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『ベルサイユのばら(1979年)』 歴史はくり返す?

公開日: : アニメ, 映画:ハ行, , 配信

『ベルサイユのばら』のアニメ版がリブートされるとのこと。どうしていまさらこんな古い作品をリメイクするのだろう。なんでも原作発表50周年記念とか。この情報が発表されたのはパリオリンピックで世の中が盛り上がっているまっさなか。オリンピックの開会式では、断頭されたマリー・アントワネットが熱唱している場面があった。マリー・アントワネットは『ベルサイユのばら』の主要人物。このパフォーマンスがなされた場所は、マリー・アントワネットが処刑前まで幽閉されていた建物とのこと。歴史とフィクションと現実をエンターテイメントとして一緒くたに見せつけられる。さまざまな感情が込み上げてくるパフォーマンスだった。

今回新たなリメイク版『ベルサイユのばら』を制作するのは、『進撃の巨人』や『呪術廻戦』、『チェンソーマン』のMAPPA。確かに『進撃の巨人』のドイツ風の街並みは、『ベルサイユのばら』の230年前のパリに通ずるものがある。今の技術で『ベルサイユのばら』の映像化は確かに興味深い。自分は小学生低学年のころ、夕方に再放送されていたアニメ版の『ベルサイユのばら』に夢中になっていた。それから大人になって、原作マンガを初めて読んだ。馴染み深い作品。

そもそも自分が『ベルサイユのばら』の存在を知ったのは幼稚園児のとき。その頃、宝塚歌劇団の演目として『ベルサイユのばら』が大ブームとなっていた。マンガ嫌いの自分の親でさえ、『ベルサイユのばら』の主人公・男装の麗人オスカルのフィギュアを飾っていた。自分の親は、「マンガなんてくだらない」と言ってこの媒体を全否定していた。とはいえ小説などの活字の本も読んでいる様子もなかった。そもそも本を読む習慣のない人だったのだろう。それが完全否定のマンガの登場人物のフィギュアを持つとは。ブームとはいえ、かなり不思議な状況。

その『ベルサイユのばら』のフィギュアは、オスカルはじめ、マリー・アントワネットとフェルゼン、アンドレと他の登場人物もあったと思う。「マリー・アントワネットもかわいいけど、やっぱりオスカルがキレイ」と親が言っていた。そういえばあとからアンドレも揃えていたような。今思い返すとそのフィギュアの出来栄えは、リカちゃん人形に毛が生えた程度のクオリティ。フィギュアというよりはオモチャっぽかった。後の日本のフィギュア文化の進化は著しい。

『ベルばら』のフィギュアを所有していた親の心理を想像してみる。マンガは低くみていたけれど、宝塚の作品のキャラクターならばOKという矛盾を感じる。ようするに軽い。宝塚の『ベルサイユのばら』は、いまだに人気演目として定期的に上演されている。宝塚は認めるけれど、マンガは認めるわけにはいかない。複雑に絡み合うブレた心理。

『ベルばら』については、自分はなんといっても出崎統監督のテレビアニメ版が好き。今回、MAPPAでリメイクされるとのことで、昔の『ベルばら』のアニメがどんな感じだったか観なおしてみた。子どもの頃なんども観返していたように思っていたが、あまりに覚えていないエピソードが多かったので、本当に数十年ぶりにこのアニメを観たことになる。政治的部分は、ほとんど理解していなかった。全編通して出崎統監督によるものと思っていたが、最初の方は別の監督の手によるものだった。シリーズが進んでいくなか絵柄が変わっていき、登場人物の顔が別人になってしまうのはご愛嬌。後半は出崎演出の真骨頂となっていく。

フランス革命を描いた本作。歴史の勉強になると言い訳をしながら、男の子がこの少女マンガのアニメを夢中で観ていた。昭和の時流だったのか、アニメの物語は、毎回気が滅入るほどの重い展開の話ばかり。一気に数話観ることができないほどの鬱展開の連続。事件が起こらなければ物語ではないといった制作者の精神。史実に基づいているストーリーも多いが、脚色によるさらなる暗い展開に話を拡げてもいる。毎回嫌なことばかりが主人公オスカルの身に降りかかる。ここまで悲劇の連続だと、逆に笑えてしまう。

なかでもトラウマレベルで記憶に残っているエピソードがある。上流貴族のロリコンオヤジに、政略結婚で嫁に出されることとなった娘のエピソード。10代初めのまだ幼いその娘は、その政略結婚が気を失うほど嫌。親はどんどん話を進めてしまう。誰も味方がおらず、どんどん追い詰められていく。ついには頭がおかしくなっていく。まったくもって救いのない話に、子どもの頃凍りついて観ていた。ホラー作品より恐ろしい顛末。演出のほとんどそのまま覚えていた。『ベルばら』、面白い!

パリオリンピックもあったし、フランスではマンガはアートとして扱われている。50周年を越えた『ベルばら』のブーム再燃を狙ってのアニメ版リメイクの企画なのだろう。フランス革命を描いたこのマンガ。当時は歴史を伝えるファンタジー色の強い作品だったが、いまの時代では、現実の方がつくり話のようなことばかり起こる社会となっているので、心穏やかに観ることができない。

『ベルサイユのばら』の時代のフランスでは、国民4%の貴族と96%の貧民に分断されている。全国民は4%の貴族の贅沢のために、重税による貧困へと追い込まれている。貴族たちは国民の声に耳を貸さず、ますます増税させていく。貧しさで飢えて死ぬなら、戦って死んだ方がいいと、国民たちは荒んでいく。結果、革命勃発へと展開していく。貧しさから暴徒化していく国民の心情と空気感が、連続アニメで丁寧に描かれていく。物価高騰や重税、一部の限られた特権者たちは何をやっても許される社会。なんだか現代でも他人ごとではない。

そもそも原作者の池田理代子さんがこの『ベルサイユのばら』を書くきっかけとなったのは、男尊女卑の社会に一石投じるつもりだったかららしい。主人公のオスカルは、女性でありながら女王マリー・アントワネットを護衛する近衛隊隊長。男ばかりの隊員たちを従えた、たくましい軍人。文武両道、血の気も多く、争いごとになると勇んで自ら飛び込んでいく気性の荒い性格。オスカルを最初は女だからとバカにしていた部下たちも、いつしか尊敬の念で慕っていく。そのオスカルの小気味よさが、男も女も魅了するカリスマ性となっている。とにかくオスカルがカッコいい。

1980年代に男女雇用均等法が成立され、表面上は男女の平等は認められた。けれども実際は、男女が同じ仕事をしても、男性のほうが圧倒的に高給で、女性はなかなか昇給や昇進の機会が与えられない。作者の池田理代子さんは、そのことに憤り、オスカルというジェンダーの壁を軽く飛び越えてしまうようなキャラクターを主人公に考えた。

残念なことに、50年前のこの怒りの警鐘も、社会にあまり届くことなく、日本も今では世界で最下位レベルで女性差別の横行している国となっている。世界の価値観がどんどん変わっていくなか、50年前から女性蔑視の精神にはあまり変化が起こっていない。男尊女卑や家父長制精神への社会固執は、先進国としてかなり恥ずかしいことでもある。

つい最近でも、医療大学の受け入れ男女比率が問題となっていた。単純に成績順に合格するのではなく、大学側がはじめに決めた男女の受け入れ人数に沿って、学生を合格させていく。そうなると成績が低い男子でも、成績の良い女子を差し置いて合格できてしまう。優秀な生徒よりも、男子を受け入れたいという慣例。でも実際のところ患者にとっては、男女に関係なく優秀な医師に巡り合う機会があった方がありがたい。男性優位の古い体質が波紋を呼んだ。

一般の高校受験でも同じことが起こっていた。同じ高校でも、女子は男子と同じ成績だと受からないのは当たり前という意識が根付いている。本年度の高校受験から、純粋に成績順に合格者を出すことが義務付けられた。高校側は女子ばかりが増えてしまうことを懸念していた。実際蓋を開けてみると、合格者の男女比率は例年とほとんど変わらない学校が多かった。

これは男女の性格の現れと言えるのかもしれない。今の時代、男だからとか女だからと枕がついて分析するのはNGだけど、性別からくるものごとの考え方の特徴というのは、大まかには存在している。男の子は、細かいこたはあまり考えないで、実力ギリギリの学校でも受験してしまう。反対に女子は慎重派が多く、実力より少し下めの学校を受けたりする。そうして合格した学生の男女比率も平均成績も、従来のものと変わり映えしないものとなってきた。学校側が男女の受け入れ人数をフリーにしても、男女比率が変わらないのなら、上から強制的にコントロールなどしない方がいい。自然の流れは、ガチガチに管理などしなくとも、そのときいちばんいい結果へとつながっていく。それが本来の自由でもある。時流を封じ込めることの方が、負の遺産へと繋がりかねない。

ここまでくると、『ベルサイユのばら』の舞台となっている悲惨な世界観は、あながち極東の現代の日本にも当てはまってきてしまう。ただ、はたして日本で革命が起こるかどうかと考えてみると、なかなかそこまで激しい事態には陥ることはなさそう。革命というと聞こえはいいが、ようは国内紛争。暴力に訴えれば、それなりにしっぺ返しを喰らう。フランス革命ののち、革命家たちが派閥に分かれていき、ついには革命家同士たちが互いを殺し合う政治になっていった。結局暴力で始まった政治は、暴力に帰結していく。フランスのラテン魂が、革命へと導いていくのだろうか。日本人にはどうもそのような激しさは持ち合わせてはいない。おとなしい日本人が革命などするようなら、本当に世も末だろう。

現代の日本もすっかり貧困社会となってしまった。本来ならスラムができてもおかしくない世の中なのに、日本はそうならない。それは義務教育で、ほとんどの国民に最低限の学力がついているからという説もある。国民のほとんが字を読める識字率の高さは、世界的でも珍しいらしい。どんなに貧しくとも、我が子の大学進学を考えたりしているのは、日本人の能天気な性格のおかげばかりではなさそう。

知識があることの利点は、ものごとを冷静に判断できる力がついているということでもある。0か100の思考でものごとを見ないのが知識でもある。文明社会となってくると、白か黒かの二択では決めかねることが多い。それこそ白と黒の間のグレーばかりの世界となってくる。そのグレーにも、限りなく白に近いグレーもあれば、ほとんど黒のグレーもある。どのグレーまで自分が許せるかの問いとなる。十把一絡げで判断はできなくなる。各々各自が自分で考えて決めていく。あの人はあの濃いグレーでも大丈夫そうだけど自分はムリ。ムリなら早々に立ち去ればいい。そうやって、自分で考えていく力が知識なのだろう。熱に浮かれて、短絡的な行動を選ばない国民性というのは日本人の利点。

オスカルのように、自分の破滅も恐れず信念を貫いていく人物というのは、カッコよくて憧れる。でも実際に身の回りにそんな英雄がいたら、家族なら悲しい思いをしてしまう。遠巻きに見ている分に魅力的な英雄は、たいてい孤独で不幸な人生を送っている。観客の自分たちは、現実の非力な自分では決してなし得ない偉業を、創作の人物に担ってもらっている。そうして煮え切らない感情を浄化させる。社会が平穏である水面下では、荒ぶる想いがくすぶっている。『ベルばら』を観ていると、あたかもオスカルが実在した人物に思えてくる。巧みにフィクションと史実と絡み合わせている原作の凄み。我々はオスカルに荒ぶる想いを託しているからこそ、今日も平穏に生きていくことに努力していけるのかもしれない。

 

 

 

 

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