『ケイコ 目を澄ませて』 死を意識してこそ生きていける
『ケイコ 目を澄ませて』はちょっとすごい映画だった。
最新作『夜明けのすべて』が話題になっている三宅唱監督の前作がこの映画。『ケイコ 目を澄ませて』にしても『夜明けのすべて』にしても、予告編があまりにつまらなそうなのが大問題。しばらく経ってSNSで話題になってから、初めてその映画に興味が湧く。本編の魅力をそのまま伝えられない予告や宣伝なら、むしろやらない方がいい。映画『ケイコ 目を澄ませて』の本編では、劇伴はいっさい使われず、環境音のみの演出をされている。予告編では、本編でかからない音楽を使用して、御涙頂戴の演出がされている。なんとなく宣伝から、作品に対する不遜な印象を受けてしまう。
16ミリフィルムのザラつた映像と、劇伴なしの潔い演出。デジタル制作が基本となった映画業界で、高価で扱いづらい16ミリフィルム撮影をあえて使う。効率第一の現代社会で、よくこの企画が通ったと感心してしまう。自分のような、かつて映像の世界を目指した者からすると、羨ましさすら覚えてしまう。
自分が映画学生だった頃、16ミリフィルムでの課題は夢のようだった。自分たち素人の映画小僧が、16ミリフィルムで本格的に映画をつくれてしまうということに震えてしまう。
自分が映像技術を学んだその頃は、富士フイルムでの8ミリ現像の取り扱いが最後だった1990年代にあたる。ついこの前までは近所のタバコ屋などで、写真のフィルム現像の受付と同じに、8ミリ現像も扱っていた。今はもう写真のデジタル化が進んで、アナログフィルムの現像を扱っている店を探すのすら至難の業。
映像学校では、8ミリフィルムの課題もあったため、自分たちは富士フイルムの工場まで出かけて現像を注文していた。1年生はビデオでの個人課題と8ミリフィルムでのグループ映像制作課題があった。ビデオ作品での評価と、8ミリフィルム用のシナリオ課題の評価で監督が選ばれる。幸い自分は8ミリフィルム制作の監督に抜擢してもらえた。スタッフは自分の作品に票を入れてくれた人や、気の合いそうな人、技術の高い人をスカウトできる。掛け持ちで複数の作品に携わることもできる。安価な8ミリフィルムといえども、作品がスクリーンに上映されれば立派な映画となる。計算されて撮影や編集をされたそれは、小品ながらも力のある映画作品。自分の脳内で繰り広げられた世界が、具体的な形となる。夢がひとつ叶う。映像には魔力がある。
16ミリフィルムでの作品制作は、3年生の卒業課題。当時16ミリフィルムなど高嶺の花だった。フィルムの現像代もバカにならない。先輩の監督は数100万円の借金をしてまで作品を創り上げたとも聞く。クリエイターには資金源も重要。残念ながら実家の太さも影響してくる。映画づくりは危険なギャンブル。しかし16ミリフィルムでの撮影となると、プロと同じ土俵に立てる。作品が完成できれば、立派に映画監督経験有りと言ってもいい。
いまでは4Kハイビジョンの撮影がスマホだけでできてしまう。映画づくりのネックだった高価なフィルム代の心配も無くなった。さぞかし新しい才能の映画監督が続々誕生するかと思いきや、そんな現象は起こらない。映画づくりはかなりの労力を使う。「弘法筆を選ばず」の言葉の意味の逆で、たとえ立派な道具が揃っていても、それを使うモチベーションが無ければ誰もそれを使わない。やらない言い訳を経済的理由にはできなくなってしまった。
その映画制作総デジタル化の風潮の中で、あえて16ミリフィルムで制作されている映画『ケイコ 目を澄ませて』。劇中音楽も無いので、ローテクに徹した懐古主義なのかと思えてしまうが、そうではない。音響はドルビーサラウンドで収録されている。16ミリのざらついた美麗な映像に、最新の立体音響。ここに映像作家の芸術的センスを感じる。
ボクシングものというのは、映像作品と相性が良い。この映画のように音響が凝っているのは、ボクシングの音に魅力を活かしたい意図があるから。同じボクシング映画の北野武監督作品『キッズリターン』を思い出す。その評論をしていた淀川長治さんが当時言っていた。「僕は普段洋画しか観ないのだけど、この邦画は良かった。ボクシング映画は音が大事。監督はそれをよく理解して演出している」
『ケイコ 目を澄ませて』も、この音の演出が活きている。グローブがミットに当たる音、縄跳びの練習の音、選手の息遣い……。ドルビーサラウンドの音が、臨場感を演出する。ただこの映画は、単純に感情を煽るような演出はしない。いくらでも浪花節的な泥臭い演出ができるのに、作品は極力そちらへ向かうまいとする。岸井ゆきのさんが演じるケイコが、いつも悲しい顔をしているのが魅力的。
ケイコは聴覚障害がある。耳が聞こえない主人公で、音響の演出に凝っているというのも作品の強い意図を感じる。タイトルの『目を澄ませて』という矛盾だらけの日本語の具体的な映画的表現でもある。小柄でボクシングなど不利でしかないケイコが、なぜプロボクサーになっているのか。ケイコは試合が怖いと言っている。映画はたえず人の心の矛盾にスポットを当てていく。
ケイコは聴覚障害を通して、自分は人並みの人生は送れないと思っている。悩み事も自分の心の中に閉じ込めて、本心を語ることはけしてない。周りの人が彼女の気持ちを代弁しようとすると、ケイコは本気で怒る。私の気持ちを勝手に探らないでと。自分の人生を諦めた人が、自傷行為をするかのようにボクシングにのめり込む。死を目指しているはずなのに、死に近づけば近づくほど躊躇する。死にたいはずなのに、本当は生きたいと、声なき声が響いてくる。
三浦友和さん演じるボクシングジムの会長も良い。この人は抗うことができない病という死に向かっている。死にたいと言いながら生きようとする人と、やがてくる死を受け入れざるを得ない人との対比。作品は寡黙で行間いっぱいの演出。死について、生きることについての疑問を静かに問いかけてくる。
センチメンタルな演出はいっさい避けて、ドライに日常を描いている。日本の作品では珍しく、コロナ禍の日々を描写している。いくらでも盛り上げられそうな試合の場面も、無観客のネット中継だったりする。東京の下町を歩くケイコが、実在する人物のように錯覚する。映画はその時代を後世に残す役目もある。2020年代の今の空気感は、今しか捉えられない。コロナ禍のような時代を限定する描写を避けて、ウェルメイドにしようとするのは安易なこと。その時代と向き合って、そのままその心情をフィルムに焼き付ける。どんな時代や文化や国境でも、人の心は繋がっている。現実に向き合うことが、本当のウェルメイドになっていく。
小柄な女性がひとりで歩いているだけで、ナメてくる男はいる。ケイコに絡んでくる男が情けない。ケイコはどうするのか気になる。彼女が本気で闘えば、瞬殺でこの男は倒される。そんなカタルシスを期待してしまう。でも多くの女性が日常やっている態度と同じ行動をケイコはとる。こんな奴に関わる方が、人生がもったいない。ケイコの精神的な大人ぶりが、観客だけに伝わってくる。そうしてほとんどの世の中の女性が、社会のこの不遜な態度に耐えている。
この映画の劇伴がないとはいえ、まったく音楽がかからないわけではない。ルームシェアをしているケイコの弟が、家で曲をつくっている。映画が進んでいくにつれ、その曲が完成していく。これまでドライに徹して演出されていたこの映画が、弟の曲を通してダムが氾濫したかのようにおセンチの荒波として押し寄せてくる。音楽で情感を一気に語る描写に、再び北野武監督の『あの夏、いちばん静かな海』を彷彿とさせる。三宅唱監督は、北野武監督作品がきっと好きなのだろう。想い出に浸る行為は、ものすごくおセンチでウェット。ドライとウェットの巧みな使い分け。
この作品の最大のテーマである「死」も、直接的に描くことはない。死を思わせる人物の後ろ姿で、カメラがどんどん引いていくのにゾッとする。その後、その人は映画に登場しない。ドラマチックな要素を、そのまま描いてしまったら陳腐でしかない。本当に言いたいことは、あえて口に出さない。主人公は聾唖者という具体的な障害を抱えているが、人は誰でもどこか欠落しているもの。老いてゆけばゆくほど、かつてはなんなくできていたことができなくなっていく。いずれ不自由なことが増えていき、誰でも障害者になっていく。そのときその自身の欠落とどう向き合っていけるか。
映画の冒頭では、ケイコという人物は、自分たちとは程遠い存在のように思えていた。障害者が特別なマイノリティではないということを忘れようとしていた。
ケイコが聾唖者の友人たちと女子会している場面がある。楽しそうに会話している彼女たちは、その年代の健常者の姿と何も変わらない。実際に街で手話で会話しているグループに出会うこともある。彼ら彼女らは声こそ発していないけれど、手話の身振り手振りの大きさで、はしゃいでいるのが伝わる。音こそはしないけど、脳内では大声で喋ってる。静かだけどうるさい。当たり前のことなのに。そうなると世界はなんて可愛らしいのだろう。みんな同じでみんないい。
ボクシングのような拳闘に没頭する人が、あながち自分とは異なる人種ではないということ。乾いた世界を受け入れる。そうすることで活路が見えてくる。逃げれば逃げるほど、厄介ごとは追いかけてくる。でもひとたびそれと向き合った瞬間に、その問題はおとなしくなる。すべてが矛盾。だからこそこの映画は、はっきりとなにかを語らない。
映画の最後、ケイコが街に消えていくのが良い。この世界のどこかで、このような人が今も生きて生活していると感じさせる。観客である自分たちと、陸続きの世界の話に思えてくる。この映画の登場人物たちの世界も、我々の人生と同じように続いている。映画を観たというより、人と会ってきたような感覚に陥ってしまった。
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