『ゴッドファーザー 最終章』 虚構と現実のファミリービジネス
昨年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の脚本家・三谷幸喜さんが、今回の大河ドラマ執筆にあたって参考にした作品に挙げていた『ゴッドファーザー』。日本の時代劇とイタリアンマフィア。権力争いで血で血を洗う権力争いの抗争。時代や国を越えても、そこに集う人間の種類は同じ。「鎌倉殿の13人』が、どこか西洋的な感覚を匂わせていたのも、作品の方向性を海外の作品から参考にしているからなのかも知れない。
『ゴッドファーザー』シリーズを始めて観たのは自分が10代の頃。シリーズ三部作のこの映画。自分にとっても、なんだか親世代が観る古い映画だと思っていた。シリーズ一作目の『ゴッドファーザー』と、二作目『ゴッドファーザーPARTⅡ』は、高校生の頃VHSで観た。CICビデオのブロックバスター価格シリーズのコレクション。今でいう旧作の廉価販売みたいなもの。長尺な作品のため、ビデオカセット2本組だった。
映画はアメリカ移民のイタリア系マフィア・コルレオーネ家の家族の物語。一作目ではヴィト・コルレオーネをメインにした群像劇。ヴィトの三男のマイケル・コルレオーネが、マフィアの首魁・ゴッドファーザーを受け継ぐまでの話。原作者のマリオ・プーゾの構想では、初代のヴィト・コルレオーネを主人公にして『ゴッドファーザー』を書いていたのだろう。作品が好評で続編の依頼が来て、その後を書いていかなければならなくなる。ヴィトは一作目で幕引きするので、二作目からは自ずと二代目ゴットファーザーのマイケル・コルレオーネが主人公となっていく。一作目では学生だったマイケルが、三作目では老人になるまで描かれている。映画『ゴッドファーザー』の主人公は、マイケル・コルレオーネに刷新され、彼の一生を描く作品となっていった。
自分はこのシリーズの完結編にあたる『ゴッドファーザーPARTⅢ』は劇場で鑑賞している。新宿歌舞伎町にあった1000人収容できる大型劇場「新宿プラザ」での鑑賞。場所的には、ゴジラのモニュメントがある「TOHOシネマズ新宿」の裏側辺。当時はまだ映画は入替制ではなかった。混雑していなければ、上映途中でも入場できる。座席指定ではないので、一日中何度でも同じ映画を観ることができた。
ロビーで次回上映を待っていると、ラストシーン近くで劇場から早々に出てくるせっかちな客がいたりする。『ゴッドファーザー』のような長尺な映画は、トイレ事情も深刻だ。自由席制のため、次回鑑賞の客もみなロビーで席の争奪戦に控えている。エンドロールが始まって、劇場のドアが内側から開こうものなら、スタートラインのピストルが放たれたようなもの。即座に反応してしまう。開いたドアから入場しようとしたとき「しまった!」と感じた。映画はまだ上映中。しかもラストシーン。ヤバいと思って後戻りしようとしたが、ときすでに遅し。ロビーで次回上映を待ち侘びていた客たちは、どんどん劇場になだれ込んでくる。もう席の争奪戦は始まっている。後戻りはできない。ラストシーンでロビーが騒がしくなるなんて、余韻もなにもあったものではない。前回の上映を楽しんでいる観客にも迷惑だ。のちに映画館入場が完全入替制になっていくのも当然の流れ。
今回の鑑賞は『ゴッドファーザーPARTⅢ』公開30周年記念に再編集された別バージョン『ゴッドファーザー最終章』。前回この映画を観たのが劇場公開時だったので、正直編集の違いには気づかないだろうと思っていた。どうやら冒頭とエンディングのマイケル・コルレオーネが一人で座っている場面の編集が記憶と違う。『ゴッドファーザー』シリーズは、一作目と『PARTⅡ』は、それほど間隔を空けずに製作されたが、『PARTⅢ』発表に至るまでは16年のブランクを経ている。冒頭の場面がいささか説明的だったので、三部作を連続して観るとリズムが狂ってしまう。ディレクターズカットの再編集版が、オリジナルより短い上映時間になるのは、潔くて好ましい。
今回いちばん観たかったのは『最終章』だった。でもその前のシリーズ作も随分前に観たきりだったので、いま一度最初から観なおしてみた。キレイにレストアされていて、自分の記憶より遥かに画像が鮮やか。オリジナル音声は確かモノラルだったはず。ステレオに変換されているだけでなく、低音がズンズン響いてる。まるで新作を観ているかのよう。レストアに、かなりの手間暇と制作費がかかっている。
シリーズ初期の作品は、自分が生まれる前だったりする。そのころの映画表現と現在のそれとの違いに呆然とする。暴力描写は、実際に役者の顔を殴ったり蹴ったりしてる。かなり痛そう。当時は映画づくりに命を賭けるのは当たり前だったのかも知れない。作品が残せるなら、死なばもろとも。さぞ怪我が絶えない撮影現場だったことだろう。
第一作は、初めての鑑賞から数十年経っているにも関わらず、映画の内容のほとんど覚えていた。それだけインパクトのある作品だったのだろう。ただ二作目以降の展開は、記憶の奥底にはあるものの、ストーリーまでは覚えていない。というかそもそも始めて観たころは、この映画で起こっていることが理解できずにいた。
権力のあるものの存在や、成り上がっていく姿は理解できる。でも頂点へ上り詰めた人間の姿は、若かりし日の自分には興味がもてず、共感できないものだった。映画の中でマイケル・コルレオーネが語る。「綺麗なものを求めて高みを目指したが、実際高いところに来てみたら、もっと汚い場所だった」 高い場所など、あの頃の自分は想像すらできなかった。
人生を明るく生きていくには、希望が必要。どんなところに希望を見いだすかは人それぞれ。金や権力を得ようと目指す者は多い。ただその頂点に辿り着ける者は一握りしかいない。その頂点に辿り着いてしまったマイケル・コルレオーネ。世の中を動かしているものすべてを掌握してしまったモンスター。そんな現実離れの存在を、若者が理解するのは難しい。でも政治も宗教も芸能界すら握ってしまっているのだから、ひとりの人間を超越してしまう力を手に入れたことになる。
『ゴッドファーザー』シリーズは、マイケル・コルレオーネの視点で、コルレオーネファミリーの姿を描いている。マイケル以外の家族の姿も描かれていく。とくにアンディ・ガルシアがカッコよくて好きだった。あの凶暴さ。
このシリーズの監督は、映画界では泣く子も黙るフランシス・フォード・コッポラ。まだ実績のない若かりし日のコッポラ。彼自身がイタリア系ということで、このイタリアンマフィアの原作映画化の監督を抜擢されたと聞く。現実のコッポラも、この映画『ゴッドファーザー』の大成功で、ハリウッドで不動の地位を築いていく。このシリーズにはコッポラの実際の家族も参加している。ファミリービジネスで力をつけていく架空のコルレオーネファミリーの姿と、現実の映画界のコッポラファミリーの姿が、あまりにもリンクしてしまう。
シリーズ当初からコッポラ監督の妹のタリア・シャイアが、主人公マイケルの妹としてキャスティングされている。『ゴッドファーザー』の有名なテーマ曲は、ニーノ・ロータによるものだが、『PARTⅢ』の頃にはニーノ・ロータは他界している。テーマ曲をアレンジした劇版を、監督の父親カーマイン・コッポラが引き継いでいる。そして娘のソフィア・コッポラ。マイケル・コルレオーネの娘メアリー・コルレオーネへのキャスティング。
ソフィア・コッポラといえば、今でこそガーリーカルチャーを牽引した映画監督として有名。『ゴッドファーザーPARTⅢ』の頃は、まだ何者でもなく、親の七光りで俳優業をやってしまったというような、最悪のレッテルが貼られての登場だった。マイケル・コルレオーネの娘役は、当初ウィノナ・ライダーだった。その降板の代役として、ソフィアがキャスティングされた。多くの映画評論家たちが、ソフィアの演技をこき下ろした。その年の最低女優としてゴールデンラズベリー賞も受賞している。劇中ではギラギラしたイタリアンマフィアの殺し合いの世界で、ソフィアだけがホワンとしたアウェイな雰囲気を醸し出している。
ただ今ソフィアの演技を観直してみると、作品としての違和感を感じることはない。ホワンとしたソフィアの雰囲気は、彼女の元来持っている育ちの良さから無意識に出ているもの。ソフィアが作為的に演じているものではない。それが役者としての演技力の無さというのであればそうだが、観客の我々は生粋のセレブのお嬢様が、どんなものなのか知る由もない。この映画で、初めてリアルなお嬢様の雰囲気を知った。一般人では普段出会えないタイプの人。
この30年間でソフィア・コッポラが、映画監督としても評価され、ファッションのインフルエンサーの頂点に立った姿を見れば、多くの評論が早計だったのがわかる。彼女は本物のお嬢様。ソフィアが演じるメアリーも、ファミリービジネスの一環として、慈善事業の代表に抜擢される場面がある。でも彼女自身がその重大なポジションの意味がわかっていない。やはりホワンとしている。この力は親が築いたもの。よくわからなくてあたりまえ。ソフィアの存在が、そんな戸惑いを体現している。そしてその心境は、彼女がのちに描いていく映画の中で、丁寧に吐露されていく。豊かな筈なのに、なんだか寂しい。ソフィア・コッポラと自分は同世代。自分も観客として、成り上がった後の高みの世界が理解できなかった。それと似たような心境だろう。
何もないところからはじまった父フランシス・コッポラの映画人生。それと対比して、土台がしっかりしたところから始まったソフィア・コッポラの映画人生。完璧主義で厳しい演出のフランシス。映画監督はかくありきのステレオタイプ。でもソフィアはそんな感じではない。つねにホワンとしている。周りのスタッフたちが心配してしまうらしい。「この人を私たちがなんとかしてあげなければ」と。周りが率先して彼女を守ってあげたくなる。そうして彼女の作品が完成していく。権力を振りかざすだけが監督の仕事ではない。今後のカリスマ性の姿かもしれない。ソフィア・コッポラの才能はそこにある。虚栄を張らず、等身大の力で人を動かす。旧世代では理解できないような優しい世界観。そんなホワンとした中で作品が創りあげられていくのなら、かなり幸せな状況でもある。
映画の世界を始め、あらゆる業界の頂点にたつこと。周囲を蹴落として、己のためだけに邁進していく。そんな泥臭い政治はもう古い。底辺から成り上がるよりも、その人の品格で上に上がっていく。最近のミュージシャンやお笑い芸人も高学歴者が多い。いままでそれらの道を選ぶ人は、どこにも行き場所のない人が多かった。人を楽しませる能力は、豊かさから生まれる。その人が持つ豊かさがで、第三者の心が満たされる。上品なものを求める人が多くなっている表れ。文化の変遷。より成熟した世の中に向かっていくような気がして、とても楽しく思えてしまう。
ゴッドファーザー<最終章>:マイケル・コルレオーネの最期 – マリオ・プーゾ原作 Prime Video
ゴッド・ファーザー (字幕版) 1972年 Prime Video
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