『たかが世界の終わり』 さらに新しい恐るべき子ども

グザヴィエ・ドラン監督の名前は、よくクリエーターの中で名前が出てくる。ミュージシャンの牛尾憲輔さんのインタビューや、イラストレーターのヒグチユウコさんの対談でもその名前が出てくる。牛尾憲輔さんに至っては、直接グザヴィエ・ドラン監督にコンタクトをとって、「あなたの作品の劇伴を担当させてください」とラブコールを送ったとか。残念なことに今、グザヴィエ・ドランは監督業を休止しているとのこと。フランス映画で牛尾憲輔さんの音楽が聴けたら、結構マッチしていてカッコ良さそう。いつかはグザヴィエ・ドランの映画で牛尾サウンドが聴けるといいが。
牛尾憲輔さんがその名前をあげてくれなければ、自分はグザヴィエ・ドラン監督の存在を知ることもなかった。グザヴィエ・ドランが頭角を表したころの2010年代の自分は、育児や仕事に追われていて、とても映画をゆっくり観れる時期ではなかった。映画ファンを拗らせて、自身もその道を志したような自分でも、映画情報に疎くなってしまうこともある。自分が映画のブランクが空いた期間は15年くらい。この映画『たかが世界の終わり』の主人公ルイは、12年ぶりに生まれ育った家族のもとえ帰郷するという話。自分が映画離れをしてしまった期間がちょうど同じくらいに当たる。
ひとえにグザヴィエ・ドラン監督作品と言っても、結構本数がある。どれから選んだらいいのか迷ってしまう。とりあえすタイトルだけ知っている『たかが世界の終わり』を観てみよう。『たかが世界の終わり』が日本で公開されていたのは2016年ごろ。その頃自分は、細々と少ない知識で映画を観ていたなかでも日本のアニメ映画の『この世界の片隅に』にハマっていた。『この世界の片隅に』と『たかが世界の終わり』、タイトルが似ていたのでなんとなく憶えていた。『たかが世界の終わり』というそのタイトルから、勝手にアメリカかイギリスのラブコメ映画かと思ってしまっていた。それがフランス語で制作されたフランス・カナダ合作映画だったとは結構意外。ましてや10年以上経った今、この映画に興味を持つとは思ってもいなかった。
『たかが世界の終わり』は、カンヌ国際映画祭でもグランプリを獲っている。ややこしいのはカンヌ映画祭のグランプリは、一等賞ではなくて二等賞とのこと。カンヌでは最優秀賞はパルムドールという。『たかが世界の終わり』がグランプリを獲った年のパルムドールは、ケン・ローチ監督の『わたしは、ダニエル・ブレイク』。イギリスの貧困問題を描いた社会派作。ケン・ローチ監督と競った作品なら、かなり期待してしまう。
グザヴィエ・ドラン監督を知るには、『たかが世界の終わり』を最初に選んだのはもしかしたらベストではなかったのかもしれない。『たかが世界の終わり』は、グザヴィエ・ドランのオリジナル作品ではなく、ジャン=リュック・ラガルスによる戯曲が原作となっている。ドランがすでに評価されている作品に味付けしたような形になる。脚本にはグザヴィエ・ドランの単独作品として名前が上がっているが、映画での台詞は原作戯曲にほぼ忠実とのこと。もともと舞台劇なので、台詞による会話劇となっている。
フォーマットが違うものを、別のジャンルに変換して落とし込むのは、簡単なようでいて結構難しい。グザヴィエ・ドラン監督は、媒体が異なることで、同じ作品でも印象が大きく変わることをよく知っている。原作が戯曲なことを知らずにいれば、この脚本は映画的なものを計算されて書かれているオリジナル作品にも思えてしまう。成人した家族が集うこの映画の内容は、少ない登場人物で綿密な人と人とのぶつかり合う姿が描かれている。これでもかというくらいクローズアップを多用しているのが興味深い。
舞台劇は客席から俳優の演技を観るもの。観客は決められた席からでしかその芝居を観ることができない。眼前で繰り広げられる芝居に、観客は観察者として、各々の頭の中でカット割りをしている。それも観劇の楽しみ方。その空間を通して感じるものや、観客の想像力を駆使されて初めて演劇は完成していく。観劇では俳優の表情は遠くてなかなか見えない。観客の方で「きっと今、こんな顔をしているのだろう」と察しながら楽しんでいるところもある。映画の『たかが世界の終わり』は、その演劇的な魅力であり不便さでもある客席に縛られることを真っ向から否定する。映画という大スクリーンで、それこそ毛穴や瞳に映っているものまで見えてしまうくらいに、俳優の顔に寄りに寄る。舞台劇で見えなかったものを、映画化で今度はとことん見せてやろうという逆手の演出。
『たかが世界の終わり』は会話劇だけれど、それに負けないくらいの映像美で攻めてくる。そこに演出家グザヴィエ・ドランの個性がある。自分を前面に出してくるのではなく、個性や我を抑えて作品の持つ力に自分の能力を委ねていく。個性を殺すことで、新たな個性が見えてくるという矛盾。若い監督とは思えない柔軟性。いや、若いからこそできる、そのこだわりの放棄。
『たかが世界の終わり』の主人公ルイは、余命いくばくとのこと。それがどんな病で、あとどれくらいで生きられるのかは映画では語られない。ルイはゲイでもあるという。劇作家でもあるルイは、登場人物の中でもっともグザヴィエ・ドラン監督に近い存在だろう。ルイの妹を演じるのがレア・セドゥ。どう見ても彼女の方が年上に見える。とても10歳くらい歳が離れている妹には見えない。それもご愛嬌。兄を演じるのはヴァンサン・カッセル。お兄さんというより、お父さんに見えてしまう。俳優の実年齢と配役にはちと無理がある。この映画のキャスティングの豪華さから世界標準を狙っているのが伝わってくる。
12年のブランクを経て家族の元へ帰って来たルイ。でもなんだか受け入れる家族の態度がぎこちない。兄はなんだかずっとイライラしていて、みんなに当たり散らす。妹はルイが家を出たときはまだ幼かったので、事態がよく掴めていない。兄嫁はルイとは初対面なので、なおさら状況が掴めない。母はなんだか認知症になっているように見える。でも母と一対一で話してみると、とてもしっかりしている。自ら道化を振舞って、場を和ませようと必死なのが後からわかってくる。しかしどうしてこの家族は、これほどピリピリしているのか。
この映画の不思議なところは、その不協和音をがなり立てている家族の秘密について、作中で一切明かしてこないところ。たいていの作品では、登場人物たちになんらかのわだかまりがあれば、その理由を追求して、あわよくばその問題を解決して一件落着として幕を閉じていく。けれども『たかが世界の終わり』という映画は、その謎の解明にはまったく向き合う気がない。モヤモヤはさらにモヤモヤさせられて終焉を迎えていく。我々は何が起こっているのかわからないまま、このひとつの家族の放つ異様な緊張感に付き合い続けていく。真相がまったくわからないのに惹き込まれる。観客の想像力をこれでもかというくらい刺激してくる。ほんとにこの人たちの過去にいったい何が起こったの?
グザヴィエ・ドラン監督がこの映画を撮ったのは26歳くらいの頃。登場人物のいちばん年下の妹に近い年齢。それこそ母親役のナタリー・バイは、グザヴィエ・ドランからすれば母親よりも祖母に近い年齢。自分よりはるかに歳上で、世界的に有名な主役格の俳優の中でも、肩肘張らずに自由な演出家をやってのける。自身も俳優でもあるグザヴィエ・ドラン監督が、どんな人物なのか気になって仕方がない。
グザヴィエ・ドラン監督を特集するドキュメンタリー映画も配信されていた。『グザヴィエ・ドラン バウンド・トゥ・インポッシブル』というその作品は、若き天才のファンに向けたアイドル映画のようでもあった。グザヴィエ・ドラン監督の成熟した感性とイケメンぶりには、憧れもするが、それゆえに嫉妬心も煽る。天は二物を与えてしまった。
ドキュメンタリー映画の中で、プロデューサーが語る。ドラン監督がデモでつくってきた映像を、「これでは使えない」と、作品の良くない箇所を指摘したら、翌日にはその欠点をすべて修正した再編集版を提示してきたとのこと。これは簡単なようでいて、なかなかできることではない。クリエイターが自分でつくった作品を指摘されるのは辛いこと。自分が心血注いでつくった作品への批判は聞きたくない。逃げるか反発したくなってしまう。
これはひとつの偏見なのだけれど、フランス人のクリエイターのイメージは、異常にプライドが高くて気難しい感じがする。わかってもらえなければ、わからない相手の方がが悪いとなって、すべてやめてしまう。グザヴィエ・ドラン監督にはそれがない。あっさり自作の欠点を認めて、それを受け入れて改善する。なんとも器の大きな態度だろう。
グザヴィエ・ドラン監督は、『たかが世界の終わり』のルイのように、自分は長くは生きられないと思い込んでいたらしい。だからこそ生き急いで、数年でたくさんの映画をつくっている。そのどれもが違ったタイプの作品だから面白い。
ヌーヴェバーグ以降のフランス映画界で「恐るべき子どもたち」と呼ばれる若手監督の旗手だったレオス・カラックス監督。彼も「自分は30歳までに死ぬ」と本気で思っていたらしい。レオス・カラックスはかなり気難しい。結局30歳の年齢を生き抜いて、今ではその倍以上の年齢にまでなっている。レオス・カラックスは30歳を過ぎたとき、その後のプランをまったく考えていなかったので、どうしていいのかわからなくなって途方に暮れたらしい。グザヴィエ・ドラン監督も30歳を過ぎて、いま監督業はお休みとのこと。もしかしたら自分の人生に向き合っている時期なのかもしれない。
「自分は早く死ぬから、先のことなどどうでもいい」と言っている人に限って、結構長生きしてしまう。人生死んだらそれまでだけれど、もし死ななかった場合のことも考えておかなければ、実際問題困ってしまう。現代では太く短く生きることは結構難しい。この休業期間を経て、はたしてグザヴィエ・ドラン監督は映画業界へ返り咲いてくるのか。戻ってきたらファンは嬉しいし、仮に戻らないとしても、彼自身の納得のいく人生が送れるのなら、それもまた良しとなる。
閃いた場面が予告編にぴったりだから、その場面から後付けで物語の中に落とし込んでいくこともあると、グザヴィエ・ドラン監督は言っていた。なんともコマーシャル的で軽い。でもそれは商業映画に大切な要素でもある。アーティストぶらない、なんとも現代的な姿勢。実際自分たちが映画を観るとき、予告編はかなり重要な作品選びのポイントとなる。商業映画鑑賞はたいてい、予告編で観た場所の確認作業となってくる。
グザヴィエ・ドラン監督のインタビューで、ジェイムズ・キャメロン監督の『タイタニック』について熱く語っている場面がある。『タイタニック』のブームをリアタイで経験した自分からすると、あのときの『タイタニック』の猫も杓子も感は凄かった。映画の話と言えば『タイタニック』ばかり。もうこの映画を観ていないなんて、ちょっとおかしいんじゃないかとまで言われてしまいそうな勢い。だから映画好きからすると、『タイタニック』について語るのはちょっと気恥ずかしい。とはいえ自分も『タイタニック』の映画はかなり好き。エンターテイメント映画の教科書にしていいくらいと思っている。観客に世界観に溶け込んでもらえるような工夫があちこちの場面でなされている。ものすごく計算高い映画。これも芸術。
グザヴィエ・ドラン監督が『タイタニック』について言及していたのは、冒頭の老人になった主人公の場面。自分からすると、蛇足に思えるようなところ。そこのカットバックが如何に素晴らしいかをドラン監督が語っている。『タイタニック』の映画で他に褒める場面はたくさんあるのに、そこですか。王道なのかマニアックなのかよくわからない。ドラン監督がそんなにその場面を推すなら、もう一度『タイタニック』を観直してみようかとまで思ってしまう。
結局、アート性が高い映画だって商業作品でしかない。多くの人にお金を払って観て貰えなければ、つくり手は生活できないし、次回作も当然つくれなくなってしまう。グザヴィエ・ドラン監督は、アート性と一般性を行き来できる器用な監督。というか、普通にコミュニケーションがとれなければ、大勢の人とつくる映画制作などできるはずもない。芸術家と聞くとなんだかエキセントリックな人なのかと思ってしまいがちだが、実際にはそうでもない。あきれるくらい真っ当な人でないと、芸術家なんてなれないのが現代社会。自分が映画学生のころは、変人な方が芸術家っぽくてカッコいいとか勘違いしていた。自己演出で変人ぶった個性をつくるのはみっともない。自分にとってもそんな10代20代を送ってしまったのは黒歴史でもある。隠そうと思っても出てしまうのが本当の個性。それは自分が狙って出てくるものではない。どんな個性を自分が持っているかなんて、当の自分がいちばん理解できない。セルフプロデュースなんて言葉があるが、そんなことしている暇があるなら、自分のやりたいことに全力を尽くした方がいい。結局それが個性なのだから。
グザヴィエ・ドラン監督の素直な演出が、個性的な映画になっていく不思議。これを技術的に真似しようと思っても分析が難しい。グザヴィエ・ドラン監督だって、映画をつくるときは毎回、まっさらな気持ちにして取り組んでいるのだろう。自分の考えにこだわらないようにすることが創作のポイント。ここはやっぱりぜんぶやり直して軌道修正していかないとと、ものづくりはそんな余裕から初めて生まれてくる。そんなものづくりの基本がわかって実践できているグザヴィエ・ドラン監督には嫉妬してしまうけど、やっぱり好感を持ってしまう。そう感じさる知性。グザヴィエ・ドラン監督は、きっと良い人なんだろう。
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