『オッペンハイマー』 自己憐憫が世界を壊す
クリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』を、日本公開が始まって1ヶ月以上経ってから映画館で観た。コロナ禍以降から、洋画ファンがすっかり映画館で映画を観なくなってしまった。客足の少ない洋画は、公開2週目にもなると、シネコンでは1日一回の上映で、観づらい時間帯に追いやられてしまう。それでもなにかと話題作の『オッペンハイマー』、どこかの映画館では観れると踏んでいた。
ゴールデンウイークから、みなとみらいにオープンした新しいシネコンの『ローソン・ユナイテッドシネマみなとみらい』での鑑賞。この劇場では『FLEXOUND』システムという独自の音響システムが搭載されてる。個々の座席にもスピーカーが設置されており、耳元からもリアスピーカーの音が聞こえてくる。椅子全体に低音が振動するようになっており、映画の没入感が深まるような仕組みになっている。こっちの低音は振動するけど、あっちの低音は響いてこないのねと、音の仕組みも意識してしまう。新しい映画鑑賞の感覚だった。
クリストファー・ノーラン作品といえば、IMAX案件なのは映画ファンなら周知のこと。自分はスタートに乗り遅れてしまったので、すっかりIMAXの旬の時期は逃してしまった。それでもこの映画は何らかの特殊フォーマットで観てみたいと思っていた。この『FLEXOUND』での鑑賞はぴったりの作品だと思った。
『ローソン・ユナイテッドシネマみなとみらい』ができたのは、商業施設『MARK ISみなとみらい』の最上階。以前ここには、直接動物に触ることができる動物園があった。お客さんはたくさん入っていたようにも思えたけど、経営不振だったのか、動物たちの維持が大変だったのか、すっかり跡形もなくなってしまった。陽の光から遮断された動物園。元気のない諦めた目で、客に触られている動物たちの姿ばかりが記憶に残る。みなとみらい地区には映画館がたくさんある。果たしてこの場所に、新しいシネコンをつくることに意味があるのだろうか。今後の様子を見守りたい。それよりなにより、動物園ににいたあの子たちは、何処へ行ってしまったのだろう? まさか殺処分なんかされていなければいいけれど……。
映画『オッペンハイマー』は、原爆の父ロバート・オッペンハイマーの伝記映画ということで、被爆国である日本には、ちょっとセンシティブな内容。アメリカ大手スタジオ・ユニバーサルの映画なので、本来なら日本でも大手の配給会社がついて、大幅に宣伝していくタイプの超大作映画。炎上を恐れたのか、なかな日本公開も決まらず、このまま日本ではお蔵入りになってしまうのかと、映画ファンたちは心配していた。
普段は単館系映画を扱う配給会社ビターズエンドが、この映画『オッペンハイマー』を配給することとなった。第二次大戦時のアメリカの軍事兵器開発が舞台の映画なので、ここでの敵国は日本。前もって炎上を恐れてか、自粛モードになっているのか、いつまで経ってもこの映画が日本で観れそうな兆しがない。そこでこんな大作は普段扱わないビターズ・エンドが、この映画の配給を名乗り出てくれた感じ。
配給会社というのは、自分たち映画ファンも普段はあまり意識していない。大手の配給会社は、大企業グループの一環事業として、多くの社員で動いている。でもそれ以外の配給会社は、少数精鋭の中小企業がほとんど。世界規模のマーケットをターゲットにしている超大作『オッペンハイマー』を、ビターズ・エンドが取り扱うのは、町工場が世界事業に参入する感じに近そう。きっとエンドユーザーの我々には見えてこないような苦労があったのではないだろうか。今年のアカデミー賞も最多部門受賞しているような世界的話題作を、日本人というだけで、もしかしたら観れないままだったかもしれない。危うく文化の鎖国状態が更に増幅されるところだった。ビターズ・エンドさん、『オッペンハイマー』を配給してくれて本当にありがとう。そして日本人ももう少し、外から自国がどう見られているかを、意識して慣れていった方がいい。
クリストファー・ノーランが歴史的人物の伝記映画を撮る。オッペンハイマーことオッピーと、理系のノーラン、相性はいい。でもノーランのことだから、普通の伝記映画はつくる筈はない。想像通り時系列をバラバラにした、パズルのような映画に仕上がっていた。
映画は複数の時間軸が同時進行で進んでいく。ひとつは、ソ連へのスパイ容疑をかけられたオッピーが、国の秘密裏で行われた聴聞会の様子。もうひとつは、オッピーと対立するストローズによる公聴会の姿。そしてそれに伴うオッピーの回想形式で映画は進んでいく。オッピーの一人称で描かれていく映画の中、ストローズの告発による公聴会のパートだけは、第三者目線なので区別化のためモノクロとなる。ちょっととっつきにくい意地悪な構成が、いかにもノーランらしい。要は自分の空想の世界と現実の世界、記憶なのか妄想なのか判別できなくなっている天才の脳内を映像化したかったのだろう。わかっているのか、わかっていないのか、自分でもわからない天才の脳内世界。オッピーを「賢者なのか愚者なのかわからない」と評している登場人物もいた。まさにその通り。
この手の情報量の多い映画は、観る人によって印象が全然違ってくる。つくり手も情報過多にすることによって、作品のポイントをケムに巻くことができる。人によっては、理系の専門的な会話にゾクゾクするだろうし、裁判劇の藪の中のやりとりにゾワゾワするのもありだろう。核実験のスペクタクルに恐怖するのもあるし、反戦について考えるのもある。もしくは逆に保守的だったり好戦的に感じる人もいるかもしれない。どれもこれも間違った解釈ではない。作者の意図も、意味ありげな思わせぶりで、実のところ意味がないのかもしれない。受け手の作品に対する印象は、映画鑑賞時の体調や気分、年齢や性別、国の文化によっても、映画の観え方は変化していく。とくに被爆国である日本人の感想は、世界でも特殊なものだろう。
振り返ると自分は、ノーランの映画のほとんどが、訳がわからないまま観てきている。作品の中で何が起こっているのかさっぱりわからないまま、どんどん話が進んでいく。ネットでは作品の考察班もたくさんいる。ひじょうにめんどくさい。でもみんなそのめんどくささを楽しんでいる。自分はノーラン映画の訳がわからなさ、説明不足な不親切な感じが好きだ。「この作品がわからないなんて、お前はバカだ」と言われそうだが、そんなことは関係ない。カッコいいからいいのだ。でもまたそれは、オタクっほくてダサいという矛盾でもある。
ノーランがオッピーに興味が湧くのもよくわかる。オッピーは天才。でも彼の人生は、自分が何をやりたいのか、実のところ本人がまったくわかっていないようにみえる。国の最高機密の軍事作戦に携わりながら、身内は共産党員ばかり。自身も基地内で組合活動をし始める。そのときそのとき、自分が興味を抱いたものに後先考えずに夢中になる。それが晩年、彼の失脚の原因ともなる。計画性もなければ信念もない。衝動的な人生。ブレブレで、足元をすくわれる隙だらけ。オッピーみたいな人が近くにいたら、きっとイライラしてしまうだろう。
自分のやりたいことだけに夢中になるオッピー。当然ながら家庭など顧みない。当然奥さんは、ワンオペで育児してる。奥さんはいつもイラついている。夫のオッピーはそんなことすら気づけない。「愛人が死んじゃったよ〜」と、メソメソ本妻に泣きつく始末。それを聞いて奥さんがどう思うかなんて、想像すらできていない。いつも自分のことばかり。自分勝手なロマンだけを追いかけている。周りがまったく見えていない裸の王様。そんな人物の脳内ビジョンをこの映画が映像化している。映画『オッペンハイマー』、歴史ものでありファンタジーでもある。
自分がオッペンハイマーの映像を初めて観たのは、坂本龍一さんの『oppenheimer’s aria』という曲のライブ映像から。映画本編でもオッピーが言っていた「我は死なり、世界の破壊者なり」と呟いている映像がサンプリングされていた。オッピーは、この言葉を世界初の原爆実験の後に語っている。
この「我は世界の破壊者なり」という言葉は、ヒンドゥー教の聖典からの引用らしい。てっきりオッピーの自分の言葉かと思っていたので、肩透かしを食らってしまった。あの恐ろしい実験の後で、何ら高揚もなく、サンスクリット語を学んだときの文章をそらんじるオッピーの感性。どんなときでも己の博識さをひけらからかさんとする自己顕示欲。頭のいい自分を自己演出。それは人の痛みなど、何も感じていないサイコパスの現れ。
映画に出てくる、賢者でもあり愚者でもある天才的学者たち。彼らは自分以外の人が見えていない。客観的に上から目線で、相手にアドバイスすることはあれど、他者から意見を言われることに慣れていない。この映画のもうひとつのテーマである、人によっての世界の見え方の違いは、オッピーを貶めるストローズの視点で描かれている。オッピーとアインシュタインのやりとりで、自分の悪口を言われたと被害妄想になるストローズ。彼らは自分が世界の中心だと思い込んでいる。でも単純に考えれば、だれもが自分の人生に精一杯なのはわかる。みんなそれほど他者の人生など興味がない。オッピーもストローズもアインシュタインも、自分のことしか見ていない。だから他人から予想外のリアクションを取られると、途端に激しく動揺してしまう。困った人たち。
ドイツ系ユダヤ人のオッピー。ナチスドイツには迫害された恨みがある。だからこその秘密兵器の開発だった。でも原爆実験成功の頃には、ドイツは降伏してしまう。ならば日本に原爆を落とせばいいと、簡単に白羽の矢を変えていく。日本人には傷つく展開。つくったものは何としてでも試してみたい欲望。
泣き言を言うオッピーに、トルーマン大統領が「あんな弱虫、二度と顔を見たくない」とまで言わせてしまう。これだけの虐殺兵器をつくっておきながら、そんな筈はなかったかのような顔をする無責任さ。想像力の欠如。オッピーにとっては、戦争もどこか他人事。自分が世界でいちばん可哀想な人間だと思い込んでいる。ブレブレの人生観の行き着く先は、自業自得の顛末へと向かっていく。
オッピーのようなサイコパスを主人公にして、楽しい映画にはなる筈がないのは初めからわかっている。だからこそ時間軸や夢と現実を混在させた、映像トリップの表現が必要。終始かかりっぱなしのルドヴィグ・ゴランソンの音楽も、堅苦しい会話劇になりそうなところを、スルッと聞き流すための潤滑剤として使っている。夢の中にいるかのような錯覚に陥る。そしてその音楽が止んで、無音になるときの絶大なる効果。
映像技術を駆使して、ただ暗くなってしまいそうなオッペンハイマーの伝記映画を、仕掛けがいっぱいのエンターテイメントに仕上げてしまう。そのクリストファー・ノーランの怖いもの知らずの演出。不謹慎と真面目さのギリギリの表現。
かつてさまざまな作品に登場してきたマッドサイエンティストたちは、純粋悪で強大なイメージだった。ここで描かれている倫理の欠けた学者たちは、コンプレックスの塊で、自分のことを世界でいちばん哀れだと思い込んでいる。自己中心的な犯罪者の多くも、自分ほど可哀想な人間はいないと思い込んでいる。自己憐憫が世界を破壊する。ヤバい天才を政治が利用していく構図。救いのない無限地獄のループが、この映画を通して描かれている。心底、偉い人には近づきたくないと思わせてくれる。こわいこわい。
そういえば、ワインの銘柄にオッペンハイマーというのがある。まるで核の雨でも入っていそうな感じ。でもオッペンハイマーが名前なら、日本酒の山崎みたいなネーミングセンスになるのか。自分は被爆国の国民だからか、オッペンハイマーというだけで、敬遠してしまいそう。その自分の偏見にも笑えてきた。なんだかんだ言ってもオッピーは、きっとイヤなヤツなんだろうけど。
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