『アメリカン・フィクション』 高尚に生きたいだけなのに
日本では劇場公開されず、いきなりアマプラ配信となった『アメリカン・フィクション』。
最近の日本の映画公開の主流となっているシネコンでの上映スケジュールは、洋画作品の肩身がとてつもなく狭い。SNSでどんなに話題となっても、公開翌週にはスケジュールのはじに追いやられてしまう。どこのシネコンも同じような時間帯設定なので、ひとたび隅の時間帯に追いやられてしまうと、もうその作品は観れなくなってしまう。生活スタイルを壊してまで、映画鑑賞するほどの熱量も、もうなくなってしまった。気軽に映画も観れないなら、ご縁がなかったものと、さっさと鑑賞を諦めてしまう。シネコン上映のメインは、国内で宣伝を大きく打っている最新の日本映画ばかり。宣伝こそは派手だが、自分にとっては魅力のない作品が多い。しかもそれらの作品も、隅に追いやられる回転率は早い。映画館が使いづらい。自分のような洋画ファンは、シネコンの客層のターゲットからはとっくに外れているのだろう。
噂に聞いた話だが、今後シネコンは映画上映よりも、イベント中継会場となっていくとのこと。ひとことでサブカルと言ってもジャンルは多岐にわたる。細分化されたそれぞれのジャンルのコアなファンが増えている。昔のように万人共通のコンテンツも少なくなった。推しのイベントとなれば多少高価なチケット代でも、その時だけの贅沢と奮発もできるだろう。映画館としては、閑古鳥が鳴いている一般映画作品の上映よりも、必ず一定数の観客が予想されているコンテンツに力をかけたい。映画が映画館で観れる時代は、ひとまず終わりつつあるのかもしれない。でもこれも流行りなので、その先はどうなるかはまだわからない。まだ嘆いてはいない。いろいろ淘汰もされていくだろうが、シネコンイベント会場化のその後に期待したい。
日本での海外作品の公開は、今までも世界でいちばん最後だった。作品の評価が世界である程度集まって、賞でも獲ってくれれば宣伝がしやすい。作品そのものの魅力よりも、何かの賞を獲ったという肩書きの方が大事。他人の評価を気にして映画を宣伝したり、作品選びの基準にするというのはいかにも日本人らしい。自分がどうかではなく、他人がどう思っているか。同調圧力に脳が汚染された判断力の低下ぶり。ちなみにこの『アメリカン・フィクション』は、今年のアカデミー賞では5部門にノミネートされて、そのうち脚色賞を受賞している。作品はすでに箔がついている。
それでも『アメリカン・フィクション』は、日本では宣伝しづらい地味な映画。かつては自分も、映画は映画館で観なければと叫んでいた。でも、手っ取り早く映画が観れてしまう配信サービスがあまりに便利なので、もうすっかり活用しきってしまっている。
アカデミー賞の行方しだいで、その作品の日本公開が左右される。アメリカの映画賞でどんな作品が評価されても、結局日本ではいつ観れるか見当もつかない。いつの間にか興味のあった映画も忘れてしまう。これまでアカデミー賞は、日本では蚊帳の外のイベントだった。今ではサブスクのおかげで、話題作もボタンひとつですぐ観れてしまう。気になる映画があれば、すぐ観てしまえばいい。
『アメリカン・フィクション』のあらすじを聞いただけで笑えてきた。偏屈な黒人作家が、純文学を書いている。人種など関係のない小説なのに、黒人作品とカテゴライズされてしまう。自分は黒人だが、作品は黒人というアイデンティティーでは書かれていない。そもそも作品自体に人種は関係ない。ジェフリー・ライト演ずる主人公の黒人作家のモンクは、ヤケクソになる。だったら世間が求める黒人文学とやらを書いてやろうじゃないか。皮肉で書いたつもりのそれは、奇しくもベストセラーとなってしまう。もう、あらすじだけで楽しい。なんと意地悪な社会風刺。
作者がやりたいことと、世間が求めているものとの乖離。商業芸術の悲しい宿命。主人公のモンクは自分ではいつも正論を言っていると信じている。世の中とのズレを感じつつも、自分の信念は曲げられない。たとえ自身の著作が売れなくとも、世間に迎合するくらいなら、執筆なんてやめた方がいい。モンクの崇高な作家意識。観客はそんな生真面目な彼をおちょくりたくなってくる。
この映画でもうひとつのテーマとなっているのが、家族の冠婚葬祭。人生を送っていると、若かりし日には想像すらしていなかった人生のイベントがたくさん発生してくる。若い時ならそんな家庭の問題は、親世代が責任を持ってくれていた。いつしか自分も家族の責任を担う立場となっている。ずっと逃げていたけれど、いつまでも無責任ではいられない。我が道を行きたいだけなのに、そうはさせてもらえない。生活のためにお金は必要。高尚な綺麗事ばかりも言ってられない。偏屈おじさんの信念が揺らいでいく。
モンクはヤケになって白人が好みそうな黒人小説を書いてみる。皮肉のつもりで書いたそれは、白人たちのツボにドストライク。あれよあれよと作品に高値がついてくる。これは本気の作品ではないのにとモンクが慌てる。でも世の中はそれを許してくれない。これほど心を揺さぶる作品はないと皆が言う。評価が上がればあがるほど、モンクのテンションが下がってくる。
確かにモンクには才能がある。白人社会で求められている黒人のステレオタイプが把握できいる。その文才でベストセラーを成立させている。所詮人気作なんてそんなもの。スノビッシュに気取った知識人の評価なんて、案外たいしたことはない。作品選考の審査員で、白人だけがモンクの作品を評価して、黒人たちが批判しているのが興味深い。
多様性が語られるようになって、その手のテーマの作品も増えてきた。さまざまな生き方が紹介されつつあるけれど、結局カルチャーを仕切っているのは白人文化なのかもしれない。そもそも作品を通して見聞を広めようなどと考えている人など殆どいない。
映画はどうしても2時間で結末を迎えなければならない。でも人生にはきちんとした区切りのつくような結末は存在しない。カチッと起承転結にハマってしまう人生などありえない。むしろ2時間で物語が終わろうとしている時間配分に、がっかりしてしまったりする。クライマックスが来た。もうすぐこの映画も風呂敷を畳出してると感じる。展開が読めることの興醒め感。『アメリカン・フィクション』は、そんな映画のパターンさえも皮肉っている。
人との繋がりもこの映画の大いなるテーマ。職場やコミュニティでの人との繋がりは、その場限りのもの。どんなに親しい人間関係が築けても、そのコミュニティから離れてしまえば、その人間関係も消えていく。昔のような腐れ縁もなくなった。面倒な人間関係なら、フェードアウトすればいい。
では人は天涯孤独なのだろうか。いや違う。そうなると家族の繋がりこそが腐れ縁になってくる。どんなに自分が悪くとも、味方になって考えてくれるのは家族だけ。モンクが否定し続けた泥臭い家族関係こそが、彼を現世に繋ぎ止めるものだった。幸せの意味なんて、その人の捉えようでいくらでも変わってくる。青い鳥はいつも身近に居る。
映画はあえて答えを出さないで、煙に巻いていく。そこにセンスを感じる。でもこの映画自体も、世間が欲しているステレオタイプに準じたエンターテイメントなのかもしれない。どこから芸術で、どこから観客に迎合した娯楽作品なのか、もう判別不可能。情報に従順になるなかれ。ときには自分の感性も疑う必要がある。考えれば考えるほど、訳がわからなくなってしまう。やっぱりそこは心を無にして、バカになっていった方がラクそうだ。情報過多時代は軽いノリでサーフしていく。それこそこれからのリテラシー。なにごとにも期待しない心構え。そもそも世の中なんて軽薄なのだと開き直って生きていければいい。その軽薄さを自身のフットワークに備えることが、現代の修行なのかもしれない。どんどん矛盾だらけの考えに陥っていく。
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