってきている。同じアリ・アスター監督作の『へディタリー』も評判だけど、やっぱりかなりの鬱映画らしい。体調の良いときに、じっくり自分自身に相談してから鑑賞する覚悟が必要。観たいけど、観たくないというやるせなさ。
アリ・アスター監督の最新作『ボーはおそれている』も、日本公開が始まると相変わらず評判が良かった。ホラーコメディと言われているが、ホラー要素の方が強そう。3時間の長尺上映時間も体力が心配。コロナ禍以降、洋画作品の人気が低迷してしまった。どこのシネコンも洋画の上映には力を入れていない。案の定、近所の映画館でも『ボーはおそれている』は、1日1回、朝早くか夜遅くの上映と、観づらい時間帯に追いやられている。それではこの映画は観れないねと、ホラー恐怖症の自分にすぐさま後回しにする言い訳をみつける。『ボーはおそれている』は、配信まで待つことにした。
最近の洋画作品は、劇場公開から2ヶ月もしないうちに配信が始まってしまう。それにしては『ボーはおそれている』の配信開始は遅かった。すっかりそんな作品の存在も忘れてしまっていた。これだけ社会も目まぐるしく情報過多だと、一瞬興味が湧いた作品でも、すぐさまその存在を忘れてしまう。ふと、そういえばあの作品どうなってるかなと思い出しても、タイミングが合わなければそれきり。はたして映画が持つ魅力が薄れてしまったのか、自分の感受性が弱まったのか。映画を自力で積極的に探して行こうという気分にはならなくなってきている。
『ボーはおそれている』のプロモーションで、アリ・アスター監督が来日した。日本の多くの著名人と対談もしていた。中でも『映像研には手を出すな!』の作者・大童澄瞳さんとの対談が興味深かった。大童澄瞳さんは、デビュー当初から自身が発達障害であることをカミングアウトしている。『映像研には手を出すな!』の主人公・浅草さんにもその症状の姿が反映されている。そんな大童さんが、アリ・アスター監督に『ボーはおそれている』の率直な感想を語る。自分の頭の中の思考の流れが、そのまま映像になったみたいですと。
『ボーはおそれている』は、発達障害の知り合いからも、まるで自分の脳内の出来事のようだと言われたとアリ・アスターが返答していた。アリ・アスターは、自分には特性はありませんよ、みたいな言い方をしている。いやいやどうして、あの映像感覚を表現したいと思う感覚は、特性を持つ人独特のものでしょう。
「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くで見ると喜劇」とはチャーリー・チャップリンの言葉。『ボーはおそれている』は、まさにそれをそのまま映像表現した映画。
ホアキン・フェニックス演じるボーは、初老がかった中年おじさん。うだつのあがらない神経質なこの男は、いつも何かに怯えている。ホアキン・フェニックスといえば、最近では『ジョーカー』のイメージが強い。彼が演じるジョーカーは、精神疾患を抱えており、国からの補償を止められたことなどの生活苦から徐々に狂っていく。その顛末で悪のカリスマ・ジョーカーへとなっていく。ジョーカーが最初から悪人ではないところがポイント。弱者に冷たい社会が、極悪人をつくりだしていく過程が、ホアキンの『ジョーカー』では描かれていた。映画を観ていてなんだか自分の身の回りにもジョーカーがいるのではないかと、はたまた本心では自分もジョーカーになりたいのではないかと不気味な気分にさせられた。
『ボーはおそれている』の主人公・ボーもはっきりと描いていないが、何某かの精神疾患を抱えている。もう生きているだけでストレスみたいな精神状態。ボーの生きる世界では、何もかもが冷たく暴力的。自分が住むスラム街も怖いし、意味不明のクレームを投げかけてくる隣人も怖い。服薬を忘れると襲ってくる発作も不安だし。水道とかライフラインが途絶えているのも怖い。母親はしつこく自分の都合ばかり押し付けてくる。生きているだけで怖いことばかり。だからといって死ぬ理由もない。
映画は、見せすぎない映像や音の表現で、巧みにボーの恐怖心を演出している。デイヴィッド・リンチやコーエン兄弟、最近だとヨルゴス・ランティモスなんかの不条理な映画と同じタイプの語り口。ボーの身辺で起こっている出来事が、実際にボーの身に起こっていることなのか、彼の脳内だけで見られている幻覚なのか、境い目がわからない。この映画で起こっている事柄が、すべてがストーリー上の現実かは疑った方がいい。自分が正しいと思っている感覚が、案外あやしいということもある。まずは己の感覚を疑うべし。
現実社会でも「自分は普通」と言いきれてしまう人ほど信用できないものはない。そもそも普通という概念はなんなのか。10人いたら10通りの普通がありそうにも関わらず、しれっと「自分は普通」と言い放つ。多くの人がカスタムメイドで安易な世間一般論や普通信仰に人はすがりがち。「自分は普通」と言いきってしまう感性は、「もしかしたら自分は普通ではないかも」というおそれを封じ込める呪文の言葉なのかもしれない。
ものごとは思った方に引っ張られていく。悪いことばかり考えていると、悪い状況に陥りやすい。逆に楽しいことを常日頃考えていると、楽しいことを呼び寄せてくるから、それも不思議。だからこそ思考の向く方向には気をつけなければならない。
『ボーはおそれている』の映像表現が、発達障害の頭の中に近いのなら、ボーの過集中的な思考の現れが当てはまるのかもしれない。でもボーの抱く恐怖心は、パラノイアの症状だろう。怖がらなくてもいいことで怖がって、それが現実になってホッとする。「狼が来た」と狂言を言っている少年の童話がある。その狼少年は、本当に狼が村を襲ってきたときホッとしている。ほら、自分は嘘つきではないよと。
現実でも、悲観的な社会を宣言する活動家が、世間から相手にされなさすぎて、テロ行為に走ってしまうなんて怖い事例もある。社会に警鐘を鳴らしていたはずの正義の人が、社会悪の権化になってしまう。だから自分はずっと警告してたのに。自分を認めなかった社会の方が悪いと責任転嫁する。ボーはずっと被害者ヅラをしているが、はたして世界はそこまで彼をいじめているのか?
自分が思っているほど、周りの人は自分のことなど気にしていない。みんながみんな、自分が生きるので精一杯。わざわざ相手をいじめにくる人なんて、その人の方が頭がおかしいに決まっている。頭が通常運転なら、トラブルが起こらない生き方を人は選んでいく。自分からトラブルを起こして喜んでいる人ばかりが、ボーの周りに集まってくる。もうそれだけで異常事態。
『ボーはおそれている』には、さまざまなメタファーが隠されていそう。考察好きなオタク心をくすぐるけれど、きっとその考察にはあまり意味がない。それよりもボーのコンプレックスを紐解いていった方が、自分の人生の役に立ちそう。ボーの幻覚には意味がある。やり逃したことが多い人生。なにより上手に親離れができなかった人なのがわかる。
子どもにとって親との関係は、最初に出会う社会でもある。幼少のころは、親の目を通して社会を見ていく。子どもも自我に目覚めている段階で、親と自分は別の人格を持つことを知っていく。親と自分は別の人なので、必ずしも意見が合うわけではない。同じものを見て同じ空間に生きて、同じものを食べてきたにも関わらず、感じるものが違う。それでいい。でもそれでいいにも関わらず、ときとして親と子がいつまでも同じアイデンティティであるかのような錯覚に陥ってしまう。
上手に親離れ子離れができないと、両者ののちの人生に淀みが生じてくる。親は子に過干渉となるだろうし、子も親の承諾がなければ何も決められなくなってしまう。ボーの現状がそれにあたる。親と別居しても、その過干渉の影響は薄らぐことはない。子どものころに刷り込まれた感覚は、意識しなければ一生まとわりつくこととなる。当然ボーは、まともな恋愛もできなくなっているだろう。そのコンプレックスが、彼の妄想の中で炸裂する。
パートナーをつくること。家族を持つこと。子どもを持つこと。とりわけ性のこと。親離れする人生のポイント。それらはもっとも過干渉の親には相談できないこと。そのじっとりとまとわりついた、ボーがやっておきたかった人生のイベントへのコンプレックス。観ている人にこれでもかと、痛々しいイマジネーションで迫ってくる。人生の忘れものが気になっていると、この映画はかなり身につまされてしまう。他人ごとではなくなってくる。
ボーの行き過ぎの被害妄想の幻覚は、鑑賞者にクスクスとした笑いと恐怖心を与える。そんなわけねーだろと、小さく突っ込んでしまう。でもボーの悲観的妄想は、想像し得る最悪の状況へと常につながっていく。対処策はないの? そんなものはないよ! ボーはマイワールドにどんどん閉じこもっていく。そしてどんどん最悪の顛末へと向かっていく。
自分の人生において、たまに違和感を感じることがある出来事に遭遇する。それは人生の分岐点。進学や就職、結婚、家族が増えたり、誰かが亡くなったり。そのとき人生の選択を迫られる。そこで感じる違和感。その違和感はとても大事。
自分が選ぼうとしている選択が、一般常識のように語られることとは少し違うときもある。自分の感覚ではそちらへ行きたくないときは、その感覚に従った方がいい。
例えば、年老いた親とは同居して、最期まで面倒をみてあげる。美しい理想論ではあるけれど、必ずしもその通りにいくとは限らない。もしその親が、典型的な毒親ならばどうだろう。ボーの親は、社会的には成功者らしい。だからこそ親は自分の人生に自信がある。親である自分の人生は正しいので、それを子どもにも辿らせようとする。ただそこでその子の個性というとのが無視されていることを忘れている。よくある話では、政治家や医師で名をあげた人物の子が、その資質がないにも関わらず世襲させられてしまうパターン。そうなると当事者も周りで振り回される人たちもたまったものではない。子に無理矢理合わないものを押し付けてくる親は毒親だ。そんな親とは、早々にきっぱり縁を切った方がいい。
ただこの決断はかなり勇気がいる。世間一般的な常識からすれば、親と縁を切るなんてとんでもないこと。幼少のころ、世界のすべてだった親の視点を全否定することにもなる。それでも自分が感じている違和感を信じてみる。人生の帰路についたとき、その先が想像できるか否かが選択基準。またもしその親子両者を知っている距離のある人物がいたならば、大事なときに何かアドバイスはしているもの。それを聞き逃すことが、人生においての損失にもなりかねない。結局、今の自分に都合のいいことばかりに耳を傾かせて、嫌なことはシャットダウンしてしまう習性を正していかなければならないようだ。より良い人生を送るためのヒントは、あちこちに散らばっている。
おじさんは黙って佇んでいるだけで圧がある。そこにいるだけで怖い存在。ボーのような子どものまま何もせずにおじさんになってしまった人は、人生でその時々に迎えなければならない儀式のチャンスを逃している。精神年齢は子どものままで、外見だけは歳をとってしまっている。でも他社から見えるその人の存在は、威圧感のあるおじさんそのものでしかない。見た目と中身の乖離。そこが多いんる問題。自己理解の必要性。たとえ中身が子どものままであっても、大人を演じなければ、社会から変人扱いされてしまう。ボーに対しての社会の敵意は、いつまでも見た目通りに演じきれない、大人になれない存在への敵意かもしれない。
『ボーはおそれている』は、長尺な映画なので、酒でも飲みながらちびちび観ることにした。ほろ酔い加減の頭の中で、この映画を観るのはかなりトリップする。ストーリーらしいものがないので、途中ウトウトしてしまう。それが良かった。夢うつつで観る映画。どこからが自分の夢で、どこからが映画の映像だったのかわからなくなっている。映画を観ながら、映画には存在しない場面を上映中観ていたかもしれない。もし『ボーはおそれている』をもう一度観たら、観たこともない場面に出会ったり、観たはずなのに無くてっている場面があるかもしれない。
『ボーはおそれている』の主人公は、ことごとく受動態で、どんどん自身の状況を悪化させていく。何もしないことの罪。我々はこの被害妄想の主人を通して、幻覚の擬似体験をしていく。『ボーはおそれている』は、新しいタイプの体験型アトラクションムービーなのかもしれない。
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