『ドライブ・マイ・カー』 綺麗な精神疾患
映画『ドライブ・マイ・カー』が、カンヌ国際映画祭やアカデミー賞で評価されているニュースは興味深かった。海外でもファンの多い村上春樹さんの短編小説を、180分に及ぶ長尺作品に膨らました映画化。劇場で鑑賞するには少しヘビー。素直に配信開始を待つことにした。
日本のメディアで映画の作品受賞が話題になる。近年、海外で評価された邦人の情報紹介は、何某かの賞を獲ったことだけに終止している。どんな賞をどのような仕事で評価されたのか。その賞自体はそもそもどんなものなのか。他の受賞作品の紹介や、選出の傾向、社会情勢はどんなものか。報道べき内容、視聴者が知りたい知識はたくさんある。一時期ノーベル賞の時期になるたび、村上春樹さんの文学賞の話題ばかりになっていた。面白おかしくそれを話題にするメディアは、果たして村上作品を読んでいるのだろうか? そもそもどんな作風なのか知っているのだろうか、不信感を抱いてしまう。
ニュースやワイドショーで作品が紹介されると、普段映画を観ない客層も動き出す。リアル書店の店頭にまでこの映画『ドライブ・マイ・カー』のDVDが売られている。なんだか違和感を覚えていた。日本のメジャー映画ならまだしも、インデペンド系で制作されたこの映画。テレビで作品を知ったお客さんが、この映画を観てどう感じるのだろう。いらぬ心配をしてしまう。話題作になった映画の上映館で、退屈そうにしている観客の姿を多くみかけることがある。「失敗した、こんな訳の分からない映画だとは思わなかった!」観客たちの声無き声が聞こえてくる。
メディアのニュースで、サブカルチャー情報が紹介される頃には、すでにそのブームは廃れ始めている。その媒体にハマったファンからしてみれば、「何で今更」といったところ。特にテレビのニュースは、ものごとがすっかり定着したのちに取り扱われるもの。もうニュース(NEWS)ではなくOLDSと言ってもいい。だから、その作品が話題になる頃は、真の客層はもう劇場にはいない。新しいものに触れようとするよりは、話題に乗るために集まった観客たち。映画を純粋に楽しみたい自分こそがアウェイになりかねない。映画の鑑賞状況は、とても重要。
村上春樹さんの小説は、世界的に評価され、新作発表ごとに社会現象が起こる。でも正直、自分はその魅力がわからない。自分が村上作品を読んでると、鬱のような気分になり、凹む。心に澱のようなものがのしかかってくる。読みやすいキレイな文章で書かれているので、なんとなく読めてしまうけれど、読後の倦怠感は否めない。読みやすいけど、気づけばページをめくる手は重くなる。長編だと途中挫折してしまう。自分にとっては鬱発生装置と言ってもいい。
村上春樹の世界観。現代のジェンダーフリーが叫ばれる世の中に逆行するかのような完全ヘテロセクシャル世界。ガッツリ男女の恋愛しかない。恋愛というよりももっと物質的で、性的なもの。売春もカッコいいみたいな価値観。どんなに短い作品でも、必ず性描写がある。登場人物たちはもれなく精神疾患を抱えている。性依存症はその現れ。
ある意味、口を開けば猥談しか出てこない、昭和おじさんの話を聞かされているような感じ。村上作品の登場人物たちは、みな経済的に恵まれていて、生活の不安は微塵もない。ギミックの描写が細かく物質主義。舞台になっている時代背景は、現代と謳っていてもせいぜい80年代。金持ちの贅沢な悩みごと。貧しい2020年代に生きる身としては、他人事でファンタジー。自分には感情移入できる部分がなさすぎる。セリフのひとつひとつまでハナについてくるのだから、もうホンモノ。でもなにかそこに大きな意味がありそうでもある。
映画『ドライブ・マイ・カー』をスマホで観ていた。R指定のこの映画。これは公の場で観れるような映画ではないと、すぐ再生ボタンを停止した。映画版は原作の短編小説が収められている『女のいない男たち』の他の作品からの引用もある。性描写にまつわる表現は、小説の持つ印象そのまま。しかし『女のいない男たち』というタイトル、ヘミングウェイからあやかったらしいが、そこはかとなく気色悪い。けれど途中で映画をやめる気にはならなかった。毒気の強い作品への好奇心。
濱口竜介監督のこの映画は、原作短編小説を入り口にして、登場人物たちの心の闇にゆっくりフォーカスしていく。小説の文章で読んでいると、主観的な視点になりがちなので、登場人物たちの心の病が正当化されてしまう。映像表現だと第三者的視点になってくる。登場人物たちの生きづらさが可視化されやすくなる。
村上春樹作品のスノビッシュな表現は、その題材が孕んでいる病理性を正当化させるもの。かつて村上春樹さんの言葉で、「自分は文章を書くことで鬱を克服している。もし小説家になっていなかったら、いまごろどうなっていたかわからない」という類のものがあった。経済的な日常のストレスからかけ離れ、モノやセックスのことばかりが悩みの人生。フィクションで心の澱を吐き出して浄化していく。現実味のない世界観だけれど、彼の書く文章で救われる人も少なくない。ただ、精神疾患がファッションとしてカッコいいものと勘違いされてしまう危険性もある。
映画の中で、原作には出てこない韓国人夫婦が登場する。とても可愛らしい夫婦。従来の村上作品に出てくる、ささくれだった登場人物像とは一線を画している。この韓国人夫婦とその愛犬の登場で、映画の緊張感が一瞬緩んでいく。もしかしたらこの夫婦が築いている家庭的な雰囲気こそが、本来の村上春樹作品の目指すところなのではないかと思えてきた。人間関係が殺伐としている村上作品。誰もが心が病んで、自分のことだけで精一杯。人間関係が築けないから、身体の関係だけに執着してしまう。この乾いた世界から抜け出したい。
心の病を治癒していくには、今抱えているすべての悩みを吐き出していくことから始めていく。自分の問題を受け入れて、涙が出たら治る見込みはありそう。そして最後には、今まで自分を苦しめてきた過去と対峙して、受け入れていく。とても苦難の道のり。自らの精神疾患を嘯いて、鬱もファッションと自分を騙していても、自体はどんどん悪化していくだけ。早いとこ自分の病を認めて、治療に専念した方がいい。そんな村上春樹の病からの脱出を、この映画はロードムービーの形を借りて描いている。映画で観る精神疾患の治療。村上春樹作品の舞台となる80年代とは違って、今では鬱病はカッコいいものでも珍しい病気でもなくなった。鬱病になれば、なにもできなくなってしまう。第三者から見れば、その人が病を患っているように見えないからこそ、この病は厄介だ。
タイトルにある『ドライブ・マイ・カー』にあるドライバー・みさきの存在が興味深い。小柄な若い女性のイメージを覆す。彼女はいつも人と距離をとり、職人のおじさんのような気難しい雰囲気を醸し出している。性的アピール全開の、村上作品のステレオタイプな女性像とはまったく違う。この無愛想な人物に、観客は興味を抱かずにはいられない。
ラストシーンのスーパーマーケット。みさきは日用品を買い溜めしている。みさきをはじめ、買い物客はみなマスクを着けている。コロナ禍の現代なのが窺える。ふと聞こえてくる言語が韓国語。そして彼女がドライバーをしていたときに褒めていた車・サーブに乗り込む。車中には韓国人夫婦が飼っていた愛犬が待っている。みさきは、犬と遊んでいるときだけ、優しい顔をしていた。もしかしてみさきは、すべてを手に入れている? 回復ってすごい。観客それぞれの解釈に委ねたラストシーン。自分は希望のエンディングだと解釈している。原作のもつ病的な部分に注目して、その治療をロードムービーの表現で表現してみる試み。自己憐憫を、独りよがりに酔いしれてはいけない。映画の『ドライブ・マイ・カー』、そこには村上春樹作品の持つ読後の倦怠感は存在しなかった。
ドライブ・マイ・カー インターナショナル版 Prime Video
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