「♪ひとつ山越しゃホンダラホダラダホ〜イホイ」とは、クレイジー・キャッツの『ホンダラ行進曲』の歌詞。青島幸男氏によるこのノーテンキな歌詞の着想のきっかけは暗くて重い。

当時の地方の山村で、差別にあっていじめられた家族が無理心中をしたニュースがあったらしい。小さな子どもも含めて全員亡くなったとのこと。もしその家族がその山村から抜け出して、ひと山越えた隣村へ移ることをしていたら、もしかしたら別の生き方があったかもしれない。やるせない気分がこの曲の着想のきっかけらしい。

マーティン・スコセッシ監督による『沈黙-サイレンス-』は、遠藤周作氏の小説が原作。日本が舞台で、江戸時代の宗教弾圧がテーマ。

マーティン・スコセッシには、キリストが普通の人間として迷う姿を描いた『最後の誘惑』という作品がある。「なんたる冒涜か!」と、一部の保守的クリスチャンが、上映反対デモをしたり、劇場で暴動まで起こしだす。スコセッシは映画人生命どころか、身の危険も感じただろう。そんなさなかにこの『沈黙』の小説に出会ったらしい。

スコセッシ映画のテーマは、ほぼ一貫して「信仰心」と「暴力」に絞られる。それが極東の国・日本が舞台が移ったとしても、ちっともブレてない。

この映画での日本のイメージは、野蛮なモンスターの国。ひとたび足を踏み入れたなら、二度と生きては帰れないような地獄。かといって自分たち日本人がみても違和感を感じない。

昔の日本の話と言っても、現代日本にも通じるところがある。ものごとを計る基準は「それ自体が正しいとか間違っているから」ではなく、「上がこうだと言うのだからこうなのだ」というもの。上が言うこと以外は認めないという、完全なる縦割り社会。その排他的な思想では革新は望めない。今この時代にこの作品を、海外作家が描く意味はある。

宣教師役に、スーパーヒーローの経歴のある役者たちを起用しているのも皮肉。ここではどんなヒーローがやって来ても非力な存在でしかない。むしろ彼らの存在が、救いを求める民を一層不幸に陥れてしまう。

日本は一応仏教国だが、基本的に無宗教の人ばかり。宗教観なんて正直ピンとこない。ましてや殉教なんて共感するのは難しい。当時に思いをめぐらせ、キリシタンになるしか選択肢がなかった心情を想像してしまう。

劇中の若い宣教師たちは、人間らしい美しい生き方を求めていたはず。この映画での日本の民は、人間である権利すらない。高尚な精神を練磨するための信仰というよりは、すがる思いでの信心。生まれ変わりを語りだしたら、その人は相当追い込まれている。もうこの身今生では救われないので、せめて来世に望みをかける。同じ信仰をしていながらも、宣教師たちと日本の民とのズレがある。

宣教師たちが聖職具を民たちに与えると、皆が群がるように欲しがり喜ぶ。宣教師たちが、モノにすがるのではなく、心の中に信心を築かなければならないのにと戸惑う。物質に頼るのは日本人らしい。好きなものをなりふり構わずすべて買い占めてしまうオタク的考え方は、日本人の遺伝子みたいなもの。しかし熱量を物質で表現するのは、あまりセンスのいいことではない。

宣教師たちは、この国には宗教は根付かないと嘆く。これは400年近く経った今現在の日本が証明している。日本で宗教といったら、残念ながらカルトか妄信的なイメージが強い。まだまだ日本にとって信仰を持つことは、日常的な風景ではない。劇中の言葉を借りるなら、この国ではまさに主は沈黙を守り続けている。宣教師たちは神の声を聞いたようだが、それは極限状態が作り出した幻覚や幻聴でしかなさそうだ。殉死した隠れキリシタンたちの最期は、とても救われているようには見えない。

日本人気質は、新奇探索的な外側へ目を向ける視点は低い。現代日本は鎖国こそはしていないが、カルチャーのヒットチャートをみる限り、国内完結型のガラパゴス化したものばかりが並んでいる。ここまでドメスティックに止まるお国柄も珍しい。

日本人キャストが、国内作品では見せないような魅力を本作では放っている。この映画の撮影のほとんどは台湾で行われたらしい。監督がイメージする江戸時代の長崎の原風景が見つからなかったのだろうか? 少なくとも大人の事情で日本ロケができなかったなんて情けないことがなればいいが。

本作の最大の見せ場は、生々しい拷問や惨殺の場面だ。もしこの時代に自分が生きていたら、弾圧される側になる可能性の方が高い。他国が舞台ならまだ冷静になれるが、そのフィルターがなくなるとかなりキツい。登場人物全員がアンハッピーの狂気の中にいる。この映画を観た日の晩は、悪夢を見てしまうかもしれないので要注意。