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『デューン 砂の惑星 PART2』 お山の大将になりたい!

公開日: : 最終更新日:2024/04/19 映画:タ行, 映画館

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、ティモシー・シャラメ主演の『デューン』の続編映画。超巨大製作費でつくられた超オタク映画。前作は気難しいおじさんが好みそうな理屈責め全開のASD映画だった。長すぎる説明台詞で、これから起こる出来事を事前に解説してくれる。物語はその説明に則って展開していく。あらかじめ式事を渡されてなければ、安心して先に進めないような精神疾患的表現。日本のアニメならまだしも、ハリウッドのふんだんな製作費を駆使した豪華仕様で、ごく限られたファン層だけが喜ぶ、ニッチな作品を創り上げてしまった。大丈夫なのだろうか。なんともクレイジーな映画。

ファンの多いこの作品。自分にとっては前作の第1作目はけして面白い映画ではなかった。説明台詞が多いのも退屈だし、誰一人感情移入をあえて避けているつくりも優しくない。ついてこれなければ置いていくぞと、強引さすら感じられる。今どき主人公が選ばれし者というのも古臭い。多様性の現代では、誰か特別な1人の存在よりも、共感し合える多数の姿の方が魅力的。『デューン』は明らかに時代錯誤の原作チョイスだと感じていた。ならばこんな原作の映像化に大金注ぎ込まれた狂気を楽しもうではないか。ひねくれた気持ちでこの理責めエンターテイメントを鑑賞していた。

フランク・ハーバートの原作小説は、今から半世紀以上前の1965年の作品。前の映画化は1980年代のディヴィッド・リンチによるもの。原作小説は直接映像化されたものより、その影響を受けた作品の方が有名になっている。日本でも『風の谷のナウシカ』や『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』などに、この『デューン』の遺伝子を感じる。むしろネタに困ったときは、『デューン』銀行からアイデアを借りに行こうと言ったイメージすらある。だからこそこの原作は、すでに手垢まみれになった、オタクの古典みたいな存在になっている。いま映像化しても新鮮さは微塵もない。一作目の『デューン』を観たときは、現代でこの映画化の意味が感じられなかった。

フランク・ハーバートの原作発表時の映像を見たことがある。仙人のような長い顎髭を伸ばした太ったおじさんがそこにいる。彼を取り巻くファンたちは、神経質そうな理系学者みたいな若者たち。小説家のファンミーティングというよりは、なんだかカルト集団の教祖と信者たちのよう。そういえばカルトにハマりやすいのも高学歴者が多い。勉強ばかりしていて、オカルト的なものに出会ってハッとしてしまう人が多いのだろう。その出会いの衝撃があまりに大きすぎたせいか、ものごとの分別がつかなくなってしまう。ときには教祖の思うがままに反社会的な大事件を犯してしまったりもする。つまりは「お勉強のできるバカ」の集団。『デューン』は文字通りのカルト作品。むしろ作品にハマれない方が幸せなのではと思えてしまう。『デューン』にはそんな危険な匂いが漂っている。

IMAXで撮影されたこの映画。「IMAXで観なければ観たうちに入らない」とまで、SNSでは言われている。実のところ自分はIMAXで映画を観たのは一度だけ。アルフォンソ・キュアロン監督の『ゼロ・グラビティ』をIMAX 3Dで観てそれっきり。この映画は2013年の作品なので、10年以上IMAXは観ていない。当時はこのラージフォーマットの高額なチケット代の方が気になっていた。一回の映画鑑賞に3000円近く払うなんて震えてしまう。どんなに高画質高音質の最高な上映環境でも、それに価格が見合うかどうかと問われたら頷きづらい。どうやら自分にはIMAXの価値がわからないらしい。とてもコスパが悪い。

そういえばIMAXで映画を観ようと何回か試みたことはある。最近ではトーキング・ヘッズのライブ映画『ストップ・メイキング・センス』をIMAXで観ようと思っていた。IMAX上映館はシネコンに設置されている。シネコンの不便なところは、どこのシネコンも同じような上映スケジュール設定になっているところ。ひとたび自分が観たい映画が観ずらい時間帯に設定されてしまうと、もうその映画は観れなくなってしまう。たとえ上映館が多くても、時間帯が合わなければ、もうその映画とはご縁がない。シネコンは個性がない。本部が一律にスケジュール設定をして、それで終わりなのだろう。土地勘や現場の雰囲気、近隣他社劇場との調整など、スケジューリングに必要なマーケティングは無視されている。映画館業界の衰退を感じずにはいられない。

今回の『デューン PART2』は、迷わず通常上映で鑑賞を決めた。『デューン』はそもそも前作が面白くなかったので、続編は配信まで待つつもりでいた。しかしこの続編の先行上映が始まると、SNSでは絶賛の嵐。あの前作からどうして面白くなるのだろう。興味が募る。でもやっぱりつまらなかったらどうしよう。3時間近くある上映時間、苦痛との戦いとなる。これは賭けだ。自分の感性を試すチャンスでもある。まあ挑んでみようじゃないか。

最近の洋画上映は、公開二週もすると、すぐに観ずらい早朝かレイトショーに回されてしまう。早いうちに観ておかないと、映画館での鑑賞は不可能になる。休日の午前中の映画館に集まった観客は数名のみ。閑古鳥が鳴いているとはこのこと。客層は予想通りおじさんばかり。もしかしたら自分がここでは一番の若輩者かもしれない。SF映画を映画館で鑑賞するという行為は、現代では懐古主義な趣味嗜好なのかもしれない。

実際この映画『デューン PART2』を観てみると、なんとも面白いじゃないですか。ラージフォーマットで観なくても、自分には充分すぎるくらいこの映画は迫力があった。作品満足度というのは、料金も関係してくる。業者の言いなりにって一番高いものを買わされてはいけない。

前作の理屈っぽい描写は極力避け、アクションやスペクタクル場面をメインにして娯楽性を高めている。前作がつまらないのは物語的にも、敗北して滅んでいく側の視点で描かれているせいもある。続編がある前提なので、作品にカタルシスはなく、閉じていくだけの展開。不完全燃焼の不快感だけが鑑賞後に残っていた。これでは次も観ていこうというモチベーションも萎えてしまう。前作の『デューン』は観客に非常に厳しかった。

きっとヴィルヌーヴは前作のその気難しい展開を反省点にして、同じ轍を踏まない工夫をしたのだろう。もう映画業界のお偉い方々から、ネチネチ駄目出しを喰らって、すっかり自信も無くしてしまったのではないだろうか。インタビューで、ヴィルヌーヴと主役のティモシー・シャラメが受けているもので印象的なものがあった。ヴィルヌーヴはインタビュアーの方は見ず、ずっとシャラメを見つめながら答えている。もうすっかりシャラメ座長に縋っているかのよう。作風からも察するように、ヴィルヌーヴは神経質な人だろう。息子ぐらい年の離れた若者に頼ってしまう巨匠監督の姿に、すっかり人間味を覚えてしまった。当のシャラメは、監督に甘えられてもさほど気にしていないようだ。監督という仕事は、どうやらそれほどカッコいいものではなさそうだ。

シャラメのメディア出演もなかなか沁みる。多動な彼を、共演者やスタッフの周りのおじさんたちが、必死に盛り立てようとしている。おじさんたちが、不釣り合いな早い動きでシャラメをフォローしている。なんだか泣けてくる。ポールのイメージ改変は、実際演じるシャラメのパーソナリティに影響されている。カリスマは魅力であるが、生きづらさの障害でもある。なんとも紙一重な才能。

ヴィルヌーヴ版『デューン PART2』は、だいぶ原作と改変されているらしい。映画の『デューン』が面白くても、めんどくさそうな時代錯誤的な原作小説は、どうも読む気になれない。この映画の続きは気になるが、それは続編制作に期待しよう。この映画は続編作る気満々で制作されている。きっとこの映画版は、現代的な解釈を加えて原作改変をしているのだろう。

選ばれし者に憧れる現実逃避的感覚はもう飽きた。自分は特別な存在であって欲しいという厨二病的センスは否定したい。原作の流れを変えずに、この昔のエンタメ感覚をどうやって現代的な寓話に調理するか。

『デューン PART2』では、選ばれし者がどんどん嫌な奴になっていく姿が好ましい。この映画で描かれている未来予知が、朧げなのも特徴的。まるで幻覚やせん妄の症状にも見えてくる。変な薬を飲まされて見るヴィジョン。それが未来の姿なら、脳障害も疑うべき。この特殊能力はとても怪しい。

ハッタリと度胸と身体能力で成り上がっていく主人公ポール。彼が成り上がれば上がるほど、クズ野郎になっていくのが良い。家臣たちは妄信的に彼を崇めていく。彼をめぐる女たちは、政治の道具として踏み台にされていく。もうお山の大将まっしぐら。そんな主人公が魅力的に見えたなら、なかなかのサイコパス。ポールのダークヒーローっぽい描かれ方は、今回の映画化の特徴だろう。

滅亡していくだけの前回から逆転して、今回は圧倒的な復讐劇。その倍返しの爽快さは、一作目を我慢して観てきたからこそ得られるもの。権力を求めれば求めるほど、孤高の人となっていく。本来なら味方になるべき身内からも嫌われていく主人公。でも彼には周りの人の気持ちなど見えない。お山の大将は、いままさに囃し立てられて、神輿の上に登り詰めて、踊りに夢中。

今後このシリーズが続いていくなら、この厨二病サイコパスの哀れな姿にどんどんフォーカスして進めて欲しい。宇宙を股にかけた壮大な痴話喧嘩大戦争として、この叙事詩を展開してくれたら胸が躍る。それこそ最大なる痴話喧嘩のトロイア戦争にオマージュして。もちろん原作者のハーバートも、そんな過去の叙事詩をイメージしていたに違いない。現代の作品にするならば、どんなに壮大な舞台の物語であっても、パーソナルな心理が見えてこなければ面白い作品にはならない。あくまで個人的な欲望の物語となってこそのダイナミズム。主人公にはずっと言い訳しててもらいたい。懐古主義のSF作品を、新しい解釈で刷新していくことへの魅力。今後この作品のシリーズ化に期待したい。『ロード・オブ・ザ・リング』が映画化されていた頃のワクワク感を思い出す。

そういえば気になったこと。この作品では、サンドワームという巨大生物に乗ることが通過儀礼として描かれている。乗るのはいいけど、どうやって降りるのだろう? 乗るのにあれだけ苦労するのだから、降りるのもさぞかし大変だろう。映画を観ている間、ずっと気になっていた。でもサンドワームもひとつの象徴だから、そんな物理的問題に引っかかるのは野暮なのだろう。それこそ後付けで、サンドワームの降り方のハウツーを理責めで説明されたら興醒めもいいところ。考えるな感じろの方が楽しい。現実が暗い世の中なので、楽しさを探していった方がいい。『デューン』は、気難しいおじさんも、気軽なアクション映画ファンも楽しめるシリーズになってきた。久しぶりに続編が楽しみになった映画かもしれない。

 

 

 

 

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