ミュージカル映画『ラ・ラ・ランド』の評判は昨年末から日本にも届いていた。たまたま自分は日本公開初日の夜に予定がついて、この映画を観た。話題作の初日もあってか、プレミアムフライデーなるものの初日効果もあってか、平日にもかかわらず映画館は大入り。

映画はシンプルなストーリーに、歌にダンスに恋と、楽しい要素でてんこ盛り。新旧名作ミュージカルのオマージュも散りばめ、驚くほどオーソドックスなつくり。監督のデミアン・チャゼルは32歳。若い監督なのに、トンがった演出の匂いはなく、肩の力が抜けた徹底したエンターテイメントぶり。

いま世界は殺伐としたニュースばかり。みんなが落ち込んでいる世の中だからこそ、明るく楽しいシンプルな作品を観客が望んでいる。時代性をしっかりとらえた企画だ。

映画が始まる。音楽に乗ってスルスル物語が進んでいく。恋の始まりのフワフワ感は、ミュージカルの非現実的なファンタジー性に似てる。そういえばずっと長回しでカット割りしてないぞ。どうやって撮影してるんだろ? なにげにハイテク映画だ。

主役のピアニストを演じるライアン・ゴズリングのキーボードを叩くさまのカッコイイこと。ただ演奏の指が合っていればいいのではなく、楽器も自我の延長と、演奏そのものもキャラクター化してる。もうこっちもショルキー担ぎたくなってしまう!

ヒロイン役は当初『ハリー・ポッター』のエマ・ワトソンが配役されていたらしい。途中でミュージカルつながりで、ディズニーの大作『美女と野獣』に鞍替えしたらしい。おかげで役がまわってきたエマ・ストーンは、オスカーまでゲットしてしまった! すっかりスパイダーマンのガールフレンドのイメージを払拭できた。ネームバリューのある『美女と野獣』と、かたや小品の『ラ・ラ・ランド』。作品選びもシビアだ。女優たちの作品選びの顛末も今後のみどころ。

「表現者のこだわり」についてが、この『ラ・ラ・ランド』のテーマ。自分がやりたいことと、世の中が望んでいるものとは乖離があるもの。才能がある人は、常に先見の明があり、時代より数歩先の場所を見ている。だから凡人には突拍子もないエキセントリックなことを言う人にしかみえなかったりする。数年たってその言葉の意味がわかるなんてことはよくある。実はその才人から発言は、道理にかなったしごく当たり前の言葉だったのだと、後になって気づくもの。凡人の我々に理解力がないだけなのだ。

以前ラジオで「映画とファッション」という題目の番組を放送していた。90年代を中心に流行した映画のサントラがかかりまくる。どの曲もどの映画もハマったものばかり。楽しくなるのかと思いきや、だんだん違和感を覚えはじめた。当時はトンガリまくってた作品たちも、時代を経てすっかりスタンダードになってしまった。すでに誰もが良いものと認められた過去作品を、「いいでしょ?」って陳列されてしまうと、かえってダサく感じてしまう。

MCはママさんモデルと、有名輸入雑貨のフラグ店の店長。なんびとたりとも文句がつけられないオシャレ番長たち。発言する人によって情報はパワーを持ってしまう。

大衆は個性的なものを望んでいるようでいて、やっぱりわからないものは受け入れられない。先を行っているようでいても、普段見慣れたもののアレンジぐらいでないと、ヒットすることはない。

才人からすると、なんとも物足りないレベルまで敷居を下げないと、周囲は認めてくれない。ある意味妥協しなければ、なかなかそれでメシは食っていけない。じゃあ魂を売って、やりたくもないことをやればいいのかとなるが、それはそれで違ってる。その「己のこだわり」と「大衆の求めるもの」との折り合いをつけるのも、表現者のセンス。

「己のこだわり」を引っ込めただけで、成功する人もいる。こだわり続けた方が表現者としてはカッコイイが、もしここで協調して上手く乗っかったとしたら? 次の高みについてしまったら? きっとみえてくるもの、できることが変わってくる。こだわり続けて固執しているだけなら、ただこのままで終わっちゃう。次のステージに上がる賭けも時には必要なのかと。

金銭的なギャンブルは身を滅ぼす。でも人生において、適材適所でギャンブルをしていかないと、やはり緩やかに身を滅ぼしてしまう。

若き32歳の映画監督は、表現者としてのこだわりをどのようにして折り合いつけたのだろうか? そんな想像を巡らせてしまう映画だった。

ちなみに主人公ミアのボーイフレンドたちが語るくだらない話は、ホームシアターについて。いま自分もホームシアターを検討中だったので、爆笑してしまった。晴れてマイ・ホームシアターが完成の暁の頃には、きっと『ラ・ラ・ランド』もソフト化されていることだろう。そのくだらないホームシアターで、『ラ・ラ・ランド』がヘビーローテーションされるのはほぼ確実だろう。