『フランケンシュタイン(2025年)』 生きることを生きること

2025年、ギレルモ・デル・トロ監督によって『フランケンシュタイン』が新たに映像化された。制作のNetflix自体で配信される前に一部劇場でも公開された。SNSではそれを観た人の絶賛の声があがっていた。自分は比較的ネットの感想を、映画選びの参考にしている。でも最近は個人の感想のフリをした、企業に雇われたサクラもいるので、半分くらいしか信用しないようにも気をつけている。
SNS上での感想が本物か偽物かを判別する方法はいくつかある。自分の判断基準としては、公開前や公開開始ごろのアツすぎる好評の感想には、ちょっと疑いの目をかけている。映画公開後、数週間経ってもまだ話題にしている人がいたら、それは結構本物くさい。でも公開数週間後経ってから、その映画に興味を持っても遅すぎることの方が多い。とにかく今の日本では洋画が求められていない。たいていのシネコンでは、洋画は公開数週間後には打ち切りとなるか、モーニングショーかレイトショーとなって、日に一回のみの上映となってしまう。シネコンでは公開週くらいしか洋画作品は観れないようにスケジューリングされている。それがどんなに評判の良い作品であっても、観やすい時間帯からははじかれてしまう。洋画ファンは、今日本ではあまり歓迎されていないらしい。
このデル・トロ版『フランケンシュタイン』は、劇場公開後すぐNetflixにて配信されることは初めから予告されていたので、自分は配信を待つことにした。それでもこの映画の好評の言葉を見ることは多かった。デル・トロ監督作品では『パンズ・ラビリンス』や『パシフィック・リム』は大好きだったので、今回の『フランケンシュタイン』の映画化には期待していた。
それでもなぜいま『フランケンシュタイン』を原作に選んだのだろう。デル・トロ監督でNetflix作品というと『ピノッキオ』のCGアニメがすぐ思い出される。古典を新解釈で映画化することは興味深い。『フランケンシュタイン』はそもそも200年前に、女流作家のメアリー・シェリーによって書かれたゴシックホラー。しかもメアリー・シェリーが『フランケンシュタイン』を執筆したのは、18〜19歳頃だという。なんという早熟ぶり。時代を超越した天才ぶりが伺える。そんな才女の先見の明とかも含めて、『フランケンシュタイン』には気になるところがたくさんある。
フランケンシュタインといえば、自分の世代からすると、藤子不二雄Aさんの漫画『怪物くん』の中に登場するフランケンのイメージが強い。そもそもあの造形は、映画黎明期の100年以上前に描かれたホラー映画のモンスターとしての『フランケンシュタイン』のイメージ。ヴィクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』の中にもフランケンシュタインは登場する。いつしかフランケンシュタインと幼い少女との組み合わせも、『フランケンシュタイン』という作品のステレオタイプなイメージ像となっていった。
10年くらい前にEテレの『100分de名著』の中で、『フランケンシュタイン』が特集されたことがあった。そこで知ったのはフランケンシュタインとは、件のモンスターの名称のことではなく、彼を創造した博士の名前のことだということ。そもそもあのモンスターには名前がなく、ただ単に創造主の名前を借りて「フランケンシュタインの怪物」とだけ呼ばれているだけのこと。名前が与えられていないということは、人権も認められていないということになる。その怪物に知恵がなければ良かったのだが、人間と同等かそれ以上の知恵を持っていたのなら、さまざまな問題が発生してくる。
『100分de名著』では、200年前に書かれたこのゴシック小説の研究が、いまも続けられていると言っていた。ゴシックホラー小説というジャンルに属する『フランケンシュタイン』。現代の観点からすれば、クローン技術やAIのシンギュラリティポイントなど、人類にとってのオーバーテクノロジーへの警鐘とも取れる。また、生きている者が尊重されていかないことは、ネグレクトなどの育児放棄の問題へも繋がってくる。作者のメアリー・シェリーが女性ということも作品にとって大切な要素。小説『フランケンシュタイン』の分析の切り口はたくさんある。
ギレルモ・デル・トロ監督による『フランケンシュタイン』は、原作の目指しているテーマを見事に継承している。原作の雰囲気そのままという印象がする。でも200年前の古典がこんなにすんなり現代の感覚にしっくりハマるはずはない。この映画『フランケンシュタイン』は、デル・トロ監督による、原作へのひとつの解釈。2025年の『フランケンシュタイン』は、人権や親子関係についてフォーカスが絞られている。デル・トロ監督の過去作『シェイプ・オブ・ウォーター』のとき、あくまでもモンスターの目線になって物語を進めていた。今回の『フランケンシュタイン』も、ヴィクター・フランケンシュタイン博士と、その造られし怪物の視点で描かれている。怪物と呼ばれるその男も、本来は心優しき生きものだった。見た目が恐ろしいばかりに、無条件で悪者とされ迫害されていく。怪物と呼ばれた彼が、如何にして本物の怪物となっていったか。映画はルッキズムについても問いかけてくる。本当の怪物は、人間の心の方に宿っているようにも思えてくる。
原作の『フランケンシュタイン』では、怪物は死刑囚などの死体から組み合わせて造られていった。デル・トロ版での怪物は、戦死者の遺体を組み合わせて造形している。なるべく手足の長い遺体を回収している。人がわざわざ造るのだから、上等な素材を揃えてできる限り良いものを造りたい。純粋な想像欲。それで今回の怪物のデザインのカッコ良さにも説得力が出てくる。怪物を演じるジェイコブ・エロルディが、あんな全身メイクをしていてもカッコ良いのはすぐわかる。美と醜さは紙一重ということか。
デル・トロが描くフランケンシュタインの怪物は、孤独が辛くて、人と関わりたいと思っている。そんな気の毒な生きものに、映画は優しく寄り添っていく。原作でも消化しきれていなかったであろう、怪物の心の救いや癒しの場面を追加してくれている。怪物が出会う人々に、きっとこんなことを言ってもらいたかっただろうという言葉を、今回の映画では強引にでもかけてもらっているかのよう。せめてフランケンシュタインの怪物に成仏して欲しいと、願いをかけているかにも見えてくる。
そして造像主であり父親であるヴィクター・フランケンシュタインを、完全な悪者にしていないところも優しい。ヴィクターもまた、父親に愛されたくても愛されなかった哀れな存在でもある。愛を知らない天才が暴走してしまう姿。かつてのマッドサイエンティスト像というのは、昔の『フランケンシュタイン』映画でも描かれていたような、絶叫しながら狂気の実験に没頭している姿だった。でもクリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』でもわかるように、実際に近いマッドサイエンティストというものは、自己憐憫に陥った、自分のことしか見えていないような人物像が近い。
今回、ヴィクター・フランケンシュタイン役をオスカー・アイザックが演じている。この人、マッドサイエンティストの役がハマりすぎ。ヴィクター博士も愛されたかった。怪物も愛されたかった。でも、自身が愛されたことがないから、他者を愛する方法がわからない。他人の立場や心境を想像する能力が欠如している。これがサイコパスというものなのだろう。
今回のフランケンシュタインの怪物は、不死という設定になっている。「父子」と「不死」、日本語では似た音の言葉が作品の軸となっている。ヴィクターは、死を恐れるばかりに不死の怪物を創造してしまった。そして死をコントロールできるようになった。まさにそれを手にしたとき、あまりに「死」に執着しすぎていたために、「生きること」に目が向いていなかった。盲信とはこのこと。いざ生きろと言われても、普通の生き方がわからない。親というのは、子どもが生まれたからというだけで誰でもなれるものではない。生物学上には親かもしれないが、親として自覚がなければ、けっして親として存在できていかない。ヴィクターは、死に執着して、生きる覚悟からずっと逃げてきた。とうとうオーバーテクノロジーにまで手をつけてしまう無責任さ。実社会に当てはめるなら、仕事ばかりで家庭に顧みない父親のよう。人は自分の能力や、それに対する棚卸しができていないと、その才能を無意識のうちに悪用してしまう。自己認識というものも、大人になるということでもあるのだろう。自分を知れば、他者も自然と見えてくる。優しいだけではダメなのよと、映画を通して言われているようにも思えた。
メアリー・シェリーが200年も前に書いたゴシック小説は、現代にも通じる社会風刺のテーマを孕んでいる。この200年の間に核兵器もできてしまったし、人類はオーバーテクノロジーに手を染めてしまっている。あの時代に想像していたよりもはるかに悪魔的な現実になってしまった。かつてのSF作家たちが現代を見たら、はたしてなんて言うだろうか。どの作家も自分が放った予言が当たって喜ぶ人はいないように思う。世界の崩壊は、自分の人生をきちんと生きようとしない、もしくはできないようなちっぽけな個人が、道を逸れたときに起こってしまうのだと、映画を観ながらゾッとしていた。とても怖いけど、優しい気持ちになるような感覚もある、不思議な良い映画だった。
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