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『私をくいとめて』 繊細さんの人間関係

公開日: : 映画:ワ行,

綿矢りささんの小説『私をくいとめて』は以前に読んでいた。この作品が大九明子監督によって映画化されると聞いて、期待せずにはいられなかった。大九明子監督と綿矢りささん原作での作品映像化は今回で二度目。前作『勝手にふるえてろ』は、普段あまり積極的に日本映画を観ない自分でもかなり面白かった。監督と原作者が同じでも、キャスティングがほぼ一新しているところがいい。似ている世界観だけど、全く違う人生を描こうとしている。

原作がある映像化作品は、たいていオリジナルには勝てないもの。大九明子監督の演出は、原作小説の根幹を崩すことなくブラッシュアップする。主観的で一人称の原作を、閉じこもる視点ではなく、他者へも目を向けていく客観的視点へ運んでいく。世の中は自分一人で世界が回っているわけではない。なにも自分だけがたいへんな人生を送っているわけではなく、誰もが必死で生きている。閉塞感を抱いている主人公が、他者と触れてどう感じていくかがドラマになる。

のんさん演じる主人公みつ子は、会社勤めのアラサー世代。都会でのおひとりさまライフもすっかり板についている。会社での人間関係もそつなくこなしてる。でもなんだか孤独。周りばかりが眩しく見えてしまう。

みつ子頭の中には、相談役の「A」という執事みたいな存在がいる。困ったことがあると、脳内にいる「A」に話しかける。いわゆるイマジナリーフレンドというやつ。脳内に別の人格をつくって、自問自答する。従来のイマジナリーフレンドのイメージは、孤独や不安を抱えた子どもがつくるもの。30代のみつ子が、脳内の友人に頼らなければいけないというのは、かなりイタい。

小説を読んでいるときは、イマジナリーフレンドとの一人称問答は、あまり違和感なくすんなり入ってきた。映像になって、みつ子が声に出して「A」と会話している姿は、かなり怖い。精神疾患を患う人が、その人だけにしか見えない幻覚の誰かと話す姿のよう。または頭の中で多くの言葉がぐるんぐるん回っている状態にもみえる。自分の脳内だけでその言葉が留まっていれば、まださほど問題ではない。でもそれが声に出てしまうと、ちょっとまずい。

最近「繊細さん」という言葉が流行っている。そもそもHSP(Highly Sensitive Person)を今風に名称化したもの。感覚過敏や感受性の高い人のこと。90年代に心理学者のエイレン・アーロンによって発表された概念。5人に1人がこのHSPに当たるらしい。でもこれは医学用語ではなく、自己啓発的な概念でもある。毎日の生活の中で、いちいちセンシティブになって一喜一憂していたのでは、生きづらくてしょうがない。HSPは診断がおりない症状。みつ子はHSPそのもの。HSPの人は、水が好きだと言われている。みつ子はいつも水を求めている。確かこの要素は原作にはなかった。大九監督の確信的演出。

みつ子のように感覚が鋭い人は、通常たいしたことではないようなことでも大きく動揺する。大仰に傷ついたり感動したりしてしまい、疲れてしまう。ひとりでは生きていけないのは重々わかってはいるものの、他者との距離感が難しい。『私をくいとめて』では、恋愛関係での相手との距離感を描いているけれど、人間関係の問題は恋愛ばかりではない。

みつ子の勤務先は築地。築地には隅田川が流れている。みつ子の会社は印刷業。築地は老舗のデザイン会社も多い。古い建物と新しい建物が共存する街。築地は東京を描く映画的ロケーションに最適。とくに大事なのは大きな川の存在。

小説の面白さは、第三者には見えない当事者だけの心の葛藤が、活字によって可視化されるところにある。他人から見たら奇異に感じる言動でも、本人目線からしたら理路騒然と説明できたりする。物語はフィクションで、嘘の話かもしれないが、その中には真実が描かれている。『私をくいとめて』の中にも、心理学や脳科学の謎を紐解く情報が込められているだろう。

みつ子がネガティブ感情に囚われた時の、芋づる式に黒い思考に引っ張られていく様子がわかりやすい。「A」という、もう一人の自分がブレーキをかけなければ、暗黒世界に一人で取り残されてしまう。どこかで現実を認知確認しなければ病気になる。

もちろんそれは逆にポジティブ・モードでも、その心理的バイアス感情は増幅する。豊かな芸術作品に触れたときは、他者よりも大いに感動したりもできる。『私をくいとめて』は、深刻な心理特性を描いてはいるけれど、コメディとして笑えるようになっている。

みつ子が旅行へいく場面の演出がいい。劇伴もほとんどかからず静か。旅先の空気の音だけが聞こえてくる。「A」の声も聞こえてこない。見知らぬ土地での孤独が心地いい。無心。ひとり旅の楽しさが伝わる演出。そしてそこではこれからやってくるコロナ禍の気配も不気味に漂わせている。

この作品は映画祭などで地味に評価された。受賞作品なのに、あまり宣伝されない。芸能界の大人の事情で、一時期のんさんがメディアに出れなくなった影響があるのかと、つい邪推してしまう。評価されているのに、公に取り上げられないのなら、かえって面白い作品なのだろう。あまのじゃくな捉え方をしてしまう。

女性が無意味に笑顔で人と接しているときは、たいてい困っているとき。誰もが生きづらさを抱えてる。せめて楽しくやっていこうと、努力工夫してやりくりしてる。それは「幸せな姿」ではなく、「幸せになろうとしている姿」。幸せな気分になるために自分の努力で演出する、生きる工夫や技術に他ならない。みんな健気に生きている。

先日、通勤電車内で通り魔事件が起こった。加害者は「幸せそうな女性なら誰でもよかった」と言う。フェミサイドなんて恐ろしい言葉も覚えてしまった。世の中の格差が進めば、どんどん治安が悪くなっていく。不満の吐け口は、弱者へと向けられていく。今までの日本は、格差が少なく治安がよいのが世界的にも自慢だった。それが崩れ始めてきている。

みつ子の生きづらさは他人事ではない。より良い社会を目指すには、我々一人ひとりが意識していかなければならない。小さなひとりが幸せになるには、社会を見ていく大きな視点が必要なのだろう。

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