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『ドグラ・マグラ』 あつまれ 支配欲者の森

公開日: : 映画:タ行,

夢野久作さんの小説『ドグラ・マグラ』の映画版を久しぶりに観た。松本俊夫監督による1988年の映画。初めてこの映画を観てから、随分時が過ぎてしまった。松本監督をはじめ、出演者の多くがすでに亡くなっている。それに恐怖を感じる。

映画初見の頃、自分は夢野久作さんの原作小説を未読だった。「読むと必ず頭がおかしくなる」と言われている小説。難解そうだし、読むのが怖い。作者が10年かけて何度も推敲して、作品発表の翌年に亡くなっている。作者も殺す、呪われた作品。

原作小説はさまざまな物語展開や文体を駆使している。多様な小説表現の手法を用いている。本編の中で、この小説『ドグラ・マグラ』は、精神患者が書いた本として登場している。まさにメタフィクション。「狂人が書いたなら、支離滅裂なのだろうと思いきや、それは計算され尽くされた、巧妙な奇書なのだ」と自己説明。頭が良すぎる作風だからこそ、読者の頭も狂ってくる。

映画は原作小説の一解釈として、わかりやすく料理している。自分は映画を先に観ていたので、混乱することなく原作小説を読むことができた。精神世界の混乱を、冷静に描いている。

昭和初期が舞台のこの映画。まだ精神科が差別の対象だった時代。精神病棟に集う、所謂「頭のおかしい人々」の物語。作品が発表された1935年くらいでは、精神科にお世話になることは、人生詰んだことと同じ。きっと当時は鬱病ぐらいでも、狂人扱いされていたのではないだろうか。

松田洋治さんが演じる青年は、精神病棟の病室で目が覚める。彼には記憶がない。室田日出男さん演じる怪しい精神科医・若林博士が言うには、青年はある殺人事件に関与していたらしい。恐怖のあまり記憶を失ったと。はたまた入れ替わり登場してきた二代目桂枝雀さんが演じる、やけに明るい精神科医・正木博士は、またそれとは違うことを青年に吹聴してくる。どれが真実で、誰が嘘をついているのかさっぱりわからない。そもそも青年は、自分自身が誰なのかさえ思い出せない。

映画公開の1988年から、現在の2021年までの間で、精神疾患や脳科学の知識はすっかり一般的になった。悲しいかな現代の日本人は、日々鬱病と隣り合わせの社会で生きている。

『ドグラ・マグラ』で描かれている精神病は、脳障害からくる幻覚によるもの。衝撃的な出来事か事故などで、なんらかの脳障害が起こったとき幻覚が現れる。その幻覚は、本人からしてみれば現実とまったく区別ができない。オバケが見えるというのも、脳障害からくる幻覚である可能性が高い。そうなると、どこまでが現実でどこまでが幻覚なのか、本人には判別不可能。

誰もいないはずの家に帰ったら、見知らぬ誰かが立っている。誰だって悲鳴をあげる。それを第三者から見たら、誰もいない所でひとりで悲鳴をあげていることになる。脳障害と精神障害は、第三者視点では区別がつかない。

『ドグラ・マグラ』に登場する男たちは、実際に頭の良い人たちばかりだろう。だが誰もがまともな精神状態には見えない。この男たちは三者三様に、相手に依存しようとしたり、上に立とうとしたりしている。自分がいちばん正しいと主張する。なんとも歪んだ人間関係だ。

相手を支配しようとする気持ち。博士にもなった人たちなのに、自己肯定感が著しく低い。「自分はなんて可哀想な人間なんだろう」という自己憐憫は、犯罪者の自己正当の常套句。登場人物の誰もが、相手を支配しようとして、あの手この手と仕掛けてくる。みんなが現実とは違うことを言い出せば、真実が見えなくなる。そして『ドグラ・マグラ』は、ミステリーとして成立する。

相手を征服したい男たちは、自分より弱い存在に魔手を伸ばす。大人は若者に、若者は女性や子どもに。不能な男たちは、性的に相手を屈服することができない。相手を殺めて、それが腐る姿を見届けること。それでやっと自分の欲望が満たされる。正木博士はそれを変態性欲と呼んだ。いびつで陰湿。相手を服従させようとする支配の欲望。

以前NHKの『クローズアップ現代+』で、日本の痴漢について特集していた。自分は男なので、痴漢行為は特別な犯罪だとばかり思っていた。女性のほとんどが痴漢に遭っていることを知って呆然とした。男と女とでは世の中の見え方が違う。女性が無条件に男性に警戒する気持ちが見えてくる。子どもたちがそんな危険な世の中に、放り出されているかと思うとゾッとする。

痴漢をする男たちは、性欲からその犯罪行為をするのではない。まさに「相手を服従させたい支配欲」。自身の欲望をコントロールするのは社会で大切なスキル。それが崩れるところに、この社会の生きづらさを感じる。

上から圧力をかけられて、身を低くして毎日働くビジネスマン。尊厳や尊重とは無関係の扱いをされて日々生きている。人権なんて存在しない。このうっぷん晴らすまじ。その矛先は、当然自分よりも弱い存在へと向けられる。

『ドグラ・マグラ』の世界観には、人の尊厳などみられない。人はモノのように扱われ、他者が他者を嘲笑う。そりゃあ幻覚も見えてくる。

原作小説がいかに狂気の表現が的確なのかが、脳科学のブームで証明された。これからも脳科学は進化し続けるだろう。その臨床症例を、文学というカタチで残した夢野久作の存在に価値がある。

「夢は脳髄だけで見るものではない」 劇中ではなんとも奇怪な響きの言葉で語られる。けれどこの言葉も、さほど奇怪な意味ではない。人の心は、脳の記憶だけでは形成されてはいない。

科学の進化が、どんどん『ドグラ・マグラ』をシンプルにしていく。作品の謎がナゾでなくなるかもしれないが、それで作品価値が下がるとは思えない。むしろ作品の芸術的価値が上がってくる。わからなくても面白いが、わかっても面白い。

そうか、意外にも『ドグラ・マグラ』は、ウェルメイド作品だったのか。

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