『夜明けのすべて』 嫌な奴の理由
三宅唱監督の『夜明けのすべて』が、自分のSNSのTLでよく話題に上がる。公開時はもちろんだが、配信が始まったときなど、その節々でこの映画の評判を目にする。最近ではアニメ映画『きみの色』の公開で、『夜明けのすべて』が似た印象の映画だったと語る人が多い。どちらの作品もテネタリスという「優しさ」を意味する言葉で語られている。
三宅唱監督といえば『ケイコ 目を澄ませて』の監督さん。『ケイコ 目を澄ませて』は、16ミリフィルムのザラついた画面で、劇伴は一切使用しない徹底した演出の映画だった。いっけん荒削りのようでいて、計算され尽くされている演出。こんな映画つくってみたいと、嫉妬してしまうくらの作風。『夜明けのすべて』は劇伴こそ使っているが、前作『ケイコ 目を澄ませて』と同じ16ミリでの撮影で、同じ手法で撮影されている。
映画やドラマがすっかりデジタルで撮影される時代となった今、あえて手間がかかる16ミリフィルムでの撮影に意味がある。きっと今ではフィルムの方がデジタルより費用もかさむだろう。ローテクでつくるエモさ。自分が映画学生だった時代では、自主映画で16ミリを使うなんて、高嶺の花もいいところだった。数分の映像を撮るために、数万円のフィルム代がかかってしまうなんて震えてしまう。失敗が許されない当時の撮影現場は、自然とピリピリしてしまう。ただこの『夜明けのすべて』はメジャー映画なので、そのローテクがかえって緩い肌触りの効果を出している。劇作を演じているのか、ドキュメンタリーなのか、現実的なようでいてファンタジーにも見えてくる。不思議な錯覚を起こす効果を出している。
『夜明けのすべて』のポスタービジュアルは、上白石萌音さんと松村北斗さんが並んで空を見上げているもの。単純に恋愛ものの映画だと思ってしまう。それがすでにメディアに毒されて、すっかり洗脳されてしまった感性の現れだと、映画を観て気付かされる。『夜明けのすべて』は、若い男女が恋愛以外の関係になる姿を描いている。劇作としては男女が恋愛関係になってくれた方が、絶対的に話の展開がラク。観る方も恋愛のような記号的な関係を描かれれば、頭を空っぽにして流し見できる。物語や歌の歌詞で恋愛を描くほど、安易で分かりやすい表現はない。でも我々はそんな表現にすでに辟易している。それに現実社会を生きていて、いちいち恋愛感情を抱いていたら、それこそそっちの方が生きづらい。映画はあえてドラマチックにならない方法を模索している。
上白石萌音さんが演じる藤沢さんと、松村北斗さんが演じる山添くんは、職場でたまたま隣の席になっただけの存在。お互い第一印象が最悪で、むしろ嫌い合っている。映画冒頭でも、ふたりの嫌な奴っぷりがふんだんに描写されている。そりゃあどこへ行っても困った人として嫌われてしまう。でもこの2人にはそれぞれ嫌な奴になる理由がある。2人とも症状こそは違うが、障害を持っている。毎日細心の工夫をしないと、平常ではいられない生きづらさを抱えている。
2人とも後天的に障害者になったので、健常者であることに未練がある。自身の障害を受け入れられずにいる。いつ破裂するかわからない爆弾を抱えながら毎日生きている。お節介焼きの藤沢さんの行動力で、山添くんとお互いの障害のことを知ることとなる。
そういえば近年、「障害者」の表記を「障がい者」や「障碍者」と記すような流れがある。「障害者」という漢字表記に、差別的な意味があるとのこと。生きていく上での「障害」がある、なんらかの生きづらいハンディキャップを持つことに「障害」があるということで、この漢字を使っても差別にはならないという説もある。正直、表記なんてどうでもいい。そんな不毛な論争が繰り返されているところが、まだまだ長い道のりがあるのかと思えてしまう。「障害」はいまそこにあるもっと身近な問題。
藤沢さんを演じるのご上白石萌音さんなのが、ぴったりなキャスティング。小柄な女性は、それだけでなめられやすい。そこにいるだけで、誰が敵になるかわからない緊張感。そりゃあキレやすくもなる。藤沢さんのお母さんをりょうさんが演じてる。原作ではそっくりな親子と言っていたが、たぬき顔の上白石萌音さんときつね顔のりょうさん。あの親からこの子、生まれる?と、ツッコミたくなる。きっと意図的なのだろう。松村北斗さん演じる山添くんの彼女役の芋生悠さんがそっくりなので、似たもの同士で付き合い始めたカップルなのが、語らずともキャスティングで伝わってくる。このお似合いカップル像が上手くいっているからこそ、藤沢さんと山添くんの恋愛物語にはならないよと、観客に強く宣言しているかのよう。
この映画で大事なポイントは、藤沢さんも山添くんもお互いのことはあんまり好きではないというところ。それが映画を通して、徐々に嫌いではない存在へとなっていく。あくまで親しい職場の同僚でしかない。そこがいい。
日々仕事をしていて、いちいち「あの人が好き、この人は嫌い」などと言っていたら仕事にならない。実際職場でもっとも大切なことは、同僚と仲良くなることではない。与えられた職務をまっとうしてお給料をもらうこと。職場は仕事をするところ。友だちをつくるのはそれほど重要ではない。でも、けして仲が悪くなってはいけない。他人がたまたまその職場に集まっただけなので、必要以上にわかり合う必要はない。そもそも誰とでも仲良くするなんて不可能なこと。
そう言ってしまうとなんだか冷たいような感じがするが、案外そうでもない。今のような不景気な世の中では、仕事をするだけで精一杯のところがある。この映画の藤沢さんと山添くんの距離感は、かなり互いを尊重し合ってできている。
職場で感情的になってしまうと、もうそこにはいられなくなってしまう。藤沢さんも山添くんも、自身が障害を抱えていることは自覚しているし、治療にも取り組んでいる。それでもどうしようもないくらい生きづらい。側から見れば2人ともただの嫌な奴。家庭的な中小企業だったらからこそ、あたたかくそっとしておいてもらえた。なんとも理想的な職場ではあるけれど、いまの日本の経済状況が続いていくなら、このような小さな会社は、今後どんどん減っていく。
藤沢さんと山添くんが通う会社・栗田科学の社長も弟を亡くした悲しみを背負って生きている。栗田社長を光石研さんが老けた感じに演じている。グリーフケアのセラピーグループに、山添くんのかつての上司もいる。彼らが山添くんの仕事について話し合っていることが想像できる。この映画では、あえてドラマチックなセリフを排除して、寡黙過ぎるほど余白をつくっている。気の利くセリフを放つのではなく、相手を傷つけないように余計な言葉は発しない。意図的につくられた余白に、観客はいろいろと想像しなければならなくなる。誰も何も言わないけれど、みんな何かを背負っている。
日本の社会は、五体満足健康体であることが大前提でできている。仕事に就くからには、毎朝ラッシュの電車に乗って通うことはあたりまえ。朝のラッシュ通勤時間に、ベビーカーを連れて乗車したママさんとサラリーマンがトラブルになるなんて話はよく聞く。政治家たちがマニフェストで、通勤ラッシュを減らすなんてよく言っているが、一向に改善される気配はない。むしろ企業努力でリモートワーク推進している会社が増えたくらい。世の中は市井の人々の努力で、微々たる歩みで良くなってきてはいる。
突然怒鳴り出したりするオヤジは、世の中の困った人の代表として挙げられる。でもその次に社会悪な危険な存在は、若い女性に多いと感じる。イライラしていてわざとぶつかってきたり、子どもを突き飛ばしてでも我先に人混みを進んでいたりする。職場でも派閥をつくったり、パワハラしたりと、余計な人間関係をつくっていたりする。これでは仕事に集中できない。そんな凶暴な女性たちは、大抵おしゃれでかわいくしている。その行動とのギャップで、こちらもショックを受けてしまう。
怒っている人の心理は、困っている心理の現れと聞く。怒っている人には関わりたくないけれど、あれは困っている人なのだと思えば、そっと距離を保つ余裕もできてくる。自分も振り返れば、イライラしている時期は偏頭痛に悩まされていたり、鬱の初期症状を抱えているときだった。その心理的イライラの原因が、身体的な辛さからくるものならば、運動するなど対処策も浮かんでくる。まずは感情に流されずに、その原因を探究することから取り組んだ方がいい。なによりまず、イライラしている自分の状態は、普通ではないと受け入れることから始まる。
『夜明けのすべて』の会社・栗田科学は、パッとした派手さは微塵もないが、あたたかい雰囲気の会社。大企業でバリバリ働いていたであろう山添くんには、最初は物足りない仕事ばかり。健康体で力がみなぎっているときなら、バリバリ働くのもいいだろう。でもそんな働き方は、長い人生の中、ひとときしかできはしない。長く続けるのには、無理せず少し自由がきく働き方の方がいい。今流行りの言い方をするならば、サスティナブルな働き方の推進。
栗田科学では、社員の入れ替わりを常に意識している。働きやすい会社は、入りやすくて辞めやすい会社なのかもしれない。中小企業ならばどうしても社員との関係が家族的なものと混同してしまう。社員の家庭の事情が働き方に反映するから、経営者は最低限の社員の家庭状況を把握する必要はある。でも会社と家庭は線を引かなければならない。「社員は家族だ」と言う社長もいるが、それは上の人のきれいごと。社員はけして家族ではない。踏み込んではいけない部分がある。会社はまたまたそのとき一緒に働いてるだけの場所でしかない。去る人もいれば、やってくる人もいる。寂しくもあるが、人生は人それぞれの一期一会。そこは厳しく受け止めていく。それも優しさ。いつでも辞められるけど辞めないでいる。それが自由な会社。
いま五体満足健康体の人でも、いつ障害者になるかもしれない。社会に障害を持つ人が見えてこないのは、健常者ではなくなった人が、ただ身を引いているだけのこと。そうやって健常者だけで回っている社会は、サスティナブルではない。人生100年と言われ始めた昨今。人は長く生きていれば、かつてできたことがどんどんできなくなってしまう。そんな自分の障害を否定して目を逸らしていては、なかなか先へ進めない。生きていれば障害も出てくると、大きく構えていた方が、いざと言うとき建設的な生き方も模索できる。
『夜明けのすべて』は、生きづらい現代の世の中だからこそ、自分らしい生きやすさのシミュレーションの役割を担っている。映画で描かれる価値観は、まだファンタジックな理想論だけれど、具体的な理想論ならいつかそれが現実になっていく。仲良くならなくても否定しない。理解できなくとも、そっとし合える距離感。無理に喋ってわかり合おうとする必要もない。それが本来の多様性。何かを押し付けたり、踏み込んだりする人はいない。静かだけれど居心地がいい社会づくり。ピアサポートの具体例。
瀬尾まいこさんの原作小説を読んでみる。映画とエピソードがだいぶ違う。それでも小説と映画の読後感はほとんど変わらない。映画化にあたって、原作改変をした理由はわからないが、原作の根幹は崩すまいとオリジナルへの尊重は伝わってくる。小説だから言葉で綴る物語と、セリフがほとんどない寡黙な映画。表現方法がまるきり違うのに、大事な作品のテーマみたいなところはなにも改変していない。登場人物の印象が変わってこないことがすごい。人間関係のあり方のバリエーションと、これからの社会のあり方の啓蒙。映画は原作よりさらにそのテーマを強調している。
映画のエンドロールでは、栗田科学の昼休みの様子が引きの絵で撮影されている。栗田科学が実際に存在するのではと感じさせるラストシーン。ここでいろんな人が働いて、去る人もあれば後から仲間になる人もいる。理想の会社とは、人生のプラットホームみたいな場所のことなのかもしれない。
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