中島哲也監督の名作である。映画公開当時、とかく中島監督と主演の中谷美紀さんとが喧嘩しながら作ったと話題になっていた。原作小説は一人の女が堕ちていく、正直不愉快陳腐な物語と言っていい。それを中島監督は整合法の演出を無視して映像化している。悲劇を喜劇の演出でみせ、アニメやミュージカル、あらゆるエンターテイメント手法と情報量で圧倒させる。自分は映画を観賞後、疲労感に襲われた。ものすごいパワー。

中島監督は「嫌われ松子」と呼ばれた女性の生涯を優しい視点で描いている。晩年の松子はニートでアパートの嫌われ者。そんな松子は、若かりし頃は優秀な教師だったという。彼女がなぜ転がり堕ちたのか?

ここで彼女の人生のキーとして父親との確執がある。映画自体が「父との確執」のみを描いていると言っていい。人は愛されている自信がないと、その人の人生そのものが不幸になる。だから子ども時代に親から愛されることを実感することはとても重要。誰かに認められたいからがんばるというのは、とても消極的な発想。これは自分に自信が無い人の姿。松子は父親に認められたいが一心で優秀な子どもを演じ続ける。視野が狭いがために正しい判断力を失ってしまう。そんな人が道を踏み外すのは容易なこと。しかし今の日本で、自分に自信が持てない人のなんと多いことか。いじめやネットでの罵詈雑言などはその現れだろう。

社会からドロップアウトしてしまう人を、自分もなんとなく疎ましく感じていた。だが、そういった人たちは、自分では想像もできないくらいの理不尽な人生を頑張って生きてきた人かも知れないと映画は気付かせてくれる。日本ほどレールから外れた人や、型にはまらない人に厳しい国民性は世界的にも少ないと思う。都会では他人との密着度が高いぎゅうぎゅう詰めの生活におかれながら、隣人との距離は大きく、一期一会という言葉もなくなってしまったかのよう。電車で隣人の肘に触れながら言葉を交わすこともなく、手元のスマホで遠くにいる誰かと会話する異常な壁。孤独はイヤなのに人と接したくない矛盾を抱える現代人。

松子が亡くなって、天国への階段をのぼるとき、彼女と一緒に、彼女の人生に関わった人たちもみんなが同じ歌を口ずさむ。カーテンコールにも近い演出。松子は関わった人の心の中に確実に存在し、みんなが彼女を想っていた。映画鑑賞後は、人に優しくしなくてはと思わされる。どんなにダメ人間に見えるような人でも、素晴らしいものを持っていると信じたくなる。