『パスト ライブス 再会』 歩んだ道を確かめる
なんとも行間の多い映画。24年にわたる話を2時間弱で描いていく。劇中通してほとんど2人の主人公しか登場しておらず、双方の会話の中で、直接描かれることのない空白のエピソードを観客に想像させていく。観る人の年齢、性別や性格、文化や人生観によって、感じ方がぜんぜん違ってきそうな映画。この映画の感想を聞けば、その人の人となりも見えてきそう。
自分は近年、日本のアニメもよく観るようになってきた。日本のアニメの表現は、その登場人物の細かい心情すらもセリフでぜんぶ説明してしまう。観客の誰もが同じ印象を持てるような工夫がされている。だからこそ人によって大きく印象が変わってしまうことがない。日本のアニメを誰かと鑑賞した後の感想では、とくに刺激的な意見が他者から聞けることはあまりない。日本は同調圧力が文化のデフォルトにある。誰もが同じであることに安心感を抱いてしまう。そんな国民性ゆえの表現なのかもしれない。つくり手としてならば、どうやったら誰にでもわかる表現をすればいいかと考えることは、クリエイティブなことだろう。けれど受け身である観客は、それによって自分で考える想像力をおろそかにしてしまう。他人が考えたクリエイティブな世界観に乗っかって考察してみたところで、ほんとうにものごとを考えているとは言いづらい。なんとなく自分で考えるという脳の機能が衰えていくのではと、いらぬ心配をしてしまう。これは洞察力みたいなものが退化してしまうことだから、日常生活にも支障が出てくる。日本のアニメやマンガは面白いけど、こればかりみていると、空気が読めない味気ない人間になってしまう恐れもある。自分が子どもの頃、親世代の人たちから「マンガばかり観ているとバカになるよ」と言われた意味は、そこにあるのかもしれない。情報過多な世の中では、もっと考えさせてくれる余白が欲しくなったりもしてくる。
『パスト ライブス』は、ホラー映画で有名なアメリカのA24が配給している。自分はこの映画はすっかり純粋な韓国映画だと思っていた。スタッフもキャストも韓国人が多く、本編で語られる言語も韓国語がメイン。映画を観始めて、けっこう英語のセリフが多いので意外だったくらい。『パスト ライブス』は純粋なアメリカ映画。本編で韓国語を喋っていた俳優さんも、インタビュー映像では英語を話している。それもこれもポン・ジュノ監督の『パラサイト』がアメリカのアカデミー賞を獲った影響なのかもしれない。
かつては世界で評価されたいなら、英語で表現しなければ絶対無理と言われていた。そういえば劇中でも、主人公の親たちが同じようなことを言っている。「韓国にいたらどんなに頑張ってもノーベル賞は獲れない」と。それは日本でも同じこと。それがコロナ禍以降変わってきた。未曾有の疫病の影響で、世界中の多くの人がステイホームを余儀なくされた。家の中でできることは限られている。日々忙しく働いていた人々は、持て余した時間をオンラインゲームや配信動画サービスに費やした。今まで映像娯楽といえば、ハリウッド映画が主流だったのが、いつのまにか観客の触手は非英語圏の作品にも及んでいった。英語以外の言語で観る娯楽作品も面白いじゃないかと、世界中が気づいてしまった。むしろ英語以外の言語の作品を原語のまま観たい。
きっと『パスト ライブス』の企画は、アメリカ製の韓国映画をつくろうというものだったのだろう。ちょっとあざとい。ただアメリカ映画で国際標準にのせようという作品なので、かなり潤沢な製作費のもとの豪華仕様となっている。韓国映画を観たつもりが、アメリカ映画だったので、ちょっと拍子抜けは否めない。韓国や日本が抱く、白人文化への憧れや幻想のコンプレックスが、この映画ではリアルに表現されている。
この余白の多い映画は、監督はきっと女性なのではと連想させる。現代では「女性ならでは」という言い回しは問題になる。でもこの映画を演出したセリーヌ・ソン監督は、想像した通りのパーソナリティだった。自身も幼少期に韓国からカナダに移住した経験を持つ。自伝的要素が大きい。
生まれ育った地を離れ、異国で新しい文化のもと生活を始めていく。人ひとりが生きていく人生の中で、転機というものは何度かある。そこで選んだ道があるから、今の自分がある。でももしあのとき、この道を選ばなかったらどんな人生を送っていただろう。誰もがふと考えてしまうこと。タイムリープで人生を何度もやり直す作品が流行っているのも、今の人生が本当に正しかったのか考えてしまう人が多いからなのかもしれない。しかもタイムリープものが日本の作品に多いというのも興味深い。毎日ラッシュの電車に乗って、変わり映えしない日々を送って、夜には疲れ果てて寝るだけ。まるで現実世界がタイムリープのよう。同じような毎日でも、何回も繰り返していればどんどん手練れになっていく。タイムリープものの流行は、人生を上手にこなしたいという願望の現れでもある。
ある意味『パスト ライブス』は、そんな今の流行りの作風とはまったく違った形で、人生の振り返りを表現している。過去の人生の転機に、自分はどう思い、どう考えて行動したか。その小さな決断の積み重ね。毎回毎回考えあぐねて選んだ人生の道。後悔というものがあるのなら、その転機でなにも考えないで流されてしまっての顛末こそにあるだろう。きちんと自分で考えていたのなら、失敗したとしてもそれは次の糧となる。他人から見れば失敗に見えてしまう事柄も、自分の人生においてみては、なにひとつ間違いはない。
『パスト ライブス』では、幼少期に離ればなれになった、初恋の相手とSNSで再会する男女の姿が描かれる。ネットでの出会いというものは、人の人生を形成するような出会いにはそぐわないと自分は感じている。ネットの出会いはきっかけであっても、本当の出会いとはいえない。人と人が出会うのは、現実に目の前に相手が存在してから始まっていくもの。ネットでの言葉だけのやり取りや、画像や動画だけではその人を知ることはできない。人と人が知り合うときは、目に見えるもの以外のものも感じながら相手を見ている。それは仕草だったり、匂いだったり、喋り方だったり、髪の毛一本一本からの印象を感じて相手を判断している。もう野生の本能みたいなもの。理屈では追いつけないほどの情報処理が無意識下で行われている。だから運命を選ぶ瞬間は、並大抵ではないほどのエネルギーが注がれている。
韓国人のナヨンとヘソン、アメリカに渡った後にナヨンのパートナーとなるアメリカ人男性のアーサーが途中から物語に参加して、この3人の邂逅がこの映画の最大の見せ場となっている。従来の恋愛映画なら、幼なじみの初恋の相手と結ばれることを良しとするものが定番だった。ドラマの視点からすれば、それは純愛として描かれていくのだろう。でも、パートナーがすでにいるのに相手と別れさせて、初恋を成就させてしまうのは、現実社会では略奪愛となる。
ヘソンは韓国から海外へ移住して、ノラと名前も英語名に変えている。並大抵ではない覚悟で、世界に羽ばたいている。日本もそうだが、韓国からみても、東アジア人がニューヨークで一人前に仕事をこなしている姿は羨望の眼差しの対象となる。ノラとなったナヨンは、すっかりアメリカ人として生きている。成り行きでアーサーとパートナーになったけれど、それはきっかけに過ぎない。ノラとアーサーには、共に人生の時間を過ごした実積がある。ヘソンとの初恋は、遠い良き思い出となっている。ノラの人生においては、ヘソンが入り込む隙はすでにない。
それでもこれは映画。エキセントリックな展開を従来の観客なら望んでいた。恋愛映画のステレオタイプな派手な展開は、『パスト ライブス』では好まれない。あえて抑えに抑えた演出を選んでいく。それでもこの均衡が崩れるのではないかというスリルがある。人生はなにが起こるかわからない。でも時が経って振り返ると、なるべくしてなったと感じられてしまうのが不思議。あれだけ悩んで選んだ道も、順風満帆な道のりに思えてしまう。
自分が若いとき、人生の先輩たちが口を揃えて言っていたことがある。「幸せな恋愛というものは、案外なにも起こらないものだ」と。ドラマのような恋愛に憧れることは、あまり幸せにはなれないということ。いっけんつまらなそうに思えるだろうけど、なにも問題が起こらないような人生を選びなさい。シナリオライター養成学校へ通ったときの講師も同じようなことを言っていた。私たちが書くドラマは、あくまで娯楽としての恋愛像。観客を楽しませるためには、恋する2人の間にハプニングが続いたほうがいい。でも実際の恋愛で、ハプニングが続きすぎたら、うまくいくものもいかなくなってしまう。ドラマをつくるということは、観客を楽しませるためにつくるのだけれど、これを人生の手本に捉えられてしまうと、その観客の人生にとってマイナスとなってしまう。「シナリオライターというものは、ある意味罪つくりな職業なのかもしれない」と。
自分たちは無意識のうちに、人生の帰路で常に重大な決断を繰り返している。その選んだ道は、今の自分を築いている。自信をもっていい。映画『パスト ライブス』は、ドラマチックにならないように配慮しながら、静かなエモーショナルな心の展開を描いていく。それはあまりに現実的だからこそ、観客としては、静かな表現でも確実に感情が動かされてくる。
この映画の登場人物のひとり、途中から物語に参加するアメリカ人のアーサーが気になる。本来なら恋愛映画の2人の間に入る邪魔者みたいに扱われそうな人物。彼は自分のパートナーが、初恋の相手との再会することにも理解を示し認めてあげる。本人もその初恋の相手と会うという挑戦もする。恋敵とはいえ、自分のパートナーの思い出の人なので、失礼がないようにものすごく配慮した態度をとる。笑顔をつくってみせる姿が切ない。アーサーの人柄が見えてくる。映画の展開で、どうかこの人を傷つけないで欲しいと思わされる。
刹那的な自分の願望を叶えるより、一歩引いて相手の幸せを想像して行動する。派手なドラマ性ではないけれど、その静かな優しい心理は、観客の心を動かす。本当の幸せは、我を通すことでは得られない。利己的よりも利他的。相手を思いやる気持ちが評価される時代になってきた。黙っていることの美徳。誰に認められなくとも、自分の中の穏やかさを追求していく。最近観たフランスのアニメ映画『ロボット・ドリームズ』でも同じよう心理が描かれていた。世界の価値観が変わってきたのだろう。
振り返ると自分も、子どもの頃に思い描いていた人生とはちょっと違う道を選んできてしまった。でもこの道もけっして悪いものではない。もしかしたら、自分が想像していた未来像よりも、ずっと良い選択をしてきたかもしれない。過去でも未来でもなく、今の自分を見つめていく。『パスト ライブス 』を観たあとは、「自分の人生もまんざらではないな」と、優しい気持ちに少しなれていたことに気づく。自分自身にもっと優しくなろう。
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