『窓ぎわのトットちゃん』 他を思うとき自由になれる
黒柳徹子さんの自伝小説『窓ぎわのトットちゃん』がアニメ化されると聞いたとき、自分には地雷臭しかしてこなかった。日本映画では最近、過去の有名作をアニメ化する流れがある。古い作品をアニメ化することで、いったい誰が観るのだろうと、要らぬ心配をしてしまう。アニメ化される過去の有名作品を観ていた世代は、すでに中年以降の年齢になっている。いまさらそのアニメを懐かしがって観るとも思えない。かといって若い世代が、有名作品のアニメ化という理由でその作品を観ることもないだろう。単純に新しい企画が通らず、苦肉の策の話題づくりなのではないかと、ついつい邪推してしまう。だからこそ『窓ぎわのトットちゃん』の映画化も、なんで今その映画をつくらなければいけないのか、時代錯誤な先走りな印象がしてしまった。
過去の実写映画のアニメ化ブームの前には、マンガやアニメの有名作品を無理矢理実写化するのが日本映画の流行りだった。それでもほとんどの実写化作品は、原作をただただ汚しているような、残念な作品に仕上がってしまっていた。有名作品を別の媒体で映像化する。マンガをアニメ化するならともかく、マンガやアニメを実写化するのは、かなりハードルが高い。最も重要な問題は、そもそも映像化にあたって、制作者たちが原作へのリスペクトがあるかどうかということ。それは根本的な問題。原作に敬意がなければ、どんな企画でも良くなる筈かない。日本の貧しさは、ただやればいいという無責任さからくる、仕事の多さにも問題がある。ようは余裕のない雑な仕事の印象がしてしまうということ。
原作の『窓ぎわのトットちゃん』は、1980年代の社会現象になるほどのベストセラー本だった。自分も小学生のとき、『窓ぎわのトットちゃん』が、どこの本屋へ行っても平積みだったのを憶えている。いわさきちひろさんのイラストが表紙で、子どもが主人公なのに、タイトルに『窓ぎわ』とつく。はじに追いやられているような、憂いた寂しい子の話という感じがしていた。
まだタレント本が低く扱われていた時代。どんなに内容が素晴らしくとも、小学校の読書感想文にこの本を選ぶのは、学校側が許してくれなかった。先生が「もっとちゃんとした本を読みなさい」と言っていたのを覚えている。今では教科書にも載る『窓ぎわのトットちゃん』。児童文学の古典にも近い存在になっている。時代の価値観などいい加減なもの。
これだけのベストセラーなのだから、映像化へのアプローチもさぞ多かっただろう。黒柳徹子さんの自伝小説は、『窓ぎわのトットちゃん』以降の時期を他の作品で綴っていく。大森一樹監督で斉藤由貴さんが黒柳徹子さんを演じた『トットチャンネル』が自分には馴染み深い。この『トットチャンネル』は、当時は『窓ぎわのトットちゃん』の続編にあたる扱いをされていた。今回の『窓ぎわのトットちゃん』のアニメ化を機に、黒柳徹子さんから正式な続編『続・窓ぎわのトットちゃん』が発表された。これもいずれ読んでみたい。
自分は今までずっと『窓ぎわのトットちゃん』も映像化されればいいのにと思っていた。黒柳徹子さんのインタビューでも、『窓ぎわのトットちゃん』の映像化へのラブコールはたくさんもらっていたと語っている。自身の小学生時代を描いている本作。映像化を許さなかった理由は、恩師である校長先生のイメージにあった役者さんはいないのではということだった。それにエッセイの散文形式で書かれている本作が、原作のまま一本の映画にするには、エピソードにまとまりがないからとも言っていた。
実際今の価値観で映像化するには、ちょっと難しい場面もいくつかある。それこそトットちゃんが衝動的に、汲み取り便所をひっくり返す場面や、全校生徒が裸でプールの授業を受ける場面など、読みものならばいいが、ビジュアル的にはどう表現したらいいのか心配になってしまう。普通に考えてそれらのくだりは、ぜんぶ割愛してしまうのではないかと思っていた。でも今回のアニメ化は、そんな炎上しかねないエピソードも余すことなく映像化している。
原作の映像化の楽しいところは、自分が文章を読んで想像した場面がどんなふうに具現化されるのかというところ。想像と映像とでは、感じ取る空気感が違う。その違和感や補完が、原作が小説だった場合の楽しみ方のひとつでもある。小説のイメージと映像が一致しない差異も楽しかったりする。今回の『窓ぎわのトットちゃん』の映像化は、原作のイメージを壊すことなく、もっとスケールの大きなところまで踏み込んでいる。
このアニメ版『窓ぎわのトットちゃん』が劇場公開されるや否や、ネットでは本来の客層ターゲットである若い子よりも、おじさんらしい人たちの方が大騒ぎしているように感じた。「予告編で受ける印象よりも、本編はずっと良い。騙されたと思って観て欲しい」 そんな感想が自分のタイムラインに多く流れてきた。そして、「このような、地味だけど良い作品こそヒットして欲しい」と。おじさんたちの琴線にこの映画が触れたのは、積年のオタク歴が築き上げた、熟練の審美眼からなるものなのかもしれない。
映画が配信になったので、自分も観てみることにした。上映開始後、3分もしないうちにこの映画の凄さを感じた。ネットで絶賛していたおじさんたちの言葉は本当だった。まずは画面サイズが横長のシネマスコープだということに驚いた。アニメで横長フレームでレイアウトするのはとても難しい。横長になればなるほど、書き込まなければならない情報が増えてくる。実写の場合なら、景色と人物とを考えた構図が組めて、画面に拡がりを演出できる。『窓ぎわのトットちゃん』のような学園ものでは、中央に配置した主人公を捉えたなら、余った両端に他の生徒も映り込まなければならない。その教室にいる他の子たちも描きこんでいく手間の恐ろしさ。この映画をシネマスコープで制作しようと判断したつくり手たちの覚悟を、上映開始早々に感じ取ってしまった。
今回のアニメ化では、原作にほとんど描かれていなかった戦争の足音が語られている。徹子さんが当時子どもだったことで、戦争は大人たちのこととして捉えられている。戦争という事象は、作品で少しでも扱えば、大きく引っ張られてしまいかねない脅威的存在でもある。舞台となる時代背景から、描かないわけにはいかないが、原作の意図は戦争を描くことではない。描き方の塩梅に、つくり手たちのセンスが問われてくる。
アニメ版『窓ぎわのトットちゃん』のメガホンをとったのは、八鍬新之助監督。『ドラえもん』の劇場版の監督さん。自分が子どもの頃は、『ドラえもん』のアニメといったら芝山努監督のイメージが強かった。自分も子どもができてから、リニューアルされた『ドラえもん』を観るようになった。オールドファンには申し訳ないが、自分は2000年代からの『ドラえもん』の方が好み。『窓ぎわのトットちゃん』は、『ドラえもん』と同じテレビ朝日とシンエイ動画で製作されている。今回の映画は、社運をかけた意気込みのようなものを感じた。
今、日本のアニメは世界でも再評価されつつある。これまでのケチくさい制作費のもとつくられる作品ではなく、海外資本の潤沢な資金のもと、丁寧につくられた作品が増えてきた。お金と手間暇をかけることで、必ず評価され話題になる作品ができるという実績が積まれてきた。国内資本で世界にも通じるような、純日本製作品もつくらなければ、もう日本の企業の存在理由がない。朝日グループの必死さも伝わってくる。
今年の8月、スタジオジブリの高畑勲監督の『火垂るの墓』が、テレビで放送されないことへの懸念の意見がバズった。日本を含む世界中がきな臭い流れのなか、戦争は嫌だと感じさせる映画を放映しなくなることへの危機感を、ネットで訴える人が多かった。自分は今回の『窓ぎわのトットちゃん』の映画版は、こんな時期だからこそ、よくぞこのテーマでアニメをつくってくれたと喝采してしまった。アニメ映画『窓ぎわのトットちゃん』は、『火垂るの墓』や、片渕須直監督の『この世界の片隅に』と並ぶ、第二次対戦中の日本と日本人の生活を描いた名作だと思う。この『窓ぎわのトットちゃん』がテレビで放送された暁には、多くの観客から支持を受けるのではないだろうか。
原作の『窓ぎわのトットちゃん』が発表されてベストセラーになったことで、黒柳徹子さんは多くの心療内科の医師から、発達障害の指摘を受けていた。いまでこそ発達障害について研究が進んでいるが、それもこの10年くらいでやっと始まったくらい。原作小説の『窓ぎわのトットちゃん』が発表された当時、発達障害という言葉すらあったかどうか疑わしい。徹子さんも自身が特性を持っていることをカミングアウトしている。『窓ぎわのトットちゃん』は、特性を持つ人が、他者からは奇異な言動に見えるその思考を文体化した、貴重な記録にもなっている。それは『赤毛のアン』と同じ系譜の、マイノリティへの前向きな解釈となる名作となっている。
『窓ぎわのトットちゃん』の舞台になる学校は、トモエ学園という実在した学校。なんらかの理由があって、通常の学校へは通えなくなった子たちが集まる学校。フリースクールのはしり。ただここへ通える生徒は、やはり裕福な子ばかり。原作にも書かれていたが、この学校で徹子さんとともに学んだ子たちは、のちに財界政界で活躍するようになっていく。トットちゃんのパパも、バイオリン弾きで、コンサートマスターでもある。とても優秀な超エリート。『窓ぎわのトットちゃん』が、戦争時代の話でありながら、あまりきな臭くないのは、徹子さんの育ちの良さが反映しているからだろう。世の中が混沌な状態になったとき、貧しいものや弱者からまっさきに被害に遭う。富裕層はいちばん最後に、この社会ほ悪状況を享受することとなる。黒柳家は、もっとも最後に戦争の影響を受けてきているのかもしれない。
黒柳家の家庭の様子や、社会状況の描写は原作小説にはないので、映画化にあたって追加した要素でもある。今回のアニメで戦争についての描写が追加されたことによって、当時の大人たちの視点も描かれてくる。そうすることによってこのアニメ映画は、子どもだけでなく大人の観客にも刺さるような仕掛けとなっている。
管理社会に順応できないマイノリティの子どもたちが、トモエ学園に集ってくる。原作小説は散文的に描かれているが、映画として成立させるためには一本筋を通さなければならない。今回のアニメ版は、小児麻痺(ポリオ)の泰明ちゃんとトットちゃんとの交流をメインに持ってきている。原作では、多くの学友のひとりだった泰明ちゃんが、映画の早い段階で登場したので、観客もこの映画の根幹をすぐに掴むことができる。映画的に改変されていても原作の印象はけして変えない。エピソードの端々から、黒柳徹子さんが書いた文章を思い起こさせる。映画鑑賞後、原作を再読したくなるのは、制作者たちの原作への敬意のあらわれ。
徹子さんは今まで『窓ぎわのトットちゃん』の映像化だけは拒んできた。今回、アニメならばと映像化を承諾したらしいが、制作者側の熱意も大きかったのだろう。第二次大戦中の日本人の生活についての記録は、近代史なので調べればいくらでも出てくる。劇作品として描きたくなる事柄は、山ほど発掘されたことだろう。原作の補完はすれど、原作に関係のないものは取り入れない。横道に反れそうになるところを、じっと我慢してブレずに『窓ぎわのトットちゃん』に向き合い続ける。情報の取捨選択の潔さ。調べたけれど、今回は捨ててしまった情報量のかけらが、画面の端端から伝わってくる。映画はアニメ作品とは思えないほど、引きの絵が多い。景色や後ろを通るモブの一人ひとりも性格を持っている。アニメ史に残る細かい表現。それこそ楽器を演奏している指先まで芝居がついている。実写映画も凌駕する絵の力。
映画『窓ぎわのトットちゃん』は、マイノリティの障害者通しが、生涯を超えて互いを尊重しながら交流していく姿にテーマを絞っている。
トットちゃんがトモエ学園の入学前に、校長先生と面談する場合が楽しい。原作では半日ずっと自分のおしゃべりを校長先生が聞いてくれたと書いてある。それをエピソードとしてみせていくには、具体的どんな話をしたとか、どんな喋り方をしたか具体的に描くことが求められる。どこの学校にも何人かはいる多動の子。困った子と十把一絡げに断罪してしまわないように表現する工夫。トットちゃんを発達障害として描くけれど、ぜったいチャーミングに描いていく。実際の発達障害の子への取材や愛情が感じられる。
大人たちは根気強く子どもたちと付き合っていく。多動の子が落ち着いていくのは、自分の話を充分に聞いてもらえている実感が得たとき。『赤毛のアン』でも、養母のマリラがアンの話をしっかり聞いてあげていくことで、アンが落ち着いていって自分の能力の開花をし始める。
多動の特性の強い子が、自分のことばかりでなく、他の子のことも大切に考え始める。ポリオで身体に障害を持つ泰明ちゃんとの交流を映画のメインテーマにすることで、トットちゃんの人間的視野が拡がっていくのを観客も感じ取れるように描いている。登場人物が、その物語の始まりと終わりでは、考え方が変わっていくことに観客はカタルシスを感じる。それは世にいう「成長」という言葉があてはまる。でも自分はその「成長」という言葉がなんだか苦手。それはその言葉を企業や学校が濫用しすぎたせいだろう。企業や学校が使う「成長」という言葉は、その組織のルールに順応して管理されやすい人になっていったときに使われがち。ちょっと洗脳に近い。トットちゃんと泰明ちゃんの関係は、「成長」という陳腐な言葉では収めきれない。
戦争が他人事ではなくなってきた現代日本。発達障害をはじめ、あらゆる障害のある人、何らかのマイノリティに属している人を認め合おうとし始めた社会。多様性を認め合わなければ、もう社会が回らなくなってしまう。はからずとも『窓ぎわのトットちゃん』を、現代の日本で映像化する意味合いが強くなった。
黒柳徹子さんはもう90歳を越えている。自分がこの世を去ったあと、大切にしている『窓ぎわのトットちゃん』が不遜な形で映像化されてしまうのは、まったく本意ではない。すこしでも誠実な態度を示してくれるつくり手に委ねようと、映像化を決心したのかもしれない。この映画には、徹子さんも知り得なかった当時の状況も描かれているとのこと。作品に対する敬意が、原作の世界観をさらに拡げていくのは、とても幸せな映像化。原作を知らない人は、原作を読んでみたくなり、すでに読んでいる人は再読したくなる。それは、すべての原作付き映像作品が、目指すべき指標なのではないだろうか。
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