『未来のミライ』真の主役は建物の不思議アニメ
日本のアニメは内省的で重い。「このアニメに人生を救われた」と語る若者が多いのは、いかに世の中が生きずらいかの証し。映画を始め、アニメ作品も所詮商業作品。純文学ならばまだ個人の心の叫びもダイレクトかもしれないが、商売のために心のひだをなぞらえた作品が、人生の指針になってしまうのはとても危うい。この危うさこそ、若さの魅力なのだろう。
そんなこともあってか、自分は最近の日本のアニメにはなんとなく距離をおいてしまう。どんなに国民的アニメと言われても、なかなか興味をそそることはない。まだスタジオジブリ作品が全盛の頃は、自分も夢中になって観ていた気がする。でもその頃自分も若かったからだけなのかもしれない。
だから『未来のミライ』も観ることはないだろうと思っていた。今回、『金曜ロードSHOW!』でテレビ放送になったとき、ウチの子たちと一緒に観てみることにした。
『未来のミライ』は米アカデミー賞にノミネートされていたので、そこは自分の興味を誘った。日本のエンタメの殆どが、国内だけの客層しか見ていない。国内完結型で製作されたものは視野が狭い。楽屋オチみたいな作品は嫌だ。でも海外で評価される日本作なら、ちょっと気になる。文化の違う場所で認められるなら、なにがしらパワーがあるはずだ。
正直、アニメで「時間を旅する女学生」の話はもう辟易してる。予告編からはそんなものしか伝わらなかったが、本編が始まったら、どうやら様相がちょっと違う。『未来のミライ』は、ドリームワークスの『ボス・ベイビー』と共通のテーマ。新しい家族が家にやって来たときの第一子の苦悩。
そういえば我が家の第一子も、第二子が誕生して家にやって来た一週間後に、「もうあかちゃん、びょういんにかえしてきていいよ」と言ってたっけ。みんなが第二子の写真やビデオを撮っていると、「こっちもとって!」と割って入ってくる。大人からみれば、健気で可愛らしい光景だが、第一子本人からしたら死活問題。このまま第二子に我が家が乗っ取られてしまう! いままで両親の愛情を独り占めできたのに、これからは第二子にすべて取られてしまう。もう自分は愛されないの⁉︎
『未来のミライ』の主人公は4歳のくんちゃん。子どもを呼ぶときに「くん」とつけるか「ちゃん」とつけるか迷う。名前を呼んでるようでいて匿名性がある。登場人物はみな、「おとうさん」「おかあさん」「じいじ」「ばあば」と続柄で呼ばれている。名前があるのは、犬の「ゆっこ」と、生まれたばかりの妹「未来」ちゃんだけ。この匿名性が、この物語が観客の誰にでも当てはまるものだと示している。
『未来のミライ』というタイトルだけど、未来ちゃんはあまり活躍しない。これはくんちゃんの物語。それが良かった。実を言うと自分は、細田守監督の描く女性があまり得意ではない。だからすんなり受け入れられた。でも細田作品の女性キャラクターが好きな人には、なんとも物足りないだろう。この映画を「好きくない」と言う大人は、きっとそこが引っかかるところなのかも。
「好きくない」とは、くんちゃんの口癖。「嫌い」といほど憎くはないが、「不満があります」というときに多用される。自分はこの映画、好きくなくなくなくなくないかも。
くんちゃんは4歳の男の子だけど、言葉が達者。実際のそれくらいの子は、そこまで語彙があるはずはない。でも、この年代の子どもたちが感じていることは、大人の感受性よりも深い。言葉は追いつかないが、子どもたちの頭の中では、これくらいの考えが膨らんでいるだろう。子どもをナメちゃいけない。
くんちゃんの声は上白石萌歌さんが演じてる。4歳児の男の子の声というより、若い女性のままの声で演じてる。初めは違和感があったが、この映画ではこれでいいのだろう。作品はリアリズムの追及ではなく、あくまでファンタジーなのだから。
舞台作品では少年役を若い女性が演じることは多い。そう、この映画はなんだか小劇場の舞台っぽい。そのままこのシナリオを舞台劇に転用できそうだ。シチュエーション・コメディ。
それもそのはず。物語がほとんどが家の中で進んでいる。子どもにとっては家が世界の中心。宇宙にだってそのまま繋がってる。傾斜を利用した狭い敷地に建てられた小さな家。とても日本的だ。中庭には大きな木があり、そこがファンタジーへの入り口となる。幼いくんちゃんが、家族のルーツを想像していく。家系図が英語で「family tree」だから、メタファーというよりはそのまま。
この映画の家が、このまま小劇場のセットになったら圧巻だろう。登場人物たちが上の階下の階、中庭と入れ替わり立ち代りしたらどんなに楽しい芝居になることか。
しかし大団円はやっぱりセンチメンタルな世界へと誘われちゃう。『未来のミライ』は、細田作品にしてはドライな方だけど、やっぱりその辺は首筋が痒くなってしまう。
細田作品の中の育児はいつも可愛い。現実のそれが戦場のようなので、親経験者からすると、美化されすぎでなかなか共感しづらい。少子化の世の中で、育児に恐怖感を若者に抱かせないためか?
作品がやろうとしているところはとても好み。でも、何だか違うんだよな〜と、細田作品を見るたび毎回歯がゆくなってしまう。
この映画で描かれている理想の家族像のスタイルも、現代の多様性からするとステレオタイプで古い。家族形態のあり方として、この昭和的な家族構成ももちろんあるだろう。でもそれは一例でしかない。生涯未婚や子どもを持たないのもいい。ジェンダーの壁もなくていい。アニメというファンタジーだからこそ、美化された過去に執着せずに、それこそ未来をシミュレートしていきたい。
映画公開時もテレビ放送後も、街で小学生の子どもたちが『未来のミライ』のことを話してる。メインの客層は子どもたちなのに、大人向けの装いをしようとするのは、マーケティングの方向性が違うのかも。
どんなお客さんに観てもらいたいのか、受け手の顔を想像してターゲットを絞って作ったなら、もっとわかりやすい映画になったのではないだろうか? 子どもも大人もどちらかの客層も欲しいとなると、観客は戸惑うばかり。製作者たちは、すべてを監督ひとりの責任に任せすぎなのかも。作家主義での成功は奇跡的なもの。多くの費用と大勢でつくる映画には、その作家主義に頼るのは、思考停止にも繋がりリスキー。
映画製作者たち、とくにプロデューサーや出資会社の決定権のある人は、もっと映画館に足を運んで、ナマの観客に混じって空気感を掴むべき。完成された作品をただ劇場やメディアに放り込んで、興行収入の数字だけで判断しては、おもしろいことにはならない。
アニメーションというジャンルは、基本的には子ども向けのカートゥーン。でも大人が本気になって、子どもたちに最高のものをみせてあげたいと努力した作品には、子どもたちだけでなく大人も振り返らせる。かつて何度も難局を乗り越えたディズニーの歴史は、その観客と作り手の熱意と誤解との繰り返しだ。
いま、純粋に子どもたちのために作られる作品が少なすぎる。大人向けのアニメは、あくまで変化球のサブカル的嗜好。そこは原点帰りするのも新しいかも。
さて、『未来のミライ』の舞台化されたものを、子どもたちが目を輝かせて観ている姿を想像したら、それはそれは楽しくなってしまった。子どもたちの前向きな感性には、センチメンタルは不要だ。
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