『アン・シャーリー』 相手の話を聴けるようになると
『赤毛のアン』がアニメ化リブートが始まった。今度は『アン・シャーリー』というタイトルになって、原作の3巻まで映像化するという。『赤毛のアン』は、1巻こそは有名だけど、2巻以降がちゃんと映像化されたことがない。もうそれだけで期待してしまう。モンゴメリによって書かれた 100年以上前のカナダが舞台のこの小説は、ビルドゥングスロマンの古典として有名すぎる名作。日本では高畑勲監督による『世界名作劇場』のアニメがあるので、そのイメージがあまりに強い。『赤毛のアン』はアニメをはじめ、何度も映画やドラマになっている。物語の冒頭でアンが駅で迎えを待つ姿は、すでにすっかり見飽きてしまっている。
それにしてもなんでカナダの原作が、何度も日本でアニメ化されるのだろう。高畑版『赤毛のアン』があまりに有名なので、このタイトルのアニメ化リブートには、かなり期待値のハードルが高くなってしまう。実際『アン・シャーリー』の放送が始まると、高畑版と比べる声でネットは大騒ぎになった。『アン・シャーリー』の原作は、高畑勲監督の『赤毛のアン』ではなく、モンゴメリが書いたカナダの古い小説。高畑版と解釈が変わって当然。自分なら同じものをまた観たくはない。『赤毛のアン』を新解釈した『アン・シャーリー』は、観てみれば決して悪い出来ではない。むしろ自分は好きかも。
自分はここ数年で『赤毛のアン』を何度か読んでいる。娘が小学生のとき、読書感想文に『赤毛のアン』を選んだので、その手伝いをするために数十年ぶりに読み直したことがある。娘が読んでいるとき、同時進行で読まなければ間に合わないので、娘は児童図書版の『赤毛のアン』を読んで、自分は図書館で借りた古いものを読んだ。どちらも村岡花子さん翻訳のものだった。読んでいる途中で気付いたのは、娘が読んでいる本と自分が読んでいるものが、物語の章の数が違っているということ。これはたいへん。娘が『赤毛のアン』を読み終えたと同時に、もう一度その本を読み直す。同じ翻訳者のものとはいえ、出版社やブランドが違うと内容も変わってしまうことを知った。
そのあと、日本初の完全訳と銘打たれた松本侑子さんの翻訳版を読んだ。こちらは注釈が100ページもあって、かなり読み応えがある。原作をそのまま訳してしまうと、現代の日本では文化的に理解できないところがある。それを贅沢すぎる注釈で、こと細かく解説してくれている。当時のカナダの社会情勢や流行も知っていくと、より作品が深まっていく。アンがしきりに膨らんだ袖の服が欲しいというのも、当時の流行りを知っていれば、彼女がわがままではないということがよくわかる。松本版は『赤毛のアン』という作品に対する、深い愛情のこもった学術書と言ってもいい。松本侑子さんは『赤毛のアン』の研究家としても有名で、日本ではこの作品の第一人者と言ってもいい。
『赤毛のアン』を研究している著名人は、他にも多く、脳科学者の茂木健一郎さんもアンの研究をしているとのこと。NHKの番組『100分de名著』で『赤毛のアン』が扱われたとき、講師として担当されていた。
脳科学の研究に『赤毛のアン』が使われるのはよくわかる。『赤毛のアン』の主人公アン・シャーリーは典型的な発達障害の特性の持ち主。衝動的な行動や、喋り出したら止まらなくなったり、想像の世界に没頭して周りが見えなくなってしまったりしてしまう。困ってしまうのは、自分の思い通りにならないことが起こると、かんしゃくを起こしてしまうところ。勉強ができる優等生というのも、勉強がおもしろすぎて過集中してしまった結果だろう。発達障害の特性がいい方に開花したと言っていい。
『赤毛のアン』はあまりにも正確に発達障害の人の心の流れを文学で表現している。原作者のモンゴメリが発達障害だったのが伺える。ここ10年くらいで、日本でも急激に発達障害について一般的な認知度が広まった。この特性を理解した上で、あらたに『赤毛のアン』がリブートされていくことに意味がある。いままでとは違った切り口が予想される。この作品がどうして100年以上も世界中で読み継がれ、愛されているのかは、原作者のモンゴメリが現代に存命であったとしても、本人すら理由はわからないだろう。
アン・シャーリーは、女性の地位が低かった時代に教師という職業に就いたり、パートナーをみつけて結婚もしている。あらゆるものを手に入れていく。発達障害の人が今よりずっと生きづらかったであろう時代に、人生を切り開いている。アンが不器用ながらひとつずつ人生の壁を乗り越えていく姿は、多くの読者に希望を与えたことだろう。それに日本人からすれば赤毛など気にすることはないと感じてしまうが、どうも100年前の白人の価値観では赤毛はとても醜いものとされていたようだ。そばかすがあるだけで不美人とされてしまう。ましてやアンは孤児。人権がほとんど認めてもらえなさそうな底辺の存在。昔の児童文学の主人公は、弱い立場の存在の人物が多かった。そんなちっぽけな存在が、周囲を動かしていくことにカタルシスがある。きっと当時の流行りの主人公像だったのだろう。
『赤毛のアン』の最初の方では、将来パートナーとなるギルバートに意地悪されて、石板で頭を引っ叩く場面がある。あまりに有名な場面。その他にもアンの奇行は山ほどある。どうしてこうもやらかすのかと呆れてしまう。なんだかイヤだなと、胸がヒリヒリする。自分よりも『赤毛のアン』に詳しくなってしまった娘に、アンのことは好きかと聞いたら、「好きじゃない」とらしい。「困った人だけど、どうしても幸せになって欲しいと感じてしまうから本を読んでしまう」とのこと。それでも、アンが意地悪なギルバートをぶん殴る場面は「よくやった!」と喝采したくなる。どんなに好きだからといって、嫌がらせをするような男は許せない。今の若い人たちは、いかに相手を気遣うことができるかがコミュニケーションの主となっている。好きだからという理由で、女の子に嫌がらせをするような男子は、女子だけでなく男子からもうとまれてしまう。他人をいじってマウントをとるような人は異常だと、自然と距離をとられてしまう。悪口を言うのもアホらしい。いじめにもなりかねないから、みんなそんな奴のことは話題にもしない。静かに安全な距離感をつくりあう。若者たちの方がずっとしっかりした人間関係を築いている。現代の価値観では、ギルバートもかなり問題のある人なのだろう。
アンの奇行は、年月とともにだんだんおさまってくる。発達障害は環境でいくらでも治ってくると聞く。有名人で、自分は発達障害だとカミングアウトする人が多くいる。なんだか発達障害はギフテッドとセットだと勘違いしてしまいがちだが、成功する発達障害の人はたいてい実家が太かったりする。エキセントリックな子どもでも、気長に付き合っていける経済的・精神的な余裕がその子の才能を活かせた結果だと伺える。それくらい個人の才能を開花させるのは大変なこと。アンは里親となるマリラとマシューに絶大なる愛情を注がれた。アンが人生を上手く乗り越えられるようになっていくのは、家族の愛の結実に他ならない。
今回の『アン・シャーリー』は、2クールで3巻まで映像化する。どうしても駆け足になってしまうけど、現代の感覚からするとこれくらいのスピード感でいいのかもしれない。今回はアンを中心のとした、マリラとマシューとの家族関係、ダイアナとの友情、ギルバートとの恋愛に縛って構成していくらしい。だから他の友だちや学校の先生のエピソードはあまり触れていない。そっちのエピソードもおもしろいのだけれど、あちこち視点が分散してしまうと、映像作品としては観づらくなってしまう。割愛された部分は原作を読めばいい。派生作品を通して原作を読みたくなれば、それはその派生作品が成功したことと言える。
『アン・シャーリー』はアニメ作品でありながら、海外のドラマ作品を観ているような雰囲気がする。2話まではオープニングやエンディングがなかったので、余計そんな感じがした。本編が駆け足なので、20分強の1話を観ただけで、映画一本分を観たようなカロリーの消耗を感じる。それが3話目から突然オープニングが始まる。これがとても良い。映像を観ているとふと、アニメ映画の『きみの色』を思い出した。それも当然、このオープニングは『きみの色』の山田尚子監督が演出をしている。子どもの頃のアンと、大人になったアンが、時間を越えて行ったり来たりする演出。明るく楽しそうな映像なのに、なんだか泣けてくる。エモい。アンの動きがかわいらしく、アンはこんな人だったんだと、初めて知ったような新鮮な感覚。
そういえば山田尚子監督がインタビューで、「登場人物に失礼がないように心がけて演出している」と言っていたことを思い出す。そのインタビューは、新海誠監督との対談のものだった。山田監督の架空の人物にも敬意をはらうその姿勢に、新海監督が考えたこともなかったと驚いている様子だった。自分が創造した人物なんだから、なにをやってもいいだろうというのが、いままでのマンガやアニメのあり方だった。でも、たとえ架空の人物であっても、それが人の姿をしていれば、不思議なことに人権が生じてくる。物語の登場人物が理不尽な目にあっていたら、観客だって心を傷ませる。そんな当然の配慮が、いままでのアニメやマンガには欠けていた。山田尚子監督の優しい視点は、新しいアン・シャーリーの解釈にふさわしい。
『赤毛のアン』シリーズは、会話の面白さが最大の魅力。大人になっていくアンの姿を、初めて映像で観ていける喜び。どうせなら原作通りに全巻、おばあさんになるまで映像化して欲しい。それこそ、ひとりの人生をじっくり描いていくアニメなんて、いままでなかったのではないだろうか。
アン・シャーリーという架空の人物は、いつの間にか多くの人の、読んだ人の数だけイメージが広がってきている。その人なりのアン・シャーリー像というものがあるだろう。自分がアン・シャーリーに抱く印象は、「自分のことしか見えていなかった人が、徐々に周りの人も見えるようになっていって、自己中心的から利他的に変わっていく人」だと思っている。自分語りばかりのアンが、いつしか多くの人の相談相手になっている。『赤毛のアン』1巻の、子ども時代があまりに有名だが、彼女が大人になっていって、他者の言葉も聴いていこうとしていく姿というのは、シリーズを通して、かなり重要なポイント。
子どもの頃に『赤毛のアン』を読んだ人たちも、いずれは大人になっていく。『赤毛のアン』は、日本では児童文学に分類されてしまうが、大人だからこそ、読むと新たな発見のある文学だと思う。原作では、アンが70代になる姿まで描かれている。原作者のモンゴメリは60代で亡くなっている。いつしか作者の年齢を越えてしまったアン・シャーリー。きっとモンゴメリ自身も、自分もそれくらいまで長生きすると思っていたのだろう。なんだか寂しい。
アン・シャーリーという人物は、作者がこうなりたかったという姿の理想像かもしれない。そうなると、我々読者(観客)も、アンの人生を手本にしていければいい。
モンゴメリは、1巻を書いたときに、この本はキリスト教の教えに沿って書いていると言っていた。他を救おうとすることで、自分が救われていく物語にしたいと。そうなると、アンの視点ではなくて、里親となったマリラとマシューの物語としても捉えることができる。他者への優しさが、思いもがけないかたちで自分へ戻ってくる。マリラとマシューは、初めは仕事を手伝ってくれる男手が欲しくて、男の子を養子にしようとした。間違えて女の子のアンが来てしまったのだけれど、このおかしな女の子が、味気ないマリラとマシューの生活に活気を甦らせてくれた。生産性や経済的にみれば、女の子を育てても見返りは少ない。ここでの豊かさは物質的なものではなく、目に見えない心に宿るもの。この豊かさは数字には出てこない。人間らしい豊かな生活。
『赤毛のアン』には今も昔も世界中にファンがいる。とくに女性ファンが多いのは、アン・シャーリーの人生に勇気づけられた人が多いからだろう。この混沌とした情報過多社会の現代だからこそ、アン・シャーリーの人生観から学ぶものがある。このアニメ『アン・シャーリー』をきっかけに、アンの人生を辿ってみたくなった。もう娘の本棚から『赤毛のアン』シリーズの本を借りて、読破していくしかない。
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