『さらば、我が愛 覇王別姫』 眩すぎる地獄
2025年の4月、SNSを通して中国の俳優レスリー・チャンが亡くなっていたことを初めて知った。没後すでに20年以上経っている。異国の俳優さんのその後など、日本で報道することはあまりない。当時のニュースを見逃してしまえば、それきりその話題に触れることもない。レスリー・チャンの命日は、自分の誕生日と同じ日。なんだか縁を感じてしまう。
『覇王別姫』は、映画の公開当時の90年代にWOWOWのテレビ放送で観た記憶がある。2023年には映画公開30周年を記念して、4Kレストア版も公開されたとか。それすら知らなかった。古い映画がブラッシュアップされてリバイバル公開され、再び話題となるのは、日本では珍しいことではない。むしろ最近では定番の流れ。公開当時を知る映画ファンが、懐かしい心持ちで映画を観にくる。または前知識がまったくない、まっさらな状態の若い客層が、よくわからないままこの映画を観に来たりもする。
中国では古い映画が数年後に再燃することはほとんどないと聞く。4Kレストア版をお金と手間暇をかけて、丁寧に仕上げて再び劇場に流す。それを楽しみにする客層があるというのは、日本独特の文化なのだろう。映画は永遠に残っていくものと捉えているのは、日本の映画ファンだけなのかもしれない。
自分が配信で観た『覇王別姫』も、どうやらレストア版らしい。明らかに公開された当時よりもきれいな画質になっている。記憶というものはいい加減で、もしかしたらオリジナルよりも高画質になった映画を観直しても、初めて観たときの映像の記憶も記憶の中で美化してしまっている。それこそ、いちばんきれいだったものを経験して観ていたような錯覚に陥ってしまう。当時観たものと今観ているものが別物だったとしても、それをすぐ忘れて都合のいいように脳内補完してしまう。
いま国内で話題となっている日本映画『国宝』。歌舞伎の世界に人生を捧げた人物の物語。すぐに『覇王別姫』の日本版かと思い浮かんだ。映画『国宝』の李相日監督は、『覇王別姫』からの影響を語っていたので、やっぱり当たっていた。李相日監督の過去作『フラガール』も、『エリン・ブロコビッチ』や『リトル・ダンサー』からの引用がある映画だった。李相日監督は、熱烈な映画ファンで、念願叶って映画監督になれた人なのだなぁと、しみじみ感じてしまう。
『覇王別姫』を初めて観たときは、自分もまだ20歳前後だった。身寄りのない子どもに、体罰をさせながら芸を仕込んでいく世界。なんとも非人道的な恐ろしい映画。どこの国でも、芸に精通するためには、厳しい修行のもと行われているのはいまだ否めない。自分がこの映画を始めて観たとき、子どもたちが虐待されている姿を観て、かなり辛くなってしまった記憶がある。中国近代史にも疎かったのと、多様性の恋愛感情など知らなかった自分には、どこに気持ちを向けていいのか、拠り所がみつけられなかった。
年齢を重ねた今なら、きっとこの映画も理解できるのではないだろうかと思っていた。いつかは『覇王別姫』をもう一度観てみたい。でもこの映画は3時間も上映時間がある。果たして集中力が持つだろうか。そんなとき、配信サービスでの映画鑑賞は都合がいい。観たいときに映画を観て、疲れたら中断して観直すこともできる。いざ『覇王別姫』の再生ボタンを押すと、そんな心配も稀有にすぎないと知る。むしろ3時間があっという間だった。こんな壮絶な映画が理解できなかったとは、過去の自分が如何に愚かだったと思い知らされる。
人が生きていく上でさまざまな人生経験を積む。そこで感情の引き出しが増えてくる。歳をとることで、かつてできたことができなくなってくる不安もあるが、映画を楽しめる感性が磨かれてきたということはとても喜ばしい。加齢が一概に悪いことばかりでもないということを知る。
京劇の裏舞台と中国の近代史に翻弄される主人公たちを描くこの映画。この主人公たちが、当時を生きた市政の人ではなく、特別な存在の人であることをあらかじめ心得ていないと、この映画が理解しがたくなる。そもそも現代の観点からすれば、大人が子どもを虐待して芸を仕込むなど、とても許されることではない。今の感覚からすれば、暴力的な師匠に子どもたちが我慢していることに苛立ちすら感じてしまう。子どもたちが体罰師匠に蜂起して、やっつけてくれないかと望んでしまう。芸を叩き込むという言葉があるが、暴力を振るったところで、できないことができるようになるとは到底思えない。人には向き不向きがある。求められていることに己の才能が向いていなければ、その子はそこに居場所がなくなる。この映画の主人公の二人は、この業界での才能があった。だから花形スターになれた。それ以外の人生を想像するだけで恐ろしい。この非人道的教育の描写は、のちの日本のアニメやマンガに影響を大きく与えている。あれから何度も似たような場面を見たような気がする。
この『覇王別姫』に登場する人物たちは、誰ひとりとして幸福な人生を送っていない。この憎むべき体罰師匠も、かつては自分も暴力のもとに芸を仕込まれてきたのだろう。この映画の主人公たちが大人になって、晴れて体罰を受ける側でなくなったとき、残念ながら時代が変わってしまった。中国文化大革命時代の到来。すでに有名人となっている主人公たちは、育てた子どもにも裏切られたり、群衆から弾圧を受ける格好の対象となっていく。もしかしたら体罰師匠がこの映画の中でいちばん幸せな人だったのかもしれない。歪んだ自分の思想が生涯壊されることもなく、自分の思い通りのまま、芸の中で一生を終えていく。時代の流れも知る由もない。自分が信じたものを批判されたり、弟子から裏切られたりすることもない。間違った人生だけど、本人はそれに気づかない。ザ・お山の大将。
華やかな京劇の世界を描きながら、その裏舞台は地獄絵図。人を感動させる芸能の世界でも、その花形スターは荒んだ人生を送っている。誰もが憧れるスターにも関わらず、本人は人権無視の待遇を受けてきた。誰よりも憧れの存在でありながら、誰よりも自己肯定感が低くなっている。なんとも皮肉。荒んだ幼少期を迎えてしまった人は、心も壊れてしまう。あらかじめ不幸を約束されてしまった人生。想像するだけでも恐ろしい。自死してしまった主演のレスリー・チャンの人生そのものも、この映画と同じようなものだったのではないかと思われてしまう。背筋が凍る。
芸能の世界というと、貧しい家の子が一攫千金を狙って夢を掴むというイメージがずっとあった。でも現代では、芸能活動も英才教育のひとつとなっている。芸能活動は、初期投資がかなりかかる。実家が太くなければ芸能人にもなれない。もしそれでも夢が掴めるのなら、どんな汚い道を歩むこととなるのだろう。それに我々観客が本当に観たいのは、けして貧しいものではなく、表面的にも内面的にも豊かな存在。育ちのいい芸能人が、品の良い芸を披露してくれる。そちらの方が夢としては尊い。夢を築くことは現実の作業。その裏を見たところで、表舞台とあまり変わらない方が怖くなくていい。
この映画にはきれいなものや、きれいな人がたくさん出てくる。でも描かれているのは、人の業や浅ましさ。映画鑑賞後は、なにか血反吐の中を駆け抜けたような印象が残ってくる。戦争映画を観たあとの感覚。体調にズンとのしかかる。
最近では芸能界の仕組みも、一般的に誰もが知るようになってきた。豊かな教養を得た豊かな心を持つ人物が表現者であれば、どんなに素晴らしいことか。そしてその道は誰かに強要されたものではなく、自分自身で憧れて目指したものであって欲しい。誰でもなれるものではないからこその真のスター。ただ、『覇王別姫』の魅力は、儚く眩い人生像からくるものでもある。大いなる矛盾。エンターテイメントは誰かの犠牲のもとに成り立つ商売なのか。それこそ中世までは、処刑すら娯楽のひとつだった。文化のあり方がその時代の成熟の表れでもある。そうなると文化大革命も、若者たちの最大の娯楽やガス抜きでしかなかったのだろうか。世界的にも芸能界のスキャンダルが表向きに批判されるようになってきた現代は、新たな文化の過渡期に来ているのかもしれない。
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