『君たちはどう生きるか』 狂気のエンディングノート
※このブログはネタバレを含みます。
ジャン=リュック・ゴダール、大林宣彦、松本零士、大江健三郎、そして坂本龍一。自分が10代にもならない頃から影響を受けた表現者たちが、この一年で続々とこの世を去ってしまった。自分は宮崎駿監督の作品にもだいぶ励まされて生きてきた。宮崎駿監督も御歳82歳。世間ではとっくに隠居の年齢。10年前の監督作品『風立ちぬ』のときに引退宣言をして、のちに撤回。いよいよ新作『君たちはどう生きるか』が公開された。アニメの長編映画は制作に3年以上の期間がかかる。さすがに今度こそは宮崎駿監督の長編映画は最終作ととらえていいだろう。もちろんご本人もこれが最後の長編作だと覚悟の上。一度畳んだスタジオジブリも再始動。最新作の制作発表がされて6年以上。一番の懸念は、制作途中で宮崎監督になにかあって、未完成のまま伝説の作品となってしまうこと。そんな心配も稀有に終わり、晴れて『君たちはどう生きるか』が公開された。いちファンとしては夢のようだ。そういえばこの映画は「宮崎駿」名義の「崎」の字が「﨑」の字に変わって、「宮﨑駿」になっている。
今回の新作は、宣伝を一切しないという試み。近年の映画の大仰な宣伝には自分も辟易している。予告編を観ても、本編とは違う印象で煽り立てるものが多い。この予告編でなかったら、もっと早く観ていたよという作品ばかり。今自分が信用しているのは、現実に付き合いのある人の言葉と、何のしがらみもないSNSの見知らぬ人の感想。でも後者はサクラの疑いもある。配給会社がマーケティングのもと築き上げた宣伝では、まずその映画の魅力を伝えられないと感じている。もしかしたら宣伝に携わる人たちも作品を観ていない可能性もあり得る。仕事とは流れ作業で行うもの。愛のない宣伝なら、初めからやらない方がいい。この映画『君たちはどう生きるか』のセリフを引用するなら、「悪意のある」観客を舐めた宣伝ならもういらない。今後もっともなくなる確率の高い業種に広告業が挙げられている。時代は変わりつつある。このスタジオジブリの宣伝の実験が、今後日本の映画業界にどう影響を与えていくか楽しみでもある。
『君たちはどう生きるか』は、今までのジブリ作品のような製作委員会制度を起用していない。他からの出資からの制作ではなく、スタジオジブリの自主映画ということになる。広告代理店が映画制作に入ると、確実に出資者を集めることができる。でも出資者というものは、金を出すからには口も出す。自社の宣伝になるように、映画の内容にも口を出してくる。出資者が確実に集まるので、映画は完成する。でも横槍が入りすぎた作品は、当初のクリエーターが作りたかったものとは別物になってしまう。ならばこれもつくらなくてもいいということになる。
宮﨑駿監督は偏屈おじさんのイメージがある。前作の『風立ちぬ』のときも今の映画のアトラクション化を嫌い、音響のサラウンド化に反してモノラルで制作された。三鷹のジブリ美術館の特別上映も、結構最近までコストのかかるフィルム上映にこだわっていた。今回の新作もなんらかの時代錯誤な懐古主義のフォーマットで制作されるのではと懸念していた。それがジブリ映画では初のドルビービジョンにての制作。自分は入場料が高額なラージフォーマットで映画を観るのが怖い。10年以上前、IMAXで映画を観て、2000円を越える高額な入場料にガタガタ震えて、映画に集中できなかったことを覚えている。それでも大好きな宮﨑駿監督の新作とあらば、ドルビーシネマ・デビューしてみるのもいいかと劇場を探した。IMAXやドルビーシネマのようなラージフォーマットは、上映回数も少ないので、初公開時期が過ぎると、早朝やレイトショーなど観づらい時間帯に回されてしまう。自分は初公開時を逃したので、ラージフォーマットの旬は逃してしまった。これもご縁。ノーマルフォーマットの近所の映画館で『君たちはどう生きるか』を観ることにした。
事前に宣伝をしていないおかげで、どんな映画なのかまったくわからない。SNSでもマナーの良い人が多く、ネタバレする人がほとんどいない。まっさらな状態で、好きな監督の名前だけで映画を観ることができた。なんとも贅沢。そういえば今みたいな過度な宣伝をしていなかった昔、映画や演劇を観るときは事前情報はポスターだけだった。それでも面白そうな作品を探し出す癖がついていた。最近はポスターデザインも無個性になってきたので、ポスターだけで作品を選びづらくなってきた。それでも面白そうな作品というのはみつけることができる。いっけん実生活で役に立たなそうな嗅覚の能力。実はものごとの真意を考察する審美眼のトレーニングになっていたりもする。
映画公開日に主題歌と声優の発表がされた。主題歌は米津玄師さんの『地球儀』。あの映画でよくあの曲ができたと、読み込みの深さに感心してしまう。米津玄師さんは主題歌をつくらせたら抜群にうまい。スタジオジブリの作品は、配役にプロの声優を好まない。声優さんの演技のうまさは、今のアニメ作品の魅力に欠かせない。でもジブリはその「プロっぽさ」を嫌う。たどたどしい演技で、二次元の世界に生っぽさを出す効果を求めているのだろう。演技が上手ければいいというものではないというこだわり。今回の配役は、キャラクターと役者のイメージがそぐわないものばかり。声を聞いて、その役者さんの顔が浮かんでくることがまったくない。鑑賞後調べてみて、あの人があの役だったのかと驚かされる。きっとキャスティングは、監督たちが会いたい人を集めるこたから始めているのだろう。「これがあなたの演ずるキャラクターなのですが、あなたのパブリックイメージとは異なっています。あなたなりに役づくりしてもらえませんか?」なんて言っているのではないだろうか。まあ相性が良さそうな人選先にありきというのはとても大事。
このままこの映画は最後まで宣伝をしないで貫くのだろうか。プロモーションをしないことで、監督が無粋なインタビューに応えなくてもいい。表現者が自作を解説させられることほど興醒めで不躾なことはない。これは宮﨑駿監督の心象風景のプライベートフィルム。理論的な解説してくれると安心する人もいるのだろうが、たいていは味気なくなる。わからないものはわからないままで面白がればいい。この映画は感覚的なもの。感覚を研ぎ澄ませ。
おなじみの久石譲さんの劇伴も、有終の美ではなけれど、バーンとフルオーケストラで派手な音楽がつくのかと思いきや、ピアノメインの控えめな音楽が映像に添えられている。それがかえって「やっぱり終わりなのかな」と哀愁が漂ってくる。その久石譲さんが担当するサントラは、CD発売はすれど配信サブスクにのることはない。また、パンフレットは映画公開日に発売されなかったりと、かなりの秘密主義。公開1ヶ月後に発売になったそのパンフレットが、写真集のような大胆なレイアウトなので、SNSでは「物足りない」と大騒ぎになっている。宮﨑駿監督の絵が好きな自分からすると、これはこれでカッコいいと思うのだが。サントラを配信しないとか、作品解説しないパンフレットとか、情報過多時代に対抗する姿は宮﨑駿監督のスタジオジブリらしい。蛇足な作品解説などするつもりはさらさらない。観客個々が感じるままでいい。なんだか生前葬みたい。故人について「あんな人だったね」とみんなが語り合うみたいな。
『君たちはどう生きるか』。この説教くさいタイトルに身構えずにはいられない。偏屈爺さんから2時間説教を喰らうという最悪の可能性も視野に入れた。映画は空襲の場面から始まる。しまった、シリアス路線か。映画が進んでいくと、この映画が夢と現実を行き交うファンタジーだとわかってホッとした。ギレルモ・デル・トロ監督の『パンズ・ラビリンス』をすぐ思い出した。戦時中が舞台で、親の再婚と新しい家族の誕生。思春期の心身の不安定から見る幻想世界。
宮﨑監督の最近作は難解だとよく聞く。はたしてそうなのだろうか。宮﨑監督は、自分の映画の中に自分の好きな人や理想の人を集めているにすぎない。ストーリーは二の次なので、支離滅裂だったり突拍子もなかったりもする。登場人物たちはみな志が高く、たくましくて誠実。この映画は宮﨑監督の自伝的要素が大きい。宮﨑監督の育ちの良さが際立つ。主人公は軍需産業で潤った家のおぼっちゃま。戦争は嫌だけれど、そのおかげでいい暮らしができている矛盾。きっと宮﨑監督も子どもの頃その恩恵で、好きな絵の世界にも没頭できたし、たくさん本も読めた。才能の開花には実家の太さは否めない。あらかじめ自分の場所が用意されていて、大人たちに大事にされる幼少期を過ごす。生まれついての自己肯定感。それが嫌味にならないところが、宮﨑駿の真の育ちの良さ。自分たちはこの宮﨑駿という人の育ちの良さからくるイマジネーションが好きなのだ。そこに意味はない。品格あるのみ。
宮﨑駿監督が『風立ちぬ』からの沈黙の10年間。日本のアニメ事情もやっと新しい波が生まれてきた。宮﨑監督の描くパーソナルな世界観の作風の影響は廃れてきた。今のアニメの作風は、他者との繋がりやコミュニケーションの面白さを扱う作品が多い。アニメというジャンルが内向きだったのが、すこしずつ外を向き始めている。今までの流行りの主人公は、最初から裕福だったり選ばれし者だったりが多かった。近年は貧しい主人公が、どうやって自分の居場所をつくって、這い上がっていくかがテーマ。初めから居場所のある主人公には、憧れや共感よりも、自分とは関係のない雲の上の人の話と受け取ってしまいそう。宮﨑駿の育ちの良い品格は唯一無二。どんなに露悪な態度をとってみても、良い人に見える登場人物たち。近くて遠い存在。
『君たちはどう生きるか』は吉野源三郎さんの有名な著書。タイトルだけを拝借して、本編は別物というのは制作発表から情報開示されていた。まったく本編とこの本は関係のないものと思っていたが、本編ではこの本が重要な小道具となっている。主人公・眞人が母親からこの本を受け取り、読み始めることで彼は態度を変えていく。いじけて不貞腐れていた眞人は、「豊かなはずなのに寂しい」という気持ちに蓋をしていく。生きる志を持とうと努力し始める。眞人がノンバーバルでもいい子だとわかるし、大人たちも「生意気な口を叩く」と言いながらも面倒を見てくれている。たたずまいだけでも人に好かれてしまう登場人物の魅力は、宮﨑駿監督の無意識から醸し出すもの。表現方法だけ模倣しても、この魅力は描写できない。
本ばかり読んで頭のおかしくなった大叔父様という人物が登場する。年老いた彼は、まさに今現在の宮﨑駿監督自身。世界平和の均衡を守るため、ひとりで奔走している。自身の老いから、時間がもう残り少ないことを自覚している。自分の後継ぎを探している。眞人はそれを断る。それでも大叔父はそれほど動揺しない。世界の平和を守るために声をあげてきた大叔父。宮﨑駿監督も活動家の一面を持っている。きな臭い方向に向かう世の中に警鐘を鳴らし、世界を変えようと努力してきた。それでも世界は一向に変わらない。もうすぐ自分の時間は終わるから、その後の世界はどうなるかなんて責任はない。しかも世界の危機もただのパラノイアなのかもしれない。見込みある若者に受け継いでほしいのは、自分が築き上げた方法論ではなく、その精神や志。ならばきっと眞人は、大叔父とは異なった方法で意思を継いでくれる筈。やり方は違っても、見ている方向が同じなら安心して席を外せる。あとは任せた。もう解き放たせてくれ。
この20年間、日本のアニメはスタジオジブリや『エヴァンゲリオン』にそっくりな作品ばかりが量産されてきた。『エヴァ』も完結したし、ジブリもきっともうこれで終わりを迎える。青空を背景に若者が立っている日本のアニメの手垢まみれのヴィジュアルはもう卒業したい。新しいフェーズの幕はもう開いている。自分自身の心でさえわからないのだから、それを探求するだけでもファンタジーは成立する。ここにないものを夢見る現実逃避型だった日本のアニメも、シビアな現実にこそエンターテイメント性の目を向け始めている。
宮﨑駿監督の作品は、ここで終わるかもしれない。今後の戦争を予感させるだけの、不安な『風立ちぬ』が監督引退作にならなくてよかった。あれから10年、まだ日本は平和の均衡が保たれている。でもそれは危ういものだと監督の分身である大叔父は言っていた。眞人もそれを自覚している。さてこれから現実世界はどうなっていくか。宮﨑駿監督の沈黙の10年でアニメの流行も変わった。スタジオジブリの新作は、今の作品なのに懐かしい感じがする。スタジオジブリ作品はいつも最先端の作風だった。今ではもう懐古趣味。老いた賢者は、静かに席を空けていってしまった。「もう知らないよ」って。すこし寂しくもあるけど仕方がない。
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