『男はつらいよ お帰り 寅さん』 渡世ばかりが悪いのか
パンデミック直前の2019年12月に、シリーズ50周年50作目にあたる『男はつらいよ』の新作が公開された。covid19の名前の通り、新型コロナは2019年から発生した。まさかこれほど大きな疫病に発展してしまうとは、その時想像すらしなかった。多くのSF作品で描かれてきたような、世界的混乱が未だに続いている。
『男はつらいよ』は、世界で最多シリーズ作品ということでギネスにも載っている。次に多いシリーズものが『007』。後者の『007』は、ある程度の本数が進むと、主人公のジェームズ・ボンド役の俳優が交代する。そこでスタッフ変更や作風のイメージチェンジが行われる。『007』は、同じシリーズものでも、その時々で雰囲気が異なる作風となっている。それに引き換え『男はつらいよ』は、ほとんどキャストも変わらず、監督も初期を除いてほぼ全作同じという快挙。自分が子どもの頃は、毎年盆と正月には『男はつらいよ』の新作が公開されていた。風物詩とはこのことだ。
実のところ自分は『男はつらいよ』はリアルタイムでは観ていない。15年くらい前にNHK BSで『男はつらいよ』の全作一挙放送された時、初めてちゃんと観ることとなる。『男はつらいよ』が全盛の頃は、自分は生まれてから10代までを送る頃。映画といえば洋画がいちばんカッコよかった。日本の下町の人情喜劇など、ダサくて嫌厭するのは当たり前。ここではないどこかへ行きたいお年頃。自分の世代でも『男はつらいよ』は、親世代か老人が観る映画だと思っていた。
映画学校やシナリオ作家養成学校へ通うと、必ず『男はつらいよ』を勧めてくる人に出会う。そこで「面白さがわからない人は、ちゃんと観たことがないからだ」と言われてしまう。そういえば観る前から食わず嫌いをしていた。ならばとシリーズ第一作目を観てみると、スピード感のある展開で、とてもおもしろかった。登場人物もわかりやすくて、すぐ物語の世界観に引きこまれる。なにより渥美清さんが演じる車寅次郎こと寅さんが楽しい。なるほど、これは世界でも評価されるわけだ。
自分はそれまでも山田洋次監督の他の作品は観ていた。若かりし頃は、自分も映画監督業に憧れて目指していた。山田洋次監督が題材として選ぶ、湿っぽく説教くさい雰囲気が苦手だった。80年代頃のスピルバーグ作品のような、エンターテイメントの王道作品の方が魅力的だった。でも自分がそんな大作に携われる筈もない。やがてジム・ジャームッシュやヴィム・ヴェンダースのなどのインディペンデント系アートシネマに出会う。スペクタクル場面がなくとも、低予算で面白い映画はつくれる。目から鱗。そんなインディペンデント系監督たちが、日本の小津安二郎監督からの影響を語る。その頃ポスト小津安二郎と呼ばれていたのが山田洋次監督。代表作の『男はつらいよ』を外して、山田洋次監督作品を観たことにはなるまい。まさに巡り巡って母国の作品に先祖返り。いつだって青い鳥はすぐそばにいる。
そしていま、なんとなく暗そうで避けていた『男はつらいよ』の新作『お帰り 寅さん』を観てみることにした。シリーズのいつものオープニングが始まってまず驚く。テーマ曲を歌うのが寅さんこと渥美清さんではなく、桑田佳祐さんのカバーバージョン。それよりなにより音が良い。最新作の音響はドルビーデジタルで制作されている。『男はつらいよ』といえば、シネマスコープでモノラル音声と決まっていた。シリーズ一作目頃の1960年代日本映画は、シネマスコープで制作されるのが主流だった。やがて1980年代になり、日本映画のほとんどがアメリカン・ビスタサイズのドルビーサラウンドになっていった。『男はつらいよ』は、時代のフォーマットに流されることなく、シネマスコープ&モノラルで通し続けていた。そういった意味でも、今回の『寅さん』は、今までの作品とはだいぶ違う。
『男はつらいよ』の特徴として、連続したシリーズものでありながら、どの作品から観ても違和感なく楽しめるようにつくられていること。それは制作者たちの演出の工夫の賜物。過去作の使い回しの回想場面がないのがいい。登場人物たちが昔話をしていても、それはあくまで世間話として話されている。その話題が過去作のものであっても、具体的に回想場面に展開していかないので、未見の観客がおいてけぼりにされない。過去にどんなことがあっても、この作品で描かれる「今」がいつも中心。過去作を知っている人は、「ああ、そんなこともあったね」と思い出すし、初見の人は「ああ、そんなことしちゃう人なのね」と人物紹介の効果になっている。それが今回の『おかえり 寅さん』は、回想場面のコラージュがメイン。総集編と新作エピソードの同時進行。これはこれで新しい試み。
今回の50作目は、寅さんの甥である満男が主人公。アラフィフになった満男が伯父さんの寅さんを思い出していく展開。満男を演じる吉岡秀隆さんは、自分と同世代。自分は吉岡秀隆さんと容姿がよく似ているとよく言われる。子役時代や若い頃は、なんとなく似ているところもなくはなかったが、どうやら今現在は違う歳の取り方をしたみたい。最近の吉岡秀隆さんと自分はあまり似ていない。実際の吉岡さんを学生時代に知っていた、中学生時代からの友人に言わせれば、あの頃も今もぜんぜん似ていないとのこと。スクリーンと現実の見え方の違いを認識する。
吉岡秀隆さんは情けない演技が上手い。吉岡さんが演じる役と、彼に似ている自分と同一人物のように周囲から見られるのが嫌だった。吉岡さんが演じる満男や、『北の国から』の純が重なる。ダサくて大人しいくせに波瀾万丈な大胆な人生。情緒の浮き沈みが激しすぎる。近年になって吉岡さんのインタビューで、当時演じる役と自分が同一視されるのが嫌だったと、同じようなことを言っていた。やっぱりね。
80年代頃の、大人が描く若者像というのが、まったく感情移入出来なかった。「最近の若者はわからない」という前提で、キャラクターづくりをしているのがわかる。若者なんてこんなものだろうと、型にはめ込んで人物像を形成する。そして感情移入できない異世界の人間が爆誕。今回の映画では、満男も初老に差し掛かってハイティーンの娘もいる。その子どもたちがまた、アンドロイドのような「絵に描いたような良い子」で違和感がある。昔の作家というか大人は、いつの時代になっても若者の気持ちはわかってくれないものなのだろう。
後藤久美子さん演じる泉は、世界平和を志す団体の仕事をしている。英語とフランス語を使い分ける知的な人。日本人が憧れる職業につくエリート。過去のシリーズを知っているとまた違和感。泉は、今風に言うなら「親ガチャ負け組」。悪環境で育った泉が、国際的エリートになるのは並大抵のことではない。そこでフィクションのコンプレックスを感じずにはいられない。
当時国民的美少女と言われたゴクミこと後藤久美子さん。今でも綺麗。吉岡秀隆さんと後藤久美子さんのツーショットには、現代劇なのに昭和感がする。最近のアジアの役者さんが、顔が小さくて長身になってきたせいだろう。スクリーンの向こう側の人間の体型の基準が、時代と共に変化している。思えば自分も長く生きてきた。
回想場面の寅さんが、とにかく楽しい。ただ、今の世の中から観てみると、単純に笑ってばかりもいられない。寅さんから受ける印象は、発達障害の人の生きづらさそのもの。寅さんが変わり者として、笑っていられる時代はもう終わった。社会に順応できない寅さんが苦しんでいる。元来の性格が明るいから、喜劇として保たれているだけ。でも生き方の工夫次第では、寅さんも真っ当で幸せな人生が送れたのではないかとも思えてくる。
『男はつらいよ』は、現代では通用しない。それは世知辛い世の中になったからだけではない。心理学や脳科学が進歩して、多様性が叫ばれる時代に急激に変化しているのが今。寅さんも苦労する特性を抱えながら生きている。なんとかしてあげたい。もしいま渥美清さん存命で、寅さんがいたならば、作品の表現方法が変化していただろう。この生きづらい世の中で、どうやって幸せな人生を目指していくか。喜劇の方向性は、別物となっていく。
寅さん不在の『男はつらいよ』。もう悲しいばかりで、暗い気持ちになってしまう。そうか『男はつらいよ』が喜劇映画たる所以は、渥美清さんあってのことだったのか。山田洋次監督自体は、悲観的な暗い作風の作家なのだろう。山田作品の特徴として、救いのない悲劇が圧倒的に多い。どよーんと落ち込む映画ばかり。悲劇作家と言ってもいい。山田洋次監督は、本当に暗い人なんだと感じさせる。
人は嫌いなものに詳しくなる。好きなものは当然頼まれなくとも詳しくなる。嫌いなものに詳しくなるというのは、一見矛盾しているように思える。でも嫌いなものから身を守るために、人はその嫌いなものを研究する。作家は基本的には人嫌い。満男はサラリーマンを辞めて、作家活動に専念し始める。なんだか吉岡秀隆さんが山崎貴監督の『ALWAYS』で演じた役にも被ってくる。この不景気な日本で、定職があるのにフリーランスになるんて自殺行為もいいところ。なんだか満男のキャラクターに現実味がない。村上春樹さんの小説に出てくるような、ファンタジックな病人のよう。
ただ満男は寅さんと違って、とてもしたたか。頼りないのに女性にモテる。あちこちの女性にちゃんと種を蒔いている。いつか、自分に好意的な女性の誰かとうまくいくだろう。寅さんは永遠にマドンナとの恋を夢見続けていた。寅さんが恋をしてフラれて去っていくというのが『男はつらいよ』の基本的なプロット。でも多くのマドンナの中には、寅さんと一緒になってもいいという女性もいた。そこで必ず寅さんは逃げてしまう。
寅さんは永遠の子ども。小学生のガキ大将の精神のまま。「子どもの教育に悪いでしょう」なんて、マドンナに言ってみせたりする。でもその言葉はどこかの受け売り。大人はこんなことを言うだろうと、言葉だけなぞっただけ。言葉の真意なんて理解してない。その上辺だけ繕って生きている寅さんが辛くもあり、滑稽でもある。自分のことで精一杯なのにおせっかい。そんな子どもおじさんが、家庭を持つなんて怖くてできやしない。
一緒にこの映画を観ていた小学生の我が子も、寅さんを観て笑っている。でも寅さんみたいな人が実際にいたら怖いとのこと。子どもからしてみれば、大人の男性はそれだけで怖い。自分勝手で、思い通りにならないとすぐ怒り出してしまうような大人なんて、恐怖でしかない。しかもシリーズ初期の頃の寅さんは結構暴力的。妹のさくらに手をあげたりしてる。おいちゃんじゃないけど、そんな寅さんなら「出てけっ‼︎」と言いたくもなる。
『男はつらいよ』の第1作製作当時は、所謂任侠映画、ヤクザもののブームだった。山田洋次監督のところにヤクザ映画の依頼がくる。とにかくヤクザが主人公ならいいということで、本来山田監督がやりたかった人情喜劇と任侠ものをハイブリッドしたのがこの映画。前進のテレビシリーズの『男はつらいよ』で、寅さんを最終回で死なせてしまったことのクレームに、リブートの形での再出発。だからこそ第1作目からして、渥美清さんの寅さんはすでに役が掴めている。油がのりきっている。シリーズも回を重ねていくうちに、だんだん寅さんの性格もマイルドになっていった。
浅丘ルリ子さん演じるリリーとの関係が興味深い。スイカを家族みんなで食べようと切ったはいいが、外出中の寅さんの分を切り忘れてしまう。そこへ運悪く寅さんが帰ってきて、自分の分のスイカがないことをネチネチ文句を言う。観客目線の第三者から観たら笑える場面。でも家族にそんな人がいたら、やっぱり大変。今回の映画ではカットされてしまったが、オリジナルのこの場面では、我慢していたリリーが寅さんに注意する。「寅さん、あんた、いつもお世話になってるおじさんおばさんに、本来ならあんたの方が差し入れ持ってこなくちゃいけないんじゃないの」って。観客も、「リリーさん、よくぞ言ってくれた」とカタルシスを覚える。でもやっぱり自己肯定感の低い寅さんには、その意味はわからない。
山田洋次監督は、渥美清さんが亡くなってシリーズ終了になったあと、「せめてリリーと最後は一緒にさせてあげればよかった」と言っていた。その答えも今回の映画では触れている。
死期を悟った寅さんは、またひとり旅に出かけて行く。まるで猫が自分の死に場所を探しに、誰もいない静かなところへ行ってしまうかのよう。去られた側からすると、ふらっといつか戻って来るんじゃないかと思ってしまう。
みんなに愛されていたのに、自信がなくてひとりで生きていこうとした寅さん。シリーズものの難点として、主人公の成長を観客が受け入れたくない心理も働く。でも自分は「成長」という言葉は嫌い。成長という言葉は、どこかの社会のルールに順応したことの意味で使われがち。別の言い方をすれば、「社会という茶番劇で、役柄を上手に掴んだね」ということにもなる。自分を出さない方が、自分らしく生きやすくなるという矛盾。白黒はっきりさせたい寅さんには辛い生き方なのかもしれない。
「自立」という言葉の意味が最近変わってきた。以前なら、為政者などが言う「自助努力」の意味だった。他人の手を煩わせず、自分のことは自分でなんとかしろと言う冷たいもの。要するに、上や周りから支援はしたくないということ。でも最近の「自立」は、自分の力でどれだけ多くの人や場所、施設に頼ることができるかに変わってきている。自分が困ったときに、頼るところがたくさんある。ひとつしか拠り所がないと、頼られた人の負担になってしまう。でも拠り所がたくさんあれば、あちこちでSOSを発する機会がある。むしろ居場所がたくさんあれば、あまり追い詰められることもなくなっていく。
寅さんのような人たらしは、今の世の中の方が生きやすかったかもしれない。そうなると喜劇にならないって? 多様性の生き方探しを明るいコメディにできないなら、それこそ感性が暗すぎる。寅さんが大勢の人に看取られていく姿も悪くない。個性的な人は孤独に死んでいくしかないのでは、それこそ世知辛い。観客の我々は、満男のしたたかさの中に希望を感じる。満男はけして意固地になることはない。みんなに愛されて、そのままそれに甘えている。きっとそれでいいのだと思う。
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