『落下の解剖学』 白黒つけたその後で
フランス映画の『落下の解剖学』が話題となった。一般の映画ファンも話題にしていたが、なにより海外の大きな映画賞を騒がせた作品でもある。サスペンススリラーということで、怖い映画なのはわかる。前情報はあまり入れないで、多くの「面白い」と言う言葉だけを信じて観てみることにした。
『落下の解剖学』は、カンヌ国際映画祭で、最優秀賞のパルムドールを獲っている。この映画でバルムドッグ賞というのがあるのを初めて知った。優秀な演技の犬に贈られる賞とのこと。『落下の解剖学』でも、登場するワンちゃんの演技は、作品にとってとても重要なものとなっている。どうやってあの演技をトレーニングしたのか。まさか虐待なんてしてないだろうねと、観ていて心配になってくるくらいの名演。はたして『落下の解剖学』のワンちゃんが、パルムドッグ賞を貰ったところで本人(本犬?)はよくわからないだろう。ワンちゃんからしてみれば、トレーナーの指示に素直に従って、そのトレーナーが喜ぶ姿が嬉しくて演じていただけだろうに。まあパルムドッグ賞は、映画祭側のユーモアであり、贈る側の自己満足的なものだろうけど。
『落下の解剖学』は、いくら面白いと言われても2時間半の上映時間には躊躇してしまう。どんなに評判が良くても、それだけの長尺時間を確保して、落ち着いてずっと座って映画鑑賞するには、今の世の中には不安が多すぎる。配信で休み休み観ていくのが、最近の長尺映画との付き合い方となってきた。
人里離れた山荘に住む女流作家の一家。作家の夫が、家の最上階の窓から落ちて亡くなってしまう。それを弱視の息子と飼い犬が発見する。自殺と他殺の両方から捜査が行われる。嫌疑が女流作家へと向けられ、映画は法廷劇へとなっていく。
サンスペンスタッチの法廷劇というと、アメリカ映画の印象が強い。でも『落下の解剖学』はフランス映画。法廷劇の今までのイメージとはひと味違う雰囲気が漂っている。
主人公の女流作家サンドラはフランス在住のドイツ人。フランス語よりも英語の方が話しやすいと、法廷では英語とフランス語の両方で答弁する。会話に英語が入ることで、作品が国際配給を目線に入れていることがわかる。サンドラはドイツ人なので、英語も母国語ではない。発している言葉が、はたして本人の放つ字義通りの意味なのか怪しくなってくる。言語の壁は、ことの真意を藪の中へと誘う効果も含んでいる。
女流作家のスキャンダルということもあって、世間の好奇の目も向いてくる。それがまた数多の情報を生み出して、真相が埋もれてくる効果となっていく。
この映画を観た男女のカップルが、映画鑑賞後、この映画の真相を語り合うとききに意見が割れるという。本気で口論になってしまったなんて言葉をよく見かけた。ますますこの映画に興味が湧く。
監督はジュスティーヌ・トリエ。最近はあまり日本では目立たなくなったフランス映画。今回初めて知った監督さん。ジュスティーヌ・トリエはパートナーのアルチュール・アラリと共同でこの映画の脚本を書いている。真相が見えてこない法廷劇。脚本では、女の目線と男の目線で、現実の見え方も変わってくる不思議の工夫が表現されている。
この映画の夫婦は、妻の方が仕事に成功していて、夫が劣等感を抱いている。多感な妻は、自由奔放でバイセクシャルでもある。もう夫の立場はない。そんな破天荒な才女がパートナーだったら、同じ路線で競わない方がいい。ただその割り切りまでには、かなりの勇気がいる。
映画にはイケオジがたくさん出てくる。亡くなった主人公の夫もイケオジ。主人公の友人でもある弁護士もイケオジ。カッコいい魅力的なおじさんがいっぱい出てくるのも、監督が女性だからなのだろうか。あんなおじさんになりたいなと思っていたら、そのイケオジを演じるおじさんたちは、みんな自分よりも歳下。自分も歳をとった。「あんなおじさんになりたい」ではなく、「あんなおじさんになりたかった」と、過去形を使った方が相応しい。自分の実年齢に軽く衝撃を受ける。
映画の展開は先が見えない。映画というひとつの作品だから、なにがしかの決着は上映時間内についてくるだろう。法廷劇だから、いつかは判決もくだされる。証拠のない裁判。証言者たちが皆がみな、自分の憶測だけでこの事件を語る。
実際、裁判はしない方がいい。勝っても負けても傷つくのは自分。裁判沙汰にならないように生きていきたいものだが、避けられない場合もある。この映画を観ていると、明日自分にも降りかかりかねない嫌疑でもある。もしこれが無実だったら、これほど理不尽なことはない。
情報が錯綜して、もうなにがなんだかわからなくなってしまう。正直、弁護側も検察側も、ことの真相よりも裁判に勝つことの方が大事。被疑者は負ければすべて失ってしまう。でも、勝ったからと言って何かを得られるわけではない。単純に、嫌疑をかけられる前の状態に戻るだけ。そうなると、ただ夫を事故で失った寂しさばかりが残ってしまう。嫌疑をかけられた心の傷も一生つきまとう。ハッピーになることはない。
確かな証拠のないまま裁判は進んでいく。憶測か真実かわからない多くの情報がどんどん浮き彫りにされていく。情報の大洪水。まるで言いたい放題のネットのタイムラインのよう。ふと、思ってもいなかった弱視の息子に、すべての判断が委ねらる。その証言次第で、この裁判の判決がくだってしまう。白黒はっきりさせる責任が、その小さな肩にのしかかる。
今までの映画なら、その裁判の判決で映画が終わる。でもこの映画でいちばん言いたいところはそこではない。判決がくだれば、世間にとっては「他人の不幸は蜜の味」というショーの幕が降りただけ。やれやれとショーから帰路に着く。他人にとってはそれで終わり。
当事者たちからしてみれば、判決がくだろうが日々の生活には変わりない。変わらないが故に、嫌疑も変わらない。家族にとっては、周りが騒いで引っ掻き回されて、自分たちで決着をつけさせられただけのこと。真相は藪の中のまま。いったいあの騒ぎはなんだったのだろう。
物語というものは、話しを完結させるために、どこかで決着をつけなければならない。でも現実はそうも簡単に白黒つくものではない。ごめんと謝られたところで、それをきっぱり許せるような単純さはない。傷が癒えるのには時間がかかる。もしかしたら一生その傷を背負わなければならなくなるかもしれない。相手の非礼を謝られたらといって、許せなければ心が狭いと世間は言うだろう。この感覚も一方的な暴力。
ブラック企業に勤めた人が、企業を訴える。それでもし裁判に勝ったとしても、受けた傷は癒えることはない。もしその企業に留まるつもりでの訴えだったのなら、訴えた相手と今後も肩を並べてはたして働けていけるのだろうか。生きている中で、勝ち負けを考えてしまうと、途端に生きづらくなってくる。
森羅万象あらゆる事象に、これといった勝ち負けがないように、人生でもそれほどはっきり物事が割り切れるものではない。勧善懲悪の思考だと、モヤモヤしてしまう。割り切りれないものを追求してみても、わからないのだから仕方がない。その深淵は覗き込まずに、そのままそっとしておいた方が良さそうだ。
通常の物語は基本的には勧善懲悪で描かれていく。『落下の解剖学』は、あえて勧善懲悪に疑問を投げかける。この作品で描かれるべき真実は、結局どこへ行ってしまったのだろう。人は神にはなれない。無力さとそこはかとない不安な気分を漂わせだまま、映画は終わっていく。法廷劇なのにスカッとしない。観る人によって結末の意味が変わってくる不思議な読後感。もうわからないから、時が解決するのを待つしかない。わからないから、そっとしておこう。
結局、人の心の中は本人にしかわからない。相手の気持ちを察することも大事だが、それにも限界がある。自分の気持ちはこじらす前に、つどつど口にしていった方がいい。それもコミュニケーションのより良いあり方。騒がない慌てない。気になっても気にしない大人の感性を試される映画だった。
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