『薔薇の名前』難解な語り口の理由
あまりテレビを観ない自分でも、Eテレの『100分de名著』は面白くて、毎回録画してチェックしている。ちょっと前にウンベルト・エーコの『薔薇の名前』を扱っていた。
ショーン・コネリーとクリスチャン・スレーター主演で、ジャン=ジャック・アノー監督による映画版は、自分も公開当時リアルタイムで観ていた。単なるおどろおどろしいミステリーかと思っていたが、どうやらそれだけじゃないらしい。
ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』は、推理小説の表層をまといながら、社会風刺どころか社会批判をしている。原作小説は1980年に発表され、映画は1986年に製作された。作品の舞台は1300年代の北イタリア。時代物に設定するだけで、まさか現代の社会批判をしているとは、一見したところではわからない。フィクションの世界に、現実問題を忍ばせるのはなんとも知的。混沌とした現代社会だからこそ、読書の重要性を感じる。
ある修道院で謎の殺人事件が起こった。ショーン・コネリー演じる賢者ウィリアムと、クリスチャン・スレーター演じるその弟子の少年アドソが、事件解明せんがために派遣される。男ばかりの修道院。修道士たちは会話を許されない。とくに笑うことは固く禁じられている。
不穏な空気を漂わせる修道院と魑魅魍魎な修道士たち。頭がおかしいからこんなところに集まったのか、はたまたこんなところにいるから頭がおかしくなったのか。悪霊が潜んでいると言われても納得してしまう。気持ちの悪い映像が次々に展開されていく。でも悪魔の存在は、人間そのものの中にこそある。「無知」という悪魔。
修道士たちは男ばかりの生活をしている。一生独身の中老年童貞たち。禁欲的な生活にも無理がある。生命の本能をムリに封じ込めてしまうと、その反動で大爆発しかねない。女は悪しきもの、劣るものと決め込んで安心しようとするホモソーシャル。怯えるものが多過ぎる。怯える者はいつも暴力的だ。
修道院にある広大な図書館こそが、この作品のキモ。図書館は禁じられた場所。そこは知的欲求を与える場ではなく、異端を唱える発禁書を封じ込めたところ。異端とはあくまで詭弁で、修道士をはじめとした一般大衆が、頭が良くなることを恐れ、その知識に触れさすまいとするもの。
もっとも禁じられいるのは、アリストテレスが「笑い」を肯定的に唱えたとされている書物。この書物の存在はフィクションらしい。笑いを否定して、管理しやすい世の中を作りたい者には、かのアリストテレスによって「笑い」を肯定されるのは非常に困る。恐怖政治で抑え込むしかない。
この『薔薇の名前』が発表されたとき、あちこちで論争が起こったらしい。人様が創作したフィクション作品で大騒ぎするのは、なんともみっともない。本人たちは知的な論争と思っているだろう。でもウンベルト・エーコ自身は、そんな論争する人たちのさまをほくそ笑んでいたに違いない。ウンベルト・エーコ、へんな名前だけどカッコいい。
この作品で「知恵」の代名詞となっているのが「笑い」なのが良い。殺人事件で最初の犠牲者は、風刺画家と翻訳家。まっさきに新しい文化に触れる人びとだ。文化をひとつの集落だけに閉じ込めて、ガラパゴス化していくことの閉塞感。現代日本だからこそ、伝わるものがある。
偏った思想の人たちが集まって、自分たちが理解できないものを否定して弾圧しようとする。ミソジニーとレイシズム、歴史改竄と優生学の贅沢コンボ。
これほどの国際社会になっても、日本ではまだ偏った思想本がベストセラーになる。そんな本ばかり読んでいる人は、ラディカルな人かと思いきや、いたって真面目な人が多い。頼まれた仕事は断れない、オール・イエスマン。仕事に優先順位がつけられない気のいい人は、どんどん苦しくなっていく。ブラック社員の誕生だ。
まったく現代は、人がいいだけでは生きて行けない。上からの命令には疑うことなく従順で、横からのアドバイスはまったく聞かない頑固さ。そんなんで仕事ができる人なわけがない。利用されるだけ利用される。その割には人望がない。自信のない彼ら彼女らは、ハッキリものごとを言い切ってくれる極端な思想に居心地の良さを感じてしまう。嘘でもいいから、勇ましい言葉にすがりたい。
以前会社勤めしていた近所の定食屋さんでのこと。料理の白飯にゴキさんが混入していた。食事をしていても、どうしてもそいつの触角が気になる。そこは家族で経営しているお店だった。若奥さんに小声で声をかけて、「すいません、これ……」とお椀を見せた。若奥さんは慌ててご飯を盛り直してくれだけど、同じ釜の飯だし……。会計のとき大奥さんが出てきて、「なんだか粗相があったようで。お代はいただけません」と、食事代は受け取らなかった。ちなみに一緒にいた同僚は、普通に代金を払っていた。
会社に帰ってそのことを営業の人に話したら、「僕もあの店で、ゴキ入りご飯出されたことありますよ。あそこよく混入してるんですよ」って。すかさず「それでどうしたんですか? ご飯替えてもらったんですか?」と聞いたら、「何も言わずに、ゴキのところだけ残して帰りました。クレーマーだと思われたらイヤなんで」とのこと。えーっ、そんなのクレームにならないように工夫して言えばいいじゃん。お店の人に教えてあげないと、衛生面で営業停止処分されちゃうかもしれないじゃない! 上手に自分の言いたいことを発言していくのも大人の知恵。
この件について、自分はとくに腹も立たなかったけど、その営業マンはかなり怒ってた。自分は言うべきことをそのままその場で言ったから後腐れなかった。その営業マンは、感情的になっていたからこそ何も言えなかったのかも。その定食屋さん、その日の定食代をタダにしてくれただけでなく、次回使えるの無料券もくれた。でもやっぱりその店には二度と行かなかったな。
なんだかみんな従順。我慢して我慢して、我慢しつくして、言うべきことも言わずにどうする? 井上陽水さんの歌詞ではないが、いつかノーベル賞でもらうつもりで頑張ってるんじゃないかな?
その蓄積した我慢がいつかどこかで爆発するのでは逆効果。人生には、我慢しなければならない時期は確かにあると思う。でもいつも我慢すればいいというものではない。自分の問題には自分で向き合って、考えて行動しなければならない。人がどう言おうが、自分で思うものに向き合って行動しなければならない。それは覚悟がいる。だから尊い。もちろん自分の信念に従って行動すれば敵もできる。でも共感してくれる人も必ず現れる。やがてその積み重ねが自信になる。
『薔薇の名前』は難解な文章で、第1章にあたる「1日目」で、大概の人がリタイアしてしまうらしい。当時ベストセラーだったから、多くの家の書棚にはこの本があったらしいが、ほとんどがホコリをかぶったままになったらしい。人気があったけど、誰もその価値はわからないまま。
今で言う炎上しない予防策に、あえて難解な表現を使う場合がある。難しいことを平易な文章で伝えることは、平時にはとても知的なこと。でも社会批判や警鐘を鳴らすとき、そのままズバリを唱えてしまうと、作者の生命も脅かされかねない。本当に今大事なことは、少なくともわかる人にだけわかってもらえばいい。そんな暗号のようなメッセージが、自分の知らないところで飛び交っているなら、わからないままなんてもったいない。大事なことを読み解く能力は死活問題にも関わる。あらためて勉強の大切さを感じる。
アドソを演じたクリスチャン・スレーターは、自分よりちょっと年上のお兄さんの同世代。映画公開当時は、アドソの目線で観ていたけれど、自分も年を取った今、ショーン・コネリーのウィリアムに共感してしまう。
冷静なようでいて、知識への貪欲さを抑えきれない。連続殺人事件の解明よりも、アリストテレスの笑いの書への好奇心が、ウィリアムの行動の動機となっていく。
アドソはこの事件を通して、貧しい少女と恋に落ちる。後にも先にも一生一度の経験らしい。名も知らぬ初恋の女性を、『薔薇の名前』と呼ぶおセンチさ。アドソには彼女と生きる道もあったが、それを選ばない。
年老いたアドソの語り部が、その選択の正しさを説く。この作品で描かれる数日間の出来事は、アドソの人生において最も激しい日々だったのだろう。その後、何事もない穏やかな人生を送ったであろうアドソ。人によっては禁欲もまた心地いい。彼にはそれでよかった。『薔薇の名前』は、草食男子の勧めとして、時代の一足先取りの書としても読めなくもない。
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