『赤毛のアン』アーティストの弊害
アニメ監督の高畑勲監督が先日亡くなられた。紹介されるフィルモグラフィは、スタジオジブリのものが多かったが、日本アニメーション時代の『世界名作劇場』シリーズも彼の代表作。初期の作品は、自分も幼少期にリアルタイムで観ていた。日曜日の夜7時半、フジテレビでの放送を毎週楽しみにしていたものだ。
『世界名作劇場』のいくつもある作品の中で、なぜか『赤毛のアン』が無性に観たくなった。2017年は『赤毛のアン』のリメイク映画が公開されたり、Netflixでは『アンという名の少女』というタイトルでドラマシリーズになっていたりで、ちょっとした『赤毛のアン』イヤーだったようだ。
『世界名作劇場』は、原作に忠実ということで定評のあるシリーズ。活字離れした子どもからすると、アニメでじっくり一年かけて名作を紹介してもらえるのはありがたい。原作モノの映像化は、そのオリジナル作品を知ってもらうきっかけにして欲しいという、リスペクトからなるのが望ましい。話題づくりのために安易にネームバリューにすがった作品選びでは、おもしろくなりようがない。果たして当時の制作スタッフのおじさんたちは、どこまでアンの心情を理解していたのだろう。高畑監督の当時のインタビューを読むと、「わからないからこそ、原作に忠実に映像化した」と語っている。『赤毛のアン』は会話のおもしろさが最大の魅力だと。
舞台は100年前のカナダ。アンは孤児の少女。プリンスエドワード島のグリーンゲイブルズで暮らすマシューとマリラという独身老兄妹の家に、養女としてもらわれるところから物語が始まる。未婚の老兄弟姉妹の同居は、これからの日本にも多くなりそうだ。アニメ放送当時、小学校低学年だった自分には、この家族構成が理解できず、すっかりマシューとマリラは、子どものない老夫婦だと勘違いしていた。
高齢のマシューの日々の野良仕事に男手の助手が欲しいと、孤児院に男の子を要望したところ、手違いで女の子のアンが彼らの元へ届けられてしまう。最初から一悶着で、物語に惹きつけられる。
アンは想像力豊かな少女。何気ない感動を大げさに表現する。周りの人たちは彼女に呆れもするが、好意を抱く者もできてくる。マシューとマリラも、アンのなんとも言えない魅力に、徐々に味方となっていく。
一世紀近く世界中に読み継がれてきた『赤毛のアン』。今でこそ児童文学となっているが、大人が読んでも充分すぎるほどおもしろい。果たして読者たちは、この作品のどんなところに魅力を感じたのだろう。
いく先々でトラブルを起こすアンに、ヒヤヒヤさせられっぱなし。思ったことをなんでも口にしてしまい、意に反するとすぐカーッとなってキレてしまう。「女の子はおとなしくするべき」と抑え込まれてきた少女たちが、そんなアンにカタルシスを感じたのだろうか?
アンの両親は、彼女が生まれて間もなくに亡くなっている。二人とも教師で、二人とも鬱病を煩わせて死んでいる。アンも将来教師になっていく。『赤毛のアン』は原作者の自伝的な作品。作者のモンゴメリも鬱病で亡くなっている。
アンは精神疾患持ちなのは、現代からみるとはっきりわかる。事あるごとに一喜一憂して、やれ「なんて素晴らしいんでしょう!」とか「嗚呼、もう世界はお終いよ!」と、こんなに感情の振れ幅が大きくては、そりゃあ病気にもなるだろう。ガラスに写る自分の姿にケイティと名付け、イマジナリーフレンドを作って語りかけているのも、とても危うい。
想像力豊かで現実逃避をするアンの姿は、幼い頃から苦労し過ぎたことからの自己防衛だ。傷つきやすい繊細な心を守るため、空想に耽っていくのは立派な処世術。アンは読書家でもあるから、彼女のまわりの世界からインプットする情報はあり溢れている。彼女の生き方を手本に、生きづらさを感じる多くの少女たちが救われていったのかもしれない。
しかし人はインプットばかりだと、やはりまた病気になってしまう。オタクのままではいけない。モンゴメリは、半自伝的な『赤毛のアン』の執筆によるアウトプットで、自らも救われていったのだろう。
当時は精神疾患が何たるかなど、誰も考えなかった。個性的なアンの人生をワクワクしながら読んでいたに違いない。モンゴメリが自身を反映させたアン・シャーリーという人物を通して、精神疾患の症例を感情移入しやすいカタチで、わかりやすく克明に記録してくれている。
今でこそ、アンは心の病に苦しんでいたのだと、素人目にもわかるのだから、精神学はすっかり一般にも浸透した。幸せな人生を送りたいなら、気性の振れ幅は激しくない方がいい。カッとなっても、意識して深呼吸などをして、気持ちを落ち着かせてから行動に移した方が、ものごとはずっとうまくいく。
アニメを制作しているスタッフのほとんどが、のちにスタジオジブリのメンバーになっていく。このおじさんたちは、きっとアンの芸術家としての感性を、共感のよるべとしていたのではないだろうか。
アンは間違いなく芸術家タイプ。本来なら教師より、表現者になる方が向いている。英語で芸術家を意味するArtistと、自閉症患者を意味するAutistと、単語がそっくりなのも皮肉だ。
アンがグリーンゲイブルズの風景を「なんて美しいの!」と讃えていた。アニメの描写も叙情的だ。でもアニメは所詮人が描いた絵に過ぎない。実際のグリーンゲイブルズはいかがなものかしらと想像が膨らむ。現地ロケをした1985年映画版の『赤毛のアン』も、あらためて観たくなった。
プリンスエドワード島の風景は、思っていたほどではなく、美しいというよりは、ちょっと不気味でおどろおどろしかったりもする。カナダの気候がそうなのか、曇天の日も多そうだ。アンが最初に見た桜並木の場面も、アニメ版ではあんなにドラマチックだったのに、実写版ではあっさりしてる。
アニメ版スタッフのコメントに、アンがあんなに「美しい」と興奮するのだから、実際の風景よりも美しく描かなければと、盛って描いていたとのこと。ここでの描写は、実景を模写したものではなく、あくまでアンの心象風景の表れなのだ。この桜の場面は、我々日本人にしてみれば、ソメイヨシノの並木道を想像した方がイメージに近そうだ。アニメの現実逃避感は、ときとして実際の感覚を狂わせる。
破天荒なアンに根気強く里親マリラが、一般常識を教えて育てていく。自分は子どもの頃、厳しいマリラが怖かった。オンエア当時の自分の年齢よりも少し上になった娘に聞くと、「マリラはとても優しい。怖くなんかない」とのこと。娘の方が自分より、人を見る目がある。
自分も大人になり、マリラをひとりの親としてみると、とても彼女に関心してしまう。自分だったら、アンのような大仰な子が突然来たら、「あんたの喋ってることは面白いかもしらんが、やかましいのはかなわん」と、すぐ施設に追い返してしまいそう。
アニメ版は原作の1巻分なのでここで終わる。映画版はさらに教師になったアンや、オリジナルの展開になる結婚までのエピソードを綴っていく。
映画版はそうでもないが、アニメ版は鑑賞後になんだか不安な気持ちが残る。「可愛い子には旅をさせよ」とか、「若いうちの苦労は買ってでもしろ」のような考え方が、制作当時には当たり前だったからなのだろう。
現代に生きる我々は、苦労に飛び込むよりも、危険に早いうちに気づき、問題になる前に対処できるリスクヘッジ能力の方が問われている。たとえ危険に飛び込んでも、誰かしら助けてくれるような時代ではなくなった。現代は新しいサバイバル能力が求められている。
『赤毛のアン』は、楽しい寓話というよりむしろ、現実的な「幸せな人生を送ること」を考えさせられる作品だ。モンゴメリの作品の意図とは違ってしまうのかもしれないが、アン・シャーリーは、人生の手本というよりは、残念ながら反面教師として学ぶべき存在となっている。
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