『君の名は。』 距離を置くと大抵のものは綺麗に見える
金曜ロードショーで新海誠監督の『君の名は。』が放送されていた。子どもが録画していたので、自分も観てみることにした。『君の名は。』が公開された2016年は邦画の当たり年。他にも『シン・ゴジラ』など観客動員数の多い作品が多かった。それに乗じて、政府が日本映画の支援をするなどとニュースも流れた。でもそれは映像制作に投資するものではなく、出来上がった作品をどうやって搾取するかのようなものだった。日本は個性的な作品が多いにも関わらず、なかなかメジャーシーンで世界に大作映画が伸びていけない。それは制作者個々の力だけで映画産業を支えているから。他のアジアでの映画作品にあるような、最初から海外進出を視野に入れて、国の産業としてエンターテイメントを支援している姿はない。なんとも嘆かわしい。才能が埋もれてしまう日本映画の現状。それでも『君の名は。』は世界マーケットに乗って行った。
国内では空前の『君の名は。』ブーム。どこへ行ってもこの作品の予告編が流れており、猫も杓子もこの映画の話をしている。ただ映画ファンの多い自分の周りの人は、あまりこの作品のことを口にしなかった。ベタの王道ヒット作すぎて、誰も気にとめなかったのかもしれない。
新海誠監督といえば、ひとりで自主アニメをつくった人というイメージが強い。彼が好きなアニメ作品の好きな要素をパッチワークした作風。同人誌の映像版で、メジャー路線ではない。この『君の名は。』はメジャー大作アニメ。内省的で倫理観も少しずれていた今までの新海作品とは打って変わって、練りに練られた脚本と、これでもかと言うくらいの映像の丁寧さのパンチが効いている。エンターテイメントとしての、映画的仕掛けがいっぱいの楽しい作品。
村上春樹さんの小説と新海誠監督の作品は似ている。極端に恋愛に依存してしまっている登場人物たち。はっきり言って性依存の変態なんだけど、それを綺麗な調理方法で美麗に仕上げている。それが心地いい。でも変態は変態。やはり病的な矛盾が表出してくる。村上春樹さんの新作小説が発表されるたび、書店で平積みになっている。普段本を読んでいない人まで、村上春樹さんの話をしている。でも待って、これ変態が主人公の話だよ。公の場で話せるような物語じゃない。メジャーというよりアングラな世界。新海誠監督の作品も同じ印象。年齢制限なくてもいいの? しかも映画冒頭は、主人公の寝起きで半裸の場面。新海誠監督の顔が頭をよぎる。
そんなこともあって、自分は当時の『君の名は。』ブームに抗っていた。どこへ行ってもかかっている映画の予告編は、男女が早口でセリフの掛け合いをしている。頭が痛くなるほどうるさい予告編。男女の掛け合いセリフも、囁いていたならゴダールの映画みたいでカッコいい。予告編からの印象は、義務教育の学校の卒業式でやらされる、卒業生の思い出の口上みたい。なんとも照れ臭い。サブカルエンタメは、トガッてなんぼと思っていたから、この真面目さが辛い。すっかり『君の名は。』に辟易してしまっていた。
あれから6年。そんな煽られたブームも去り、ノイズがなくなったなかにこの映画を再鑑賞する。何とも面白い映画なのだと、やっとこの作品の魅力に気付からされた。遅いよって。
口噛み酒の場面も、初見の時は新海誠監督の顔ばかりよぎっていたけど、これはストーリーで重要なギミック。変態的フェティズムもこれで言い訳が立つ。映画の展開の速さと、絶妙な音楽の使い方、あざとすぎるくらいの王道カタルシスが、次々と観客に襲いかかってくる。まさにジェットコースター・ムービー。
以前観たときに、主人公の三葉と瀧の無個性が気になっていた。主人公だから当然観客に一目で気に入ってもらえそうなルックスではある。でも映画鑑賞後、思い出せるほど印象深いキャラクターとまでは言い難い。
いつしか我が子はこの映画の主人公たちと同年代になっていた。自分はこの映画に出てくる、まったく役に立たない大人たちと同世代。伏線だらけのこの映画。当時は物語の意味が分かっていなかった我が子たちも、この映画の仕込まれたカラクリを楽しめるようになっていた。
三葉と瀧は、現代の若者の象徴。予告編ではがなりたてていたセリフの洪水も、本編になれば薄められてちょうどいい。そうなるとこの映画の若者たちが、とてもおとなしいのがよくわかる。本来の『君の名は。』は、予告編のようなうるさい映画ではなく、とても静かな映画。今の若者はおとなしい。もちろん元気がない現代日本社会で、有頂天になっていたらただのアホ。三葉と瀧は、現代教育にきちんと乗った従順な若者。そういえば当時この映画を絶賛していた人たちも、真面目そうな人が多かった。真面目に社会人になっている人たち。日本人のマジョリティ。
大人たちの指示に従ってレールに乗ってはみたものの、何だか寂しい。大手企業に就職して、順風満帆の人生。これが幸せというものなのか。今後、働き方改革が進んで、会社内でのパワハラやセクハラに注意の目が厳しくなり、飲み会や社員旅行などの会社イベントは減っていくことだろう。人間関係のわずらしさがなくなって、仕事に専念できる。会社は仕事だけをするところ。そうなると、一旦就職してしまうと、新たな出会いをつくるのが難しくなる。会社内で相手の事情に深入りすることが禁じられるのが今後のスタンダード。思えば今までの会社というと、仕事をすることよりも人間関係を築くことを重きにされていた。転職のいちばんの理由は、まさに人間関係。もう会社の人間関係で悩むことが減ってくるだろう。都会では、人は多いけれど人とは知り合えない。だから妄想に耽るのも身を守るための処世術。
セカイ系の作家・新海誠監督の作風をそのままではメジャーには持っていけない。娯楽性を高めた複雑な脚本でイノベーション。リピート再見したくなるつくりはヒットの要因。感想で聞こえてくるウエットな言葉と裏腹に、実際の映画は計算され尽くされたドライな演出。恋愛映画というよりアトラクション・ムービー。
三葉は巫女の家系。超自然的特殊能力があることは納得できる。でも瀧はどうして三葉と入れ替わることができたのか。どこの時間軸が、このマルチバースの起点になったのか。三葉が瀧を見つけときか。そうなるとこの世界のハンドリングは三葉が握っていることになる。男性目線の女性像ではなくて、三葉の視点でこの映画を観ていくと、物語の根幹がしっくりしてくる。それでもう新海誠監督の顔がチラつかなくなる。そうなるとこの映画、瀧にとっては受難劇でしかない。
さて三葉と瀧はいつ恋に落ちたのか。二人が実際に会って会話を交わすのは、クライマックスに一回だけ。観客は無条件でこの二人が結ばれることを求めている。実際に自分や相手の気持ちに気づくには、はっきりとした自覚がいる。文字通り、最初は体から相手を知っていった三葉と瀧。体と心はつながっているとはいえ、そこにこの作品のエロさがある。多くの人に観てもらいたいメジャー作品だから、そっちへは進んではいけない。相手とは会ったことはないけれど、その人を取り巻く生活環境や、その人に向けての周囲の人の接し方でお互いの人間性を知っていく。形から相手を知っていくのは、マッチングアプリでの出会いのよう。ここで無個性にみえる二人の主人公の効果が活きてくる。
映画技術の随を尽くした『君の名は。』。制作者たちはどこまでこの映画の成功を見越せていたのだろうか。マーケティングがうまくいっての成功だったのなら、今後日本映画の発展も期待できる。偶然だったか必然だったかは、これから表に出てくるだろう。今回の鑑賞で不覚にも泣いてしまった。計算された技術で人の心は動かせる。
東京の街はこんなに綺麗じゃないよね。東京が古くて汚い街なのは、子どもたちも知っている。現実を大仰に美化した妄想。寂しい若者は、自分の中のエモーションよりも、外的シチュエーションに酔いしれる。東京は人間関係も街のつくりも複雑。
映画学校に通っていた頃、新宿を舞台に映像作品を作っていた。先生に「新宿のビル群だけは撮るな。田舎者丸出しだぞ」と注意された。でも自分は小学生の頃から、映画を観にいくために新宿に通っていた。今となっては小学生がひとりで新宿に遊びにいくなんて危険な行為。よく何もなくやっていたものだ。だから憧れで新宿の街を描いたわけではない。情報過多な飽和状態を描きたかった。都会を描くことが田舎者だなんて、思いもしなかった。
都心の高層ビルで勤務することがよくあった。高いビルに登っていくと、耳がキーンとなる。地震が起こったら嫌だなと心配になる。でも窓から見下ろす東京の街は綺麗だった。汚い街も距離を置くと美しい。普段は足元から見ている街の猥雑さも、上空から見ることですっかり浄化されてしまう。キツイ仕事でも、オフィスから見える街の風景が楽しみで乗り越えていけた。この感覚は新海作品の深入りしない距離感に似ている。人間関係も社会もそれなりの距離をとれば綺麗なものになる。ドライな視点をつくることは、生きるためのスキルとして必要なのかもしれない。でもまた、距離を縮める親しい人間関係も必要だ。ソウルメイトに憧れる妄想心理をくすぐるこの映画。変態的妄想を、綺麗な王道に変えてしまった。日本サブカルの変遷での分岐点。流行るものには理由がある。ブーム全盛期に自分はそれがわからなかった。思い込みや偏見は冷静な判断を鈍らせる。何事にも距離を置く視点は持ちたいものだ。
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