『怒り』 自己責任で世界がよどむ
正直自分は、最近の日本のメジャー映画を侮っていた。その日本の大手映画会社・東宝が製作した映画『怒り』。まさかここまで見応えがある作品だとは思わなかった。自分は本作で音楽を担当している坂本龍一さんのファン。だから当初は「一応観ておくか」といった消極的な気分だった。
日本アカデミー賞多数受賞とうたわれていた本作。自分は映画ファンのくせに日本アカデミー賞にあまり興味がない。国内完結型の大手企業間の取引中心で、なんとなく真に観客のためには映画を作ってくれていないような、内輪だけの祭典といったイメージ。やっぱり内容的にもビジネス的にも、世界でも通用する映画が好きなのだ。ガラパゴスじゃイヤなのね。
この映画『怒り』の宣伝もよろしくなかった。いま日本で人気の若い俳優陣のオールスター・キャストを売りにしているポスターワークは、洋画ファンには響きづらい。坂本龍一音楽監督就任発表前の予告編では、クラッシックをガンガン使用している。これではまた『エヴァンゲリオン』や深作欣二監督の『バトル・ロワイヤル』の類似作をやるんだと勘違いしてしまう。手垢まみれのプロモーションで、すっかり作品をダメにしてしまった。韓国公開版の沖縄の海に広瀬すずさんの後ろ姿のポスターの方がカッコいいし、作品のイメージに合ってる。
この映画は海外でも充分評価される作品だ。でもやっぱり国内完結で、海外進出はしてないみたい。韓国では公開したらしいが、せいぜいアジア配給で止まっている。目先の利益を求めたら、海外進出はコストがかかるのだろう。いぶし銀のパワーを持つ映画なのに、伸びしろがないのはとても寂しい。冒険や投資をする余裕が、日本映画のメジャーシーンには少ないのだろう。
映画『怒り』がユニークで面白い作品だとは、上映開始してから5分もしないうちにわかる。物語の構成も編集もセンスが良い。国内で人気の見慣れた役者さんたちは、いままで見たことがないような演技をしてる。群像劇の登場人物たち誰もがみな、実際にそこにいて、背負ってきた人生まで見えてくる。
撮影もスタジオのセットは極力避け、実際の建物の中や自然光を使ったロケセットを重視している。日本のメジャー映画は、客引きしやすいスター俳優先にありきで、内容など度外視なところがある。さらにオールスター・キャストとなれば、俳優のスケジュールを最優先して、スタジオ撮影がメインになる。結果的に映画は完成できるが、どうしても味気ない作品になってしまう。実際の空間を使うことによる化学反応こそ、記録から生まれる映画というジャンルの醍醐味だ。
そしてやっぱり坂本龍一さんの音楽が良い。全体的に主張することなく、環境音や心理描写の補足として機能している。意識させない音楽。それがクライマックスでは10分くらい延々と奏でられ、盛り上がっていく。しかもそれは自然な流れ。ミステリー映画の大団円、オムニバスに広がった同時進行の物語。すべての登場人物の感情が高まる中、セリフがなくなり音楽だけの演出になっていても、音楽が気にならない。
とかく最近、音楽がうるさい作品が多すぎる。セリフが聞こえないだけでなく、作品だけで強引に盛り上げられてしまうと、観客側は逆にシラけてしまう。この『怒り』の音楽の使い方のセンスはとても大人だ。
映画の舞台は凶悪殺人犯が逃亡している日本。東京、千葉、沖縄それぞれの地で、彷徨ってきた身元のはっきりしない男と、彼に翻弄される人々の三つの物語が同時進行する。
作中では、現代日本の社会問題があちこちに散りばめられている。沖縄の米軍基地問題にはじめ、レイプ被害、セクシャル・マイノリティ、介護、高利貸し、風俗、派遣差別、ワーキングプア、施設で育った孤児、これから死期を迎える人のこと。
それらのキーワードは、テレビのワイドショーで扱うレベルのステレオタイプなもの。浅いのは確か。でもそれらは「怒り」への素材でしかないので物語の根幹ではない。
これらの問題を抱えた登場人物たちは、誰もがみな孤独だ。劇中のセリフではないが、どんなに辛くても誰も助けてくれない。自己責任という言葉で片付けられてしまうのが今の日本社会なのだろう。
人間の感情レベルには三段階あると思う。もっとも底辺の感情は「怒り」。二番目には「悲しみ」というか、泣くこと。鬱病患者が回復の最初に表す感情は、泣くことらしい。そうして自身の苦しみから徐々に解放されていく。自分はお涙頂戴がニガテだが、深く落ち込んだ人には、思い切り泣くことも必要なのだろう。そしていちばん人間らしい生き方は「笑い」。人として生まれたからには、笑いに溢れた人生を目指したいものだ。
殺人犯が現場で書いた血文字の「怒」。それは日々ネットに氾濫している誹謗中傷や罵詈雑言の言葉と同じ意味を持つ。通勤時間のラッシュの電車内なんかも、同じような怒りのエネルギーに満ち満ちている。
この映画に出てくるあらゆる犯罪の被害者に誰もがなる可能性がある。もっとも恐ろしいのは、加害者に堕ちるのもそれほど特別なことではないということ。映画のタイトルこそは『怒り』だが、作中で描かれてる感情は「悲しみ」だ。
「怒り」の要素は、我々日本人の平生普段の日常のあちこちにある。無意識のうちにとりこまれていることもある。だからこそ、映画は「怒り」そのものの感情には触れていない。それは観客の我々がいちばんよく知っている感情だし、そこから建設的な展開になることはない。
もしかしたら、これからこの映画のような凶悪犯罪が多発するような世の中になってしまうかも知れない。でもまた、日々ネットに誹謗中傷を書いている人たちも、いつか誰かが自分のIPアドレスを辿って、会いに来てくれるのではないかと夢想しているのかもとも考えられる。
登場人物の誰もが、深い傷を負っていく。命を落とす者もいる。生き残った登場人物たちが、少しでも救いがみつけられ、あとの人生は幸せに送って欲しいなと思えてくる。それくらい登場人物たちを身近に感じさせる映画だった。
映画『怒り』は、間違いなく李相日監督の代表作。芸術的な娯楽映画だ。
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