『バービー』 それらはぜんぶホルモンのせい
グレタ・ガーウィグ監督の新作『バービー』は、バービー人形の媒体を使った社会風刺映画と聞いた。社会風刺が大好物の自分は、これはぜひとも観なくてはと期待した。『レディ・バード』や、古典『若草物語』の新解釈映画『ストーリー・オブ・マイライフ』(酷い邦題)で、グレタ・ガーウィッグ監督作品は自分の好みなのは分かっている。『バービー』は、先行公開した製作国アメリカでもヒットしているとのこと。日本にこの映画が来たら、いざ劇場に足を運ばんと勇んでいた。『バービー』の日本公開が始まると、あまり客足が伸びていないとネットニュースから聞こえてきた。近所のシネコンでは朝8時とか夜の9時とか、とても観ずらい時間帯に上映時間が追いやられている。自宅から1時間程度で行ける映画館は10件くらいもあるはずなのに、どこも似たような時間帯。もう映画館で『バービー』を観るなと言われているようだ。
そんな中、大手シネコンのTOHOシネマズが独占禁止法に引っかかるというニュースが報道された。グループ会社大元の東宝配給、製作作品を優先させ、他の中小配給会社に圧力をかける。逆に話題作は優先的に自社シネコンに回せと業界を
脅して触れ回る。映画配給の恐怖政治。そうなると作品自体が面白いかどうかは関係なく、力関係で上映回数が決まってしまう。印象操作やゴリ押しで、ヒット作が出来上がることになる。弱小配給会社や、マニアックな作品は淘汰される。我々観客のいちばんの被害は、作品の選択肢が少なくなってしまうこと。好みの映画が観づらくなる。もうシネマコンプレックスの、多種多様な上映作品を扱っているイメージは薄くなってしまった。
映画『バービー』が日本でイマイチだったのは、そんな映画業界のしがらみだけではないと思う。「日本人はバービー人形よりリカちゃん人形の方が馴染みがあるからヒットしなかった」という意見もあったが、それはちと違うと思う。映画『バービー』が、社会風刺の啓蒙映画として警戒した人が多いからだなのではと自分は睨んでいる。警戒とまで言わずとも、めんどくさい印象は否めない。
本国アメリカでは『バービー』の公開と、クリスファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』の公開が同時期に重なったため、『バーベンハイマー』というファンアートやコスプレの宣伝キャンペーンをした。『オッペンハイマー』はそのタイトルの通り、原爆の父オッペンハイマーの伝記映画。被爆国である日本からすると、どうしてもナーヴァスになってしまう。『バーベンハイマー』のファンアートでは、原爆の炎の中ではしゃいでいるバービーたちのビジュアルが散見された。おとなしい一般的な日本の映画ファンが、珍しくその現象に反意を語り始めた。配給のワーナー・ジャパンが謝罪した。グループ大元アメリカのワーナー社からのコメントはなかった。
アジア隣国に厳しい日本のネット民は、近隣国からの政治的発言だと、待ってましたと勇んで論争の炎が燃えてしまいがち。欧米のアジアンヘイトには、なぜか口をつぐんでしまう傾向に矛盾を感じていた。今回はアメリカ様に物申すネット民が多かった。現象としてとても興味深い。
実のところ世界では、原爆が平和の象徴として扱われることの方が多い。日本での戦争教育は被害者目線のものしかない。なぜ一般市民対象の原爆投下に至ったのか。なぜ日本人は、当時そこまで世界から憎まれていたのか。そこにも目を向けていく必要がある。とはいえ、街すべてを破壊してしまう被人道的な兵器の使用は、正しい行いとは言い難い。圧倒的な力の象徴であるキノコ雲の下で、人が焼かれているのだという世界的認識は薄い。被爆国の日本人としては、とても悲しくなってしまう。
アメリカではそんな原爆の恐ろしさや、放射能の危険性は、残念ながらあまり認知されていない。スーパーヒーローの多くは、放射能がスーパーパワーの源となっている。アイアンマンの胸が光っているのも、核融合による力の象徴。過去にアメリカは、核実験が行われている街に住む人たちに、あえて放射能の危険性を伝えなかった。そこの住人たちをそのまま住まわせてどうなるか様子を見ていたとのこと。国が自国民で人体実験をしているくらいだから、核兵器の恐ろしさが一般的に浸透しているとは到底思えない。アメリカ人にしてみれば、放射能はパワフルなものというイメージに刷新されているのだろう。
貧しくなった日本は、国際的な目を養っていかなければ生きていけなくなってきた。今後、原爆の脅威を知らない人と出会うこともあるだろう。そのとき、ただ感情的に相手を非難してしまいそう。気をつけないとそれも怖い。人は全知全能ではない。こちらにとっては常識であっても、他では無関心な事柄もある。そしてその逆も然り。双方の無知な部分を責め合っているようでは先に進めない。自分は今回の『バーベンハイマー』騒動で、キノコ雲についての世界との認識の違いについて、調べてみるきっかけになった。
日本人は社会風刺が苦手と、昔からよく言われている。でもきっとそんなことはない。多くの人が社会風刺を理解しているし、心の中では反応している。ただSNSなどを見ても分かるとおり、政治的なネタになると、どうしても激しく反応する人が目立ってしまう。なんだかめんどくさいし、怖いし、いつの間にか社会風刺についてコメントを避けたくなってしまう。風刺を笑うなんてもってのほか。社会風刺を面白がることが、極端な思想を持っているかのような誤解を招きかねない。トラブルを避けたい多くの人は、誤解されないように反応を控えていく。サイレント・マジョリティ誕生。それは空気を読んでいるのであって、社会風刺がわからないということではない。
SNSで入ってくる『バービー』の感想は、まじめなものが多い。なんだか気分を害している人もいる。はたして自分がこの映画を観たらどう感じるのか、確かめてみたくて仕方がなかった。劇場で観るのは諦めて、配信を待つことにした。そして満を持して、配信の再生ボタンを押してみると、上映中終始笑いっぱなしだった。サブカル近代史を通して、ジェンダー問題をおちょくりまくっている。サブカル好きの自分としては、この映画でおちょくられている部分が、自分にも当てはまっていたりしてヒリヒリもする。その痛みすら笑い。どれだけ己を笑えるか。度量を試される。
「如何に女性は生きづらいか」を入口にして、徐々に問題の間口が広がっていく。フェミニズムの意味は本来「考える女性」ととてもシンプル。慣例に疑問を感じるだけでもフェミニズムの始まり。フェミニズムが進歩することを恐れる男性が多い。男尊女卑や家父長制度が壊れることへの懸念。でも実際、男女の隔たりがなくなっていった方が、うまくいくことの方が多い。優秀な人がきちんと評価される社会は、男性だって生きやすい。男女が等しく評価される時代に脅威を覚える人は、そもそもが自分に自信がない。そんな人が重要ポジションに就いていることこそが問題。
映画の中で、男は「バカなフリをした女」に弱いとからかっている。男性は女性の前で「なんだ、そんなことも知らないのか」と、うんちくを語りだす。マンスプレイニング。女性がそれに付き合ってくれるのは、その方が都合が良かったり、話が早かったりするから。ちょっとくらいなら、バカなフリを演じてしまった方が、煩わしいことを回避できる。それは生きやすくするための処世術。でもそのエスカレートには要注意。
男性が人の上に立とうとする気持ちは、原始時代の感覚へと遡る。戦いに勝たなければ死んでしまうという遺伝子の名残り。女性が共感性を重視するのは、男が狩りで留守の間、協力し合いながらコミュニティを護ることで生存に繋がったから。それらに反すれば、すぐさま死んでしまう恐怖と緊張感。
文明が進んだ現代では、そういった戦うため、生き残るための遺伝子情報は、強すぎて障害にすらなる。今の社会では戦争でも起こらなければ、直接生死に関わるような緊張感も必要ない。人類の文明が進んでも、未だ闘争心のような原始的感覚が過敏に反応してしまう。心配ごとの9割は起こらないと言われている。それでも人は不安を抱く。遠い遺伝子の記憶の囁き。そこから余計なトラブルをひき起こす。現代文明は、人類にとってはまだオーバー・テクノロジーなのかもしれない。現代社会で、性別で仕事役割を区別するのはナンセンス。働き方に自由度が増え、得意なもので社会に貢献できる方が、世の中がより良くなっていくに決まっている。バービーを作るおもちゃ会社の重役が、全員白人のおじさんばかりなのは、笑えるようで笑えない。その重役のおじさんたちは、皆自分をフェミニストだと思っている。
もともとすべては、悪意からは始まっていない。バービー人形のバリエーションがさまざまなのは、「そんなバービー人形が欲しい」という要望に応えただけ。有色人種のバービーも、車椅子のバービーも、裁判官のバービーも、そのとき誰かが望んだバービー人形の現れ。でも、全身カメラで背中にモニターがあるバービーは、一体誰得のデザインなのか。謎も残る。望まれたら何でもカタチにしてみせる。ニーズに応えて儲けたい。悪意はなくとも無責任。
バービーにボーイフレンドが必要だって? ケンって名前はつけたけど、どんなパーソナリティにする? バービーが現実離れの美人像だから、ケンはやっぱりマッチョでしょ。カーボーイは男の象徴。ケンは当然、馬に乗る。仕事も成功していた方がいい。なにせ子どもたちの夢だから。
ケンが住む家のキットは、『Mojo Dojo Casa House』という。字幕スーパーでは『道場カサ・ハウス』と訳していた。『Casa』も日本語の『傘』みたいなので、日本の慣例社会をからかっているのかと深読みしてしまう。どうやらそれは邪推。この映画には批判的な敵意は存在しない。もちろん意地悪ではあるけれど。この映画の翻訳が、わざと昭和的に訳して遊んでいるのでときどき混乱する。「なぬっ!」なんて、今どき言わない新鮮な響き。
平和で便利な世の中になって、男女差を気にせずフラットに生きられるようになった現代社会。それでも越えられない男女の壁は、女性の身体が子孫を産むようにできていること。女性は1か月間、いつも体調が違うことから避けられない。男だから女だからと、メンタル面で区別するのは窮屈で無意味だけれど、身体能力の違いはどうしようもない。どうしても女性の方が、重荷を背負って暗くなってしまう。
これからの時代は、一人ひとりが、自分ができることとできないこと、得意なことと苦手なことを自己理解して、取り組んでいける社会を目指したい。多様性とはなにごとも許すことではなく、限られた能力の中で如何に工夫して、より良くするかにかかっている。
闘争心や身体不調は、現代社会では見落としがち。その原始時代からの本能と、現代社会を生き抜く知性とのバランス感覚を養わねばと思う。人類の心身は、未だ原始時代のまま進化していないのに、文明ばかりが先走りしてしまった。我々はまだ幼いのだと認識する。このオーバー・テクノロジー時代を乗りこなす距離感。本能と知性の均衡を図る。まだまだ課題の多い問題。
バービーの創始者ルース・ハンドラーが、マーゴット・ロビーのバービーに語りかける。「あなたを造ったのは、この世界があまりに辛かったから」と。現代社会では、推し活だって大事なメンタルケアのひとつ。人はときに何かに縋りたい。それがたとえ偶像崇拝だと始めからわかっていても。こうしてサブカルチャーは生まれてきた。「こんなもんだろう」と最初は手をつける。それはそのとき受けるかもしれない。でもすぐ廃れてしまう。時代の流れに敏感に対応していく柔軟性。常に時代の変化にアップデートしていく努力。それをしなければ衰退あるのみ。ときには為政者によってプロパガンダにも使われかねない。発信者の無責任の罪は重い。
サブカルチャーは、その時代を写す鏡。日本のメディアが避けてきたこの映画『バービー』と『オッペンハイマー』は、2024年の映画賞を騒がせるだろう。それも何かしらの意味がある。やはり日本の発信源は時流に遅れている。だからこの映画を笑える自分たちのセンスを誇りに持とう。グレタ・ガーウィッグ監督が提示した啓蒙に、素直に自己反省してみる。もちろん監督自身も、自分を笑っている。ダメダメなのはお互い様。人はやらかしながら、だんだん手練れになっていく。いつかは板についてくればいい。無様に踊らされても、踊ってみたからこそ学ぶものもある。無責任で生み出されたステレオタイプに固執してはいけない。考え方はさまざまと見つめ直して、これからも討論を続けていこう。過去に固執しない。勇気を出してアップデートしていく。それは、より良い優しい社会を目指すことになるから。
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