『tick, tick… BOOM! 』 焦ってする仕事の出来栄えは?
毎年2月になると、アメリカのアカデミー賞の話が気になる。エンターテイメント大国のアメリカでは、今どんな映画が注目されているのか。よく日本は、世界でいちばん最後に、海外配給作品が公開される。なんでもそも作品がある程度評価を受けてからでないと、宣伝方法が見つからないとのこと。作品の評価が世界中で固まってからの公開。観客も肩書きのない作品には触手が伸びない。同調圧力で、常に他人の評価を気にするお国柄が出ている。
アンドリュー・ガーフィールド主演のミュージカル映画『tick, tick… BOOM! : チック、チック…ブーン!』も、アカデミー賞の候補に上がっていた。いつも遠目で様子を伺っていたアカデミー賞候補作品群。「世界では今こんな映画があるんだ。いつか日本で公開されたら観てみようかな」という切ない思いは今年はしなかった。『tick, tick… BOOM! 』は、Netflixオリジナル作品。Netflixに加入していれば、ボタンひとつで鑑賞可能な作品。いい時代になりました。
映画は実在したミュージカル作家ジョナサン・ラーソンの、自伝的ミュージカルの映画版。ラーソンはロングラン・ミュージカル『RENT』の作者。『RENT』自体が未見でも「52万5,600分がなんちゃら」と歌う『Seasons of love』は聴いたことがある。いい曲だなと思っていた。今回『tick, tick… BOOM! 』を観たのをきっかけに、映画版『RENT』も観てみた。クリス・コロンバスが監督してた。映画版『RENT』は、原作ミュージカルの初演から約10年後の2005年の作品。『tick, tick… BOOM! 』と同じテーマを扱った姉妹編的作品。
『tick, tick… BOOM! 』で描かれている社会問題は、この数年間で大きく前進した。LGBTQ問題や不治の病だったAIDS、やりがい搾取のエンターテイメント界など、SNSの進歩で多様な声が、日々社会を変えてきている。『tick, tick… BOOM! 』は、過去の社会情勢を描いた実録ものに感じるが、映画の『RENT』の頃は、リアルタイムのマイノリティの叫び。作者の熱量とは裏腹に、観客には「そんな苦労してる人たちもいるのね」と、どこか他人事でファンタジックな印象まで受けてしまう。
芸術家として大成したい若者たちが、ニューヨークへ集ってくる。ただ彼らが目指す夢は壮大すぎて、ひと握りの者しか掴むことができない。芸術的に最高に熱い街に住むことは、最高に高い家賃(RENT)を払っていかなければならないこと。作品づくりやオーディションに追われ、アルバイトであぶく銭を稼ぎながら息継ぎの生活。無名の彼ら彼女らが、貧困のなかで夢に挑戦し続ける。すでに物理的・金銭的な限界が見えている。夢にしがみ続けるか、それともどこかで妥協するか。
主人公ジョナサン・ラーソンは、迷うことなく前者を選ぶ。本人からしてみれば、何か展望が見えていたのかもしれないが、第三者からは狂気にしか見えない。その狂気の作家の世界を、ミュージカル演出でオブラートに包んで演出している。
ジョナサン・ラーソンを演じるアンドリュー・ガーフィールドは、信念を貫き通す頑固者の役が多い。カリスマ性のある人には、多くの人々が集まってくる。でも、たいて本人はその影響力に自覚がない。自分の一挙手一投足に周囲が翻弄されているのに、「リアクションが薄い。もっと熱くなれ」と迫ってくる。遠目で見ている分には興味深い人だが、身近にいたら困ってしまう。
ラーソンは30歳までに成功することを自身の枷にする。己を追い込むことは必要だが、度が過ぎると身を滅ぼす。映画の冒頭では、すでにラーソンは亡くなっていることを観客は知らされる。なんでも『RENT』の上演直前に心不全で亡くなったとか。映画を観ていけば、この太く短い人生に納得する。ものすごいストレス負荷を自身にかけている。命を賭けたからこその『RENT』の成功。しかし皮肉にもその暁を本人は見ることはなかった。夢に殉ずるか、生ける屍として生きるか? 果たしてその中間を選んでいく人生はなかったのか?
日常の仕事でも、タイトなスケジュールでキツくなることはよくある。強引な仕事の計画をすると、たいていはうまくいかない。納得のいく丁寧な仕事ができなかったり、体調を崩したりするものだ。判断力も鈍り、今本当にやるべきことの優先順位も決められなくなってしまう。劇中でもラーソンは恋人からの進路の相談にも耳を貸せないし、AIDSで倒れた友人を見舞いに行くことすら出来ずにいる。悶々と進まぬ創作に思いを巡らせるだけで、一向に進展しない。そのくせ泳ぎに行く時間だけは確保している。それだけは譲れない彼の習慣らしい。強いこだわりを感じる。
自分も水泳は好きだ。ひと泳ぎすると、肩こりや腰痛、ふくらはぎのむくみが緩和される。マッサージに行くよりも効果的なので、自分の体に合った運動なのだろう。だから無理をしてでも水泳に執着するラーソンの狂気に、あながち共感しないわけではない。
本編ではまったく触れていないが、映画の中でラーソンが作っている作品『スーパービア』は、ジョージ・オーウェルの『1984年』をモチーフにしているらしい。なんとも堅物そうな作品選び。『1984年』は、管理社会が進みすぎたディストピア社会を描いたSF小説。暗く重い社会風刺作品。鬱屈とした自身の思いをぶつけている。知的だけど破滅的。そりゃあ具合も悪くなる。
社会を告発する壮大なSF作品を作りたかった人が、それを創作するために苦労する。その苦労と、そこで出会った仲間たちを描いた半自伝的作品『RENT』で評価されるという不思議。本来は別の作品で評価されたかったが、身近なことを描いたら受け入れられた。ラーソンが創作に着手して、初めて『RENT』の構想が生まれてくるというパラドックス。
多くの若者が芸術家になりたくて、多くの犠牲を払ってその道を選ぶ。その理想とは遠い過酷な現実。激しい性格の芸術家たちは、行動も激しいだろうから、AIDSなどに真っ先に罹ってしまう。不幸な人はどうして不幸が続くのだろう。日々のちょっとした行動の判断が道を隔てる。もしかしたら、つまらないほど何もない人生の方が、幸せな人生なのかもしれない。
韓国の精神科医ユン・ホンギュン著のベストセラー『どうかご自愛ください』という本に、なるほどと思うことが書いてあった。現代は、どうやって失われた自尊感情を見つけていくかの時代。「夢」と「仕事」と「職場」を一緒くたに叶うことが、とかく成功と思えてしまう。それでは焦ってしまってとても生きづらい。いつまでたっても自分はダメな人間だと、達成感が得られない。「夢」と「仕事」と「職場」は、別々に捉えて考えたほうがいい。この3つは近しいけれど別のもの。それぞれに大事に捉えて、それぞれに温めていればいい。割り切ることで、俄然生きやすくなる。
ラーソンのような破滅的な生き方は、カッコいいし伝説にもなる。ただ、本人はそれで本当に良かったのだろうか? 英雄になる人は常に孤独だ。『RENT』の賞賛も受けたかっただろうし、次回作も作りたかっただろう。彼が目指したスタートラインに立つ手前で、彼の力は尽きてしまった。その自身に追い込んだストレスを想像すると恐ろしい。そして残された周りの人たちも、たまったものではない。
映画は一応美談としてまとめなくてはならない。でもやはり映画鑑賞後に残るのは、大いなるやるせなさ。若かりし日、自分もラーソンと似たような夢を抱いた。彼の功績と比べたら恐れ多いけど、ラーソンの人生観が他人事には思えない。精神と心身の限界はある。人生の寂しさを思わせる映画だった。まあ、表現者になりたかった自分の夢は、夢として今も温めていればいいのだろうけれど。
tick, tick… BOOM! (Soundtrack from the Netflix Film)
どうかご自愛ください 精神科医が教える「自尊感情」回復レッスン
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