『のだめカンタービレ』 約束された道だけど
久しぶりにマンガの『のだめカンタービレ』が読みたくなった。昨年の2021年が連載開始20周年ということ。いままさに、表紙描きおろしの新装版が発売されている。このマンガは上野樹里さんが主演でドラマ化もされた国民的人気作。原作で感動していた自分には、このドラマ版はなんとなくニュアンスが違うような気がしていた。音楽学生の物語で、ドラマ版は日本の学生時代がメイン。原作マンガ後半の、主人公たちがパリに拠点を移した部分は劇場版で引き継いでいる。映像化の雰囲気はさらに原作のイメージから離れていく。
原作マンガの『のだめカンタービレ』の薄れゆく記憶。主人公たちが海外へ渡ってどうなっていったのか気になって仕方がない。確認するために、配信されているアニメ版の本作を観ていると、小学生の息子が『赤毛のアン』みたいな話だねと言ってきた。『赤毛のアン』は、主人公のアンが発達障害の特性を持っている。それがひとつの才能(ギフテッド)として、周りの人たちを感化していく物語。きっと作者のモンゴメリも特性を持ち、生きづらさを抱えていたのだろう。ひとつずつ壁を乗り越えていく主人公の姿に多くの読者は共感し、脳医学の症例として研究材料にもされている。この『のだめカンタービレ』の登場人物たちは、同じような特性を持った人たちばかり。
この数年で、発達障害の概念がすっかり世の中に浸透した。本人は真面目にやっているつもりなのに、不思議ちゃんとか天然キャラとか呼ばれてしまう人も、単純に脳の感覚がマイノリティなだけ。
主人公の野田恵ことのだめは、天才的なピアノのテクニックを持っている。本人は自分のギフテッドに自覚がない。ただただ楽しいからピアノを弾いている。もう一人の主人公・千秋真一も才能豊かな音楽学生。ハンサムでカリスマ的な存在。実家も裕福で、初めから将来の道が約束されている。第三者からみれば順風満帆の人生。天才ゆえの苦悩が、千秋を通して描かれていく。
のだめの「ぎゃぼー」とか発する言葉は、べつに狙ってるわけではない。特性とはなんぞやと、20年前より理解が進んだ今では、日本のドラマ版や韓国リメイク版の『ネイルカンタービレ』ののだめは、オーバー・コメディエンヌにみえるてしまう。変な人すぎると観客から距離をとられかねない。原作マンガののだめは、二次元媒体もあってかそこまで奇異な存在に感じない。
彼女彼らの周りにも、生きづらさを抱えたギフテッドたちが集まってくる。掃除ができない、過集中で倒れるまで夢中になったり、感覚過敏でストレスを抱えたり、浪費癖で爆買いしたり、過干渉で家族を苦しめたり、相手の気持ちを想像せずに正論を言ってしまったり……。それに性欲旺盛の教師や、LGBTQの友人なども集まれば、もうドタバタ・コメディになる。
のだめはADHD的な、衝動的で計画性がなく、人懐っこい性格。千秋はASD的な論理派の合理主義で、人付き合いが苦手。お互いが反対の特性を持っていたからこそのケミストリー。
高学歴の学校には心療内科が常設されているというのも頷ける。勉強が極端にできる代償に、多くの人ができる「普通のこと」ができなくて困っている人は多い。学歴だけでは社会は動かせない。才能を活かしたより良い社会を目指すなら、多様性を受け入れる寛容性は、ますます重要になってくる。
マンガ連載当時はまだ発達障害の概念が世の中に浸透していなかった。今となっては登場人物たちの極端な性格設定は、フィクションとは言い難く現実的。どれもが痛いくらいなエピソード。登場人物たちが「やらかす」言動は、作品の重要なコメディ要素だけど、反面教師の処世術の参考にもなる。原作者の二ノ宮知子さんは、音楽学生に徹底的に寄り添って取材したのが想像できる。リアルのだめの存在も原作では触れている。
連載当時はのだめや千秋たちに感情移入してマンガを読んでいた。自分も年齢を重ね、親の世代となってしまった。このマンガが親目線になると別のものが見えてくる。のだめのご家族は、何もできないけれどピアノだけはめちゃくちゃうまい娘の将来を心配する。せめて手に職を、先生の仕事に就くのはどうかと勧めるだろう。学校の勉強はきっと苦手だっただろうから、特技のピアノで推薦入学を狙う。のだめは物語の最初から「将来の夢は幼稚園の先生になること」と豪語している。音楽大学はお金がかかる。いわば金持ちの家の子が通う学校。一般家庭の野田家で、娘一人を音楽大学へ通わせるのは、経済的にかなりキツイ。音楽学校の学生たちの多くが、音楽と関係のない仕事に就いて行く描写がある。通学することにかけられた努力と経済の投資は、ほとんど芽吹くことはない。
千秋の家はそもそも裕福で、エリートコースまっしぐら。家柄も本人の才能もある。耳が異常に良くて、すぐにのだめのピアノの才能を見抜く。千秋はのだめの人間性よりも先に、彼女の才能に惚れ込む。日本の学生時代のエピソードは、千秋中心で描かれている。他人に興味がなく、相手の気持ちを察することができない千秋。音楽はテクニックだけではなく、他人と協調して創り上げていくもの。相手への尊敬の念が良い音楽につながることを学んでいく。
原作前半の日本でのパートは、のだめはほとんど活躍しない。まだ彼女は音楽に向き合おうとはしていない。ピアノの上手なお姉さんに甘んじている。ダメな私を王子様が面倒をみてくれる。私の密かな才能をどこかの誰かに認めてくらるというオタク的な妄想。みにくいアヒルの子の夢。
頑なに厳しいレッスンから逃げ回るのだめと裏腹に、千秋は抗いながらも素直に新しいことを吸収していく。日本の学生生活を描くマンガの前半がいちばん有名な『のだめカンタービレ』。でもまだのだめの物語は始まっていない。原作マンガの前半は『千秋カンタービレ』と言ってもいい。
このマンガは、たとえ天才的な才能があっても埋もれてしまう儚さも伝えている。もしのだめが千秋の側にいなかったら、彼女は厳しい先生に出会うことはなかった。体罰で教育するなんてもってのほかだし、いまどきセクハラなんかしたら裁判沙汰になる。まだ昭和のスパルタ教育の悪影響が明らかになる前の時代の考え。ただ、厳しい先生も甘い先生も、目指すところは実はみな同じ。伝えたいことは異口同音。
『のだめカンタービレ』効果で、のだめにそっくりな人生を送っているフジコ・ヘミングさんのドキュメンタリー『フジコ・ヘミングの時間』まで観てしまった。彼女も、他人と違う個性にずっと悩まされ続けたらしい。ピアノがあったからこそやっていけた人生。普通に生きることが如何に尊いことかと考えさせられる。
のだめが世界的な芸術家になっていく原作の後半はとても重要。のだめたちがフランスに来てから、物語のテーマがどんどん高尚なものになっていく。もちろんフランスに留学している音楽学生の話から始まると、読者にとってのだめたちが最初から雲の上の人のように見えてしまう。日本の学校で落ちこぼれだったのだめの描写は、読者に親近感を与える。
よく聞く話だが、日本の観客は変わっていく主人公が嫌いらしいということ。いつまで経っても歳をとらなかったり、状況が変わらなかったりする。大志を抱いて旅立つ青年が、連載何十年も同じ夢を見たままだったりする。何かを目指すことにはワクワクするが、何者にもなってほしくない、ずっと読者と同じ目線でいて欲しい依存願望。夢は夢のままでいい。
原作終了が10年前。のだめや日本の状況も大きく変わった。のだめが親しくなる音楽家たちの国籍も多岐に渡る。若い芸術家が誕生する土壌には、その出身国の経済的な強さも比例する。『のだめカンタービレ』の頃は、まだ日本も経済大国だったのだと、夢のないことを感じてしまう。
『のだめカンタービレ』が大団円を迎えるころには、いままでの彼女を取り巻く人々との多くの出来事や助言が一本の線で繋がってくる。ギフテッドを持ちながらも、くすぶっている人たちに一縷の望みを与えてくれる。
新装版には原作者の二ノ宮知子さん描き下ろしの新作も掲載されている。今後、本編最終回の後日談も描かれていくのではないかと期待している。中年にさしかかったのだめと千秋がどうしているかとても興味深い。きっと苦しみながらも充実した人生を送っていることだろう。芸術家たちの人生に感化されながら、自ら選んで楽しく生きなければと思わされた。
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