『イニシェリン島の精霊』 人間関係の適切な距離感とは?
『イニシェリン島の精霊』という映画が、自分のSNSで話題になっていた。中年男性の友人同士、突如片方から一方的に絶縁宣言されてしまうという話。果たしてそれだけで映画になるのか。そんな地味なテーマで面白いのか。不思議な印象を予告編から受ける。しかもこの映画、ゴールデングローブ賞やアカデミー賞を賑わせた。『イニシェリン島の精霊』という作品のタイトルも、ファンタジーのようでさっぱり意味がわからない。監督は『スリー・ビルボード』のマーティン・マクドナー。なんだか怖そうでもある。
「映画は映画館で観て、初めて観たことになる!」みたいな持論があった自分も、コロナ禍以降からすっかり劇場への足も遠のいてしまった。劇場公開映画もすぐに配信されてしまう現代。高額なチケットを買って、わざわざ映画館へ出向くまでのモチベーションもなくなってしまった。案の定、この映画も劇場公開から2ヶ月で配信となった。もしかしたら映画館で映画を観ない映画ファンが急増しているのかもしれない。劇場まで行く時間があるのなら、配信で一本でも多く映画を観た方がいい。そう考える映画ファンも少なくないだろう。映画配給会社も、早々に劇場から作品を下ろして、配信にシフトチェンジした方が儲かるシステムができてきているのかもしれない。「映画は映画館で……」という考え方は、すっかり懐古主義になってしまった。
映画『イニシェリン島の精霊』の舞台背景は100年前のアイルランド。孤島のイニシェリンから海を隔てた本土では、激しい内戦が行われている。イニシェリン島は、自然に囲まれた田舎の風景。舞台となった時代からしても、遅れた文化地域だろう。映画の冒頭、そのアイルランドの孤島を1人の中年男性が歩いている。コリン・ファレル演じるパードリック。歩いているだけなのに、けして悪人ではないけれどダメなヤツなのがわかる。コリン・ファレルのコメディセンスの高さよ。
そのパードリックが毎日の日課として、友人コルムをパブに誘いにくる。「コ〜ル〜ム〜く〜ん、一緒に遊びに行こ〜」家の前で絶叫する小学生のよう。そんなパードリックにコルムは冷たく絶縁宣言を伝える。困惑するパードリック。気の毒だけど笑えてしまう。コリン・ファレル、うますぎる!
この映画は、狭いコミュニティでの人間関係のあり方を示唆している。密になり過ぎた人間関係は、居心地もいいところもあるけれど、大いなる煩わしさも抱えている。おそらくパードリックは、少年時代から数十年、何ひとつ変わらぬルーティーンで生活をしてきたのだろう。何も冒険せず、人生の選択もせず、そのまま年齢だけ重ねてきた。飼育仕事以外、家事なんてひとつもできそうにない。同居している妹にぜんぶ任せきり。パードリックはそれでも人生なんてそんなものだと信じて生きてきた。精神年齢は少年時代のまま。大人になる必要もなくおじさんになる。側から見るとなんとも忘れ物の多い人生。でもある意味その狭い視野のまま、何事もなく一生を終えられるのなら、それもそれでそのお花畑にも羨ましさがある。まさに悩みのない人生。
この映画では、読書をする人かそうでない人かで、人生観に雲泥の差が生じることを語っている。ネットもテレビもない時代。自分から求めなければ、文化的な要素を得ることは一生ない。半日働いて、残りの時間はパブで身近な話をすることに終始する。それはそれで贅沢な人生の過ごし方。人生は大いなる暇つぶしを実践している。ただ、考える人はそれでは退屈すぎて息苦しい。
パードリックに絶縁宣言を放ったコルムは、音楽を目指したい。やりたいことがあると、人生は急に密度が濃くなる。「人生は暇つぶし」のパードリックとは、人生観がまったくマッチングしない。むしろいつもまとわりついてくるパードリックが鬱陶しくなってくる。
人間関係は、最初の出会い方に失敗するとなかなか軌道修正できない。年齢が近いとか趣味が近い、同郷出身だったからとか、表面的な共通性で意気投合したと錯覚して、判断を誤ることもある。人付き合いは慎重に選ばなくては、のちのち自分の人生にも悪影響を及ぼしてくる。場合によっては、ひとりで生きていた方がよっぽど良かったなんてこともある。この映画では、タイプの違う人同士が友人関係になってやりづらくなり、途中でそれに気づいて軌道修正しようとして失敗していく姿を描いている。
コルムやパードリックの妹は読書家。自分の生活圏の外にも視野が伸びている。きっとパードリックは、いままでの人生で本など読んだこともないのかもしれない。本を読む人と、読まない人では、世界の見え方がまるで違うだろう。でも本が及ぼす悪影響も考えておかなければ、それもまた失敗につながってしまう。どんなに読書が好きでも、同じ類の書物ばかり読んでいたら、かえって視野が狭くなってしまう。現代のネット社会なら、尚のことその悪影響を受けやすい。エコーチェンバーのように、自分にとって心地のいい情報だけに溺れてしまい、世界の考え方の中心がひとつしかなくなってしまう。それはそれで恐ろしいこと。多様性の現代では、死活問題にもなりかねない。
この映画の面白いところは、過去の時代設定にも関わらず、現代社会を風刺しているところ。グローバル化した現代だって、結局のところ小さなコミュニティの集合体。学校や会社、家庭やSNS、今も人は小さなコミュニティの中での人間関係の悩みに苦しみ続ける。
小さなコミュニティの人間関係で悩むのは、時代や国境を越えた大問題。「あなたとわたし」のような小さな世界観の話なので、とかく小さな問題と見積もりかねない。だけど、小さな問題に思えてしまうのは、第三者からの視点に過ぎないことを忘れてはならない。当事者からしてみれば、目の前の人間関係は世界を揺るがす大問題。この小さな大問題を見過ごすと、巡り巡って世界大戦にもなりかねない。映画『イニシェリン島の精霊』は、笑えるところからスタートして、笑えない結末へと向かっていく。
拗らせてしまった人間関係は、修復に尽力するよりは早々に離脱した方が身のためだ。本を読むことで、人は自分以外の他人の人生を追体験することができる。本を読まないパードリックにとっては、コルムとつるむことが世界のすべて。他のパターンが想像できない。もうダメになってしまったものでも、それに縋るしかない。第三者から見たらその執拗な態度は、幼稚なものでしかない。
コルムもコルムで大失敗している。パードリックが如何に鬱陶しい存在だとしても、ある日突然別離の宣言を叫んだら、波紋が起こるのは当然のこと。本気で人間関係をリセットしたいなら、上手に自分のやりたいことを説明して、時間をかけて離れていくのがいい。でもこれも当事者ならば、この煩わしい人間関係を一刻も早くどうにかしたいと焦るもの。コルムも追い詰められている。ただ、もしコルムが知的に人間関係を清算できていたならば、この映画は成立しない。なんともパラドックス。
いっそすべてを捨てて引っ越してしまうのもいい。誰も知らない土地でゼロから人間関係を再構築していく。この映画で起こる騒動に比べたら、穏便な解決策。それを選んだのはパードリックの妹。彼女は本土に移って職に就く。妹はイニシェリン島の生活より、本土の生活の方がいいとパードリックを誘う。でもそれもまたリスキーな選択。本土は内戦中。果たして妹の言うことを字義どおりに受け止めていいものだろうか。まあ、そもそもパードリックは、いままでの生活を変えようなんて微塵も考えていない。
選択を迫られることは、長い人生の中で何度かある。学校を選ぶ、仕事を選ぶ、パートナーを選ぶ、住む場所を選ぶ……。パードリックはこれまでの人生で、何も選ばずにやり過ごしてきた。このまま何も選ばずに人生を終えることもできた。避けて避けて、何も選ばない人生を選んできた。積極的な消極性。それでも不本意ながら、選ばなければならない帰路にぶつかってしまった。
現代社会は、自分の本音はSNSでしか言えない人が多くなってきた。SNSも上手に使えばストレス解消。現実生活も円滑にもできる。どっぷりハマり過ぎると、もしそこが失敗したら、人生詰んだと感じてしまう。ならば孤高と人となり、引き篭もればいいというものでもない。人間関係は悩みの種でもあるけれど、人は人間関係がなければ生きてはいけない。適切な人間関係の距離感。そのセンスの重要性がこの映画のテーマ。
人はどこかのコミュニティに属して身を守る。孤立は厳禁。でもひとつのコミュニティに深入りしてしまうと、いつかどこかでそれが破綻したとき、取り返しがつかなくなる。コミュニティには複数属して生きることが、現代社会の生きやすさに繋がるとも聞く。狭く深い人間関係ではなく、広く浅く多くの居場所を作っておく。その場その場で微妙に価値観が違えば尚のこといい。客観的な視点が自分の中に構築されていく。あっちではこう言うが、こっちでは違っていてもいい。居心地のいい居場所の幾つかが、真逆の意見を持ったときこそ自分の真価が試される。そこで自分で考える力がついているかどうか。自分のための自分だけの意見を持つ。それが知性というもの。みんな違くてみんないい。
『イニシェリン島の精霊』は、反面教師の姿を描いて私たちを笑わせながら凍らせる。観客の我々は、一刻も早くこの泥沼な人間関係から離脱したい。映画が完結してホッとする。でもまだパードリックとコルムの確執は収まりそうにない。彼らの大いなる失敗例に、観客の我々は身を引き締めなければならない。明日も迎える現実世界の人間関係の戦いに、どう冷静に立ち向かっていくかと。
映画を観て、ひととき現実逃避ができたかと思いきや、最後には強引に現実につき返される感じのする映画。夢から叩き起こされたみたいでゾッとする。
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