『死霊の盆踊り』 サイテー映画で最高を見定める
2020東京オリンピックの閉会式を観ていた。コロナ禍のオリンピック。スキャンダル続きで、開催ギリギリまで関係者の降板劇が続いていた。それもあってか、逆に開会式への興味が膨らんだ。開催国で有利なのも幸して、競技はメダルラッシュ。それはそれで楽しかった。ただやはり開閉会式は、付け焼き刃のやっつけ仕事感は否めなかった。実のところオリンピックは、いつも開閉会式をいちばん楽しみにしていたので、とても残念。
閉会式では日本国旗を静かに掲げながら式典が始まる。おごそかというよりは暗い。祭典というよりは国葬。しんみりした感じ。特定の企業に属するミュージシャンの演奏。延々と続く盆踊り。耐えきれず途中で風呂に入る。戻ってきてもまだこの展開は続いてる。ふと『死霊の盆踊り』という映画のタイトルが浮かんできた。
この映画が日本で公開されたのは1986年。学生時代、ホラー映画好きの友だちが持っていた映画雑誌で、この映画の存在を知った。タイトルのインパクトでトラウマになるくらい。くだらなそう。絶対この映画はつまらないと直感できる。『死霊の盆踊り』というタイトルだけで、しばらく笑って過ごせるくらい。この邦題考えた人のセンス最高。そのあとこの映画は「サイテー映画の傑作」とか「自身の映画愛を試される作品」と言われた。自分はすっかりこの映画を観た気になっていた。
プロットは、ふと墓場に迷い込んだカップルが、死霊たちに捕まって縛られ、延々と盆踊りを一方的に見せられるだけ。女の死霊たちが、縛り上げられたカップルの前で裸踊りをしている宣伝映像を観た。縛られたカップルは棒読みセリフで「怖いわ」「大丈夫だ」とか励まし合っている。ちっとも緊迫感がない。シュール。つくる側も演じる側も、よくわからないまま撮影してしまっている。生まれて初めて映画をつくってみた、素人学生さんの自主映画の匂い。この映画を鑑賞するには、相当の精神的余裕が必要。鑑賞するのになかなか勇気がいる。
実はこの映画は1965年に製作された映画。古い映画で、日本ではお蔵入り寸前。ゲテモノ喰い狙いの再評価。脚本にエド・ウッドの名前があって納得。エド・ウッドは史上サイテーの映画監督として有名。自分もティム・バートン監督&ジョニー・デップ主演の伝記映画で、彼の存在を知った。『死霊の盆踊り』のサイテー映画の殿堂入りは、エド・ウッドのブランドで確かなもの。
古い映画ということもあって、この映画に携わった人たちのその後の人生も映画史は語ってくれている。製作者も出演者も誰一人として成功していない。ただこの映画に出演したキャストたちは、この映画に出ることで有名になれるのではと、密かな野望を抱いていたに違いない。裸踊りのダンスはプロによるもの。でもこれといって振り付けがあるわけでない。あくまでダンサーの即興に頼るもの。野心がなければ、無駄に裸踊りなどするはずもない。コンセプトなんてあるはずもない。スタッフたちも同じようなもの。誰も止めない。アウト・オブ・コントロール!
ホラーとエロのイノベーションなら、きっとウケる。安易な企画がまかり通る。酒場で語り合うような、思いつきアイデア・レベル。そこで内容を詰めていくのが、本来の映画づくり。そこに乗っからない、見切り発車のまま突っ走るのが、エド・ウッド・チームの才能と言えるなら、それはそれで正しいのかもしれない。
死霊の王を演じるクロズウェル。地顔はハンサムなのだけれど、ただのスケベオヤジにしか見えない。マントの着こなしも崩れている。とにかくすべてが雑。みうらじゅんさんなら「それがいいんじゃない」と、寛容にダメなところを褒めてあげるのだろう。どうやら自分にはその器はない。延々と続く裸踊りにすっかり睡魔に襲われてしまった。もう夢なのか現実なのかわからない。そうか、これがこの映画の楽しみ方なのか!
この映画に携わった人たちは、きっと本気でこの作品製作に取り組んだのだろう。頑張ればきっと報われる。確かに彼ら彼女らは頑張った。でもその頑張りはすべて水疱に帰する。その場所はどんなに頑張っても、仕方がない場所だった。自身の仕事選びの段階で、この企画は果たして良いものなのだろうか、判断できる読解力の必要性。もし道を間違えたなら、軌道修正する度胸。いちばんやってはいけないのは、目先の欲に駆られて突き進むこと。その仕事が今後の汚点になってしまう危険性もある。
我慢すれば、頑張ればきっと誰かが評価してくれて報われる。盲信的に進んでいく幻想。努力しても、せいぜい搾取されるだけ。チャンスはどこにでも転がっているわけではない。なんだか哀愁漂ってきた。
結局のところ何をしたって苦労はする。せめてその苦しさのなかでも、楽しめる要素を見つけられるかどうかが、人生を左右する。
『死霊の盆踊り』は、映画にかける情熱を、間違った方向に開花させてしまった失敗例。皮肉な形で映画史に名を刻む。観客の自分たちはこの映画を観て、反面教師として厳しく受け入れるのもアリ。人生で大きな決断を迫られたとき、目先の利益に惑わされない冷静さを保ちたい。選別の観点が肩書きであってはならない。自分の居場所を見つけられるセンスは、最大の才能なのかもしれない。
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