『すずめの戸締り』 結局自分を救えるのは自分でしかない
新海誠監督の最新作『すずめの戸締り』を配信でやっと観た。この映画は日本公開の時点で、世界199ヵ国での公開が決定していた。そもそも199ヵ国って、世界にはどれだけの国があって、どれだけの言語にこの映画が翻訳されるのだろう。作品が好評だったから配給が大きくなっていくわけではなく、新海誠監督の新作を世界が期待している。個人名を冠にされた監督のプレッシャーを想像すると恐ろしい。始めから世界標準を目標に制作された作品。普段、国内完結型だけのマーケティングをしている日本メジャー映画にしては珍しい現象。
協賛する日本企業も多く、鼻につくほど宣伝ばかりが臭い立つ。大企業がこぞって協賛してくれたおかげで、今の日本で日常的に使われている商品が、そのままアニメに取り込まれている。映画にリアリティーが生まれてくる。日本の現代社会の生活感を、これでもかと言うくらい克明に描いている。2020年代の日本の空気感を世界や未来に伝える記録として、奇しくもこの映画が担ってしまった。ファンタジーという絵空事に、現実味がつけられる。現代社会が、いかに企業によってつくられているものなのかと、あらためて実感してしまう。
『すずめの戸締り』は、2011年に発生した東日本大震災をテーマにした娯楽作品。社会風刺でもある。最近の災害を扱うので、直接の被災者の多くもこの映画を観ることになる。そのことも想定して映画をつくっていかなければならない。
自分がシナリオライター養成学校に通っていたとき、講師が「娯楽作品ではどんなことがあっても誰かを傷つけてはいけない」と強く言っていた。ともすると作品の面白さを追求するばかり、センセーショナルな展開に麻痺してしまう。人を傷つける表現を無意識のうちにしてしまいかねない。いまのSNSでの、誰かを罵倒して承認欲求を満たすような行為は、エンターテイメントの表現としては絶対に許されないこと。誰もがメディアの発信者になれてしまう現代、ネットはもっとも治安の悪い無法地帯となっている。新海誠監督の新作は、そんなふうに誰かを傷つけたくはない。むしろ傷を抱いた多くの人に寄り添いたいと願っている。真摯すぎるくらいの配慮の姿勢が、映画をめちゃくちゃ真面目なものにさせている。
新海誠監督がメジャーデビューして三作目。メジャー第一作目の『君の名は。』は社会現象になるほどの大ヒット。映画ファンよりも、むしろ普段映画を観ない人の方が、この映画に食いついている印象があった。メディアはポスト宮崎駿監督の存在を求めていた。そこにむりやり新海誠監督をはめ込んでいこうとしている目論見を感じた。宮崎駿監督と新海誠監督の作風は、似ていて非なり。なんだかそれも強引すぎて息苦しい。
『君の名は。』と『天気の子』、『すずめの戸締り』と東日本大震災を題材にしたファンタジーが続く。「震災三部作」とも言われている。僕と私だけの「セカイ系」に留まることは、自主映画ならそれでも良かった。けれど新海誠作品は、予想より遥かに大きくなってしまった。自分はこの新海メジャー三作は「巫女三部作」と心の中で呼んでいる。ファンタジーと現実との境界線がどんどんみわけがつきづらくなってきている。虚構の中だからこそ、真実もそこにあったりもする。もうわけがわからない。
「悪政が蔓延ると、天災が起こりやすくなる」という言葉がある。なんとも抹香臭い表現だと感じていた。でもその真意は理論的。悪い政治は環境破壊を厭わず、金儲けを優先してしまう。その自然破壊の結果として、未曾有の天災が起こりやすくなる。なんだ、結局悪いのは人間なんじゃないか。オーバーテクノロジーの脅威は、古今東西のファンタジーで数多に扱われいる。人類の敵は人類自らがつくりだしている。なんとも皮肉。多くの芸術家たちが警鐘を鳴らし続けているにも関わらず、人類の環境破壊のハイペース化はとどまることを知らない。
『すずめの戸締り』の配信スタートボタンを押してすぐに、これは小さな画面で観る映画ではないとわかった。プロジェクターに繋ぎ直して、最初から観直すことにした。宮崎県から始まるロードムービー。宮崎は神話の多いところ。物語の大団円は東北地方と約束されているので、日本列島をほぼ横断する旅となる。南海トラフをかすめながらの、地震をおさめる旅。アニメファンの聖地巡礼熱も上がりそう。
最近、日本のアニメはどんどん難解になっている。『すずめの戸締り』は、意外なほどにわかりやすくてシンプルなストーリー。ツイストがなくとも作品は充分エキサイティングになる。ストーリーでの感情の流れを、分単位に計算しているらしい。今のアニメは心理学を上手に使いながらプロットを組んでいる。昔のアニメのように、魅力的な主人公が、ただただ突拍子のないことをして問題を打破すればいいというものではなくなっている。
そうなると逆にこの映画のファンタジー要素を抜いた場合を想像してしまう。妄想を解いたときの、主人公たちの心象風景は如何に。彼ら彼女らは、ただのパラノイアの狂人。それは思春期の持つ、不安定な心身のメタファーでもある。
ファンタジーを否定してしまうと、主人公の鈴芽は、ただの家出少女でしかなくなる。自称「閉じ師」と言っている草太は変人でしかない。草太が登場した場面、鈴芽は「綺麗」と言っていたけど、一緒に観ていた子どもたちは笑っていた。「怪しすぎる」って。開いた扉を必死で閉じようとする草太に、みんなで大爆笑。つくり手の意図とは違う楽しみ方をしてしまっている。映画館だったら、大ひんしゅくだった。
草太が「鈴芽さん」と呼ぶ言い方が優しい。新海映画の男性キャラが女性を呼ぶ言い方がいつも気持ち悪かった。草太が年下女子にも敬語で対応しているのが良い。でも草太はルックスこそ違えど、『男はつらいよ』の寅さんと同じタイプ。他人とは距離を取りたい人。敬語で接するのも不器用ながらの自己防衛。相手との壁を築いている。RADWIMPSのエンディングテーマ『カナタハルカ』は、別ルートで旅をする草太の、鈴芽に対する気持ちを歌ってる。かなり甘ったるくて虫歯と腹痛になった。この冒険が終わったあと、鈴芽と草太が付き合うとしたら、しょっちゅう草太は「どうせ俺なんかいない方がいい」とか言いだしてひとり旅に出ようとするんじゃないだろうか。それを「違うだろ!」と鈴芽が怒鳴る。絶対寅さんの妹・さくらみたいに悲しく見送ったりしない。それはそれで所帯染みたコメディになりそう。草太くん、社会性を取り戻せ!
鈴芽はきっと普段は震災のときの心の傷もしまい込んで、「良い子」として日々を送っていたのだろう。臭いものに蓋をしても、いつまでも隠し通すことはできない。突発的な家出という奇行で、隠してきたトラウマと対峙することになる。ただこの主人公は、普段はそんな過去のトラウマを抱えているとは思えないほど、明るく活発にきちんとやっていたはず。この旅は、先に進むための通過儀礼のようなもの。トラウマ治療の最終段階。
子ども用の椅子を小道具に使ったのが上手い。鈴芽が幼いころ、その椅子は母の形見であり、イマジナリーフレンドでもあった。それが実際に草太というソウルメイトを見つけたことで、手放すこととなる。それも今の自分から幼いころの自分に手渡すところが心憎い。しかもイマジナリーフレンドもソウルメイトも、その椅子に一体化する。
新海作品は、過去のアニメ作品からの引用が多い。自分が気づくだけでもスタジオジブリ作品や『エヴァンゲリオン』の表現と同じものを見つけることができる。スタッフも実際それらの作品に携わった人たち。オリジナリティよりも、2次創作の同人誌感は否めない。『すずめの戸締り』は、村上春樹さんの震災短編集『神の子どもたちはみな踊る』の中の『かえるくん、東京を救う』から着想を得ているとのこと。『すずめの戸締り』は、奇しくも村上春樹さん原作の映画版『ドライブ・マイ・カー』と、主人公の旅の心の到達点が、同じ場所へ辿り着くことになる。
心理学の治療法に、過去の自分を今の自分が寄り添っていくというものがある。過去の幼かった自分が泣いていたら、話を聞いてあげたり、一緒に泣いてあげたり、抱きしめてあげたりする。過去のそのとき自分がしてもらいたかったことを、今の自分がしてあげる。自分は悪くない、自分は愛されるべき大事な存在なのだと教えてあげる。自分自身で幸せになる意思表明。幸せになる覚悟を決める。だからと言ってこの先どうなるかわからない。わからなくとも明るい方を信じて選んでいく覚悟。
心理学がどんどん進歩して、新しい治療法が見つかったり、良い医師に出会えたりしても、結局自分自身で第一歩を踏み出さなければ、この苦しみは一生つきまとう。どんなに周りが寄り添ってくれても、自分に対峙できるのは自分でしかない。孤独な闘い。鈴芽はひとりで立ち向かわなければならないのか。ファンタジーの基本として、主人公の保護者不在は鉄則。でも鈴芽の周りにはいつも蝶が舞っている。蝶は死者の化身。鈴芽の旅は、彼女の親たちにも見守られている。
ふとリアルに蝶が自然に舞う時期はいつかと考える。劇中では彼岸花も咲いている。学生服は夏服だけど、それほど暑そうではない。街を歩く人たちは、マスクをしている人も多い。この映画の世界でもコロナ禍はあったみたい。映画の設定が2023年9月25日から5日間の物語とのこと。自分がこの映画を観たのは2023年9月24日。アニメ映画は制作に3年くらいはかかる。過去に予測した2023年の今日の日本の姿は、あまりにも的中している。例年、9月の最終週がもっとも季節の変化を感じる時期になっている。しかも2023年9月29日は中秋の名月。映画のクライマックスに満月の日を選ぶなんて凄くいい。リアルタイムでファンタジー映画を楽しむことができた。妄想に酔いしれる。さまざまな事象を調べて、それらの点をフィクションで繋いでいく楽しさ。虚構と現実が繋がる。オタク心に火がつく。
新海誠監督と自分は同年代。劇中で使用される昭和歌謡の懐メロは、自分も全部リアタイで知っている。なんだかんだで長く生きてしまったものだ。鈴芽は明らかに自分の子どもの世代。親としてこの映画を見守るような感じ。そうなると、幼いうちに親が亡くなることが、どれだけその子の人生に影響を与えるかを感じずにはいられない。途中までエリート学校に進学していた人が、父親が亡くなったことで転がり落ちてしまったなんて話もよく聞く。それはそもそも日本の学費が高すぎるのが問題。
パラノイアといえば、草太の祖父も現代社会では頭のおかしな人でしかない。草太とそっくりなルックスで威厳のある祖父も、今は病床の身。祖父が鈴芽を嘲笑う場面に腹が立つ。祖父は大義を重んじる人。そのために命を捧げてきた。だから草太が大義に殉ずることを助ける気もない。現実的には、頼りにならない大人。草太もどうやら苦手らしい。この祖父、なんで鈴芽を笑ったのだろう。彼女があまりにかわいいことを言ったからか。「かわいい」をなめるなよ。「かわいい力」を信じて鈴芽は立ち向かう。ただ、深海作品の「かわいい」は度がすぎて食あたりを起こす。こちとらそこまで弱ってない。描かれる厳しさと甘ったるさの差が極端。抗わないと飲み込まれて脳がやられる。草太は「大義」と「かわいい」の狭間で迷っている。「大義」の世界は争いごとがたえない。厳格な祖父の役を、梨園の厳しい世界で生きてきた松本白鴎さんが演じることに、本物の重みがある。
今までの新海監督の震災映画では、「あんな悲しいことは嫌だ、認めたくない」と、震災の存在自体を否定してきた。せめて映画の中では、災害は起こらなかったことにしようとしてきた。誰もが無事でめでたしめでたし。今回の『すずめの戸締り』は、震災の存在を全面的に受け入れている。そしてその傷とどう向き合っていくかまで描いている。甘えがなくなった。これまで新海作品はいつもどこか違和感があった。今回は引っかかるものがあまりない。いろいろな意味での覚悟の表明を感じる。
最近、アニメ作品をファンが考察するのが流行っている。『すずめの戸締り』は、考察が不必要なくらいストレートな娯楽映画。情報過多なアニメの流行の中で、わかりやすい楽しさの追求に視点を絞っている。今までの新海誠監督の作品にある、生煮えのままの料理のような作風はさほどない。古くからの新海作品のファンは、その生臭さが好きだったのだろう。でもメジャー映画として一般ウケは難しい。
新海誠監督は、自身の過去作の「ここは良くない」と言われている部分に真摯に向き合った様子。短所を必死で克服しようとした形跡が見受けられる。自分の分身である作品の欠点を認めて改善する。それはひじょうに勇気のいる作業。映画の鈴芽の過去との対峙の作業によく似ている。現実逃避もほどほどに。新海誠監督作品の中で、自分はこの『すずめの戸締り』がいちばん観やすかった。センシティブすぎる乙女おじさんの旅は、さらに続いていくようだ。
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