『ルックバック』 荒ぶるクリエーター職
自分はアニメの『チェンソーマン』が好きだ。ホラー映画がダメな自分ではあるが、たまたまSNSで話題になっていた『チェンソーマン』を何気なく観てしまったのがきっかけ。ストーリー自体は、過去のサブカル作品のコラージュみたいな感じ。ちょっと亜流な二次創作作品のよう。でもこのアニメの演出はすごい。どうしてここまで手間暇かけて、お金もかけて絵を動かしているのか不思議。テレビシリーズとは思えないハイクオリティ。力技で見せつけてくる迫力。牛尾憲輔さんのテクノの劇伴もめちゃくちゃカッコよかった。
その『チェンソーマン』の作者である藤本タツキさんの新しいアニメ化作品が『ルックバック』。原作者は同じでも、制作しているスタッフはまったく別のチーム。映画の予告編を観て、やはり今回も音楽が気になった。『ルックバック』の劇伴担当はharuka nakamuraさん。昨年、『ガウディとサグラダファミリア展』でのイメージソングを担当されていた方。
『ガウディとサグラダファミリア展』で、haruka nakamuraさんの音楽を聴いたとき、はじめは坂本美雨さんの曲かと思ってしまった。すぐさまShazamで楽曲チェック。曲名は『CURTAIN CALL』。それがharuka nakamuraさんとの出会いだった。NHKでガウディの番組が放送されたとき、この『CURTAIN CALL』がテーマ曲だったとか。今回の『ガウディ展』のために、日本がガウディ財団に向けてつくったプロモーションビデオにこの曲がそのまま使われていたらしい。ガウディ財団の人がこの曲を気に入って、このまま今回もこの曲を使って欲しいとの要望での抜擢らしい。
haruka nakamuraさんは坂本美雨さんともコラボしていた。あながち自分の耳も間違ってはいなかった。大ファンの坂本龍一さんの曲『aqua』のオリジナル曲である『in aquascape』を、haruka nakamuraさんと坂本美雨さんで演奏している映像があった。やっぱり繋がってた。
映画『ルックバック』の予告編の映像だけで、泣きそうになってしまって、すっかりお腹いっぱい。映画館へ観に行こうと思っていた。公開直前に入ってきた情報では、上映時間は1時間に満たないとのこと。これは特別料金で安いチケット代に設定されるのではないかと予想していたら、まったくその逆。1700円均一で、いっさいの割引対象から除外されるという、イベント上映と同じ扱い。なんとも強気。この高額料金設定にSNSでも不満の声が上がっていた。自分も普段劇場で映画を観るときは、割引制度を駆使して、少しでも安くすることを心がけている。もう『ルックバック』を映画館で観ることは諦めかけた。
いざ公開日を迎えたら、SNSでは絶賛の嵐。配信まで待とうと思っていた決心が揺らいだ。公開日から先着でもらえる原作マンガのネーム本も気になる。先着入場者特典に釣られて、大急ぎで予定変更した。こうして1700円を散財する覚悟を決めた。
こうなると、今回の高額料金設定すらも話題づくりの一環だと思えてくる。配給側は作品に自信がある。この不景気な世の中でこの料金設定では、鑑賞を諦めざるを得ない人も出てくる。当然、ネットで不満が上がる。そのあとで、鑑賞した人からの感動の声が上がれば、またさらに話題となる。実際『ルックバック』は、上映初動の興行収入一位となる。動員数一位ではなく、あくまで収入一位。観客1人単価が高いが故の功績。なんだか手の内で踊らされてしまった。
劇場へ入ってみるとほぼ満席状態。ここまでお客さんが入っている映画館は久しぶり。なんだかイヤな予感がする。映画が始まってみると、ザワザワと落ち着きのない観客が散見する。映画が静かなため、余計ノイズが気になる。「この場面でストロー、音立てて飲むの?」と、なかなかの猛者もいる。どうやら多動の気がある人が多いらしい。アニメ映画を観るとき、自分はたいてい不快な思いをする。そのことを忘れていた。
『ルックバック』のような、しっとりとした映画は、静かな環境で作品と向き合いたい。落ち着きのない満員の劇場にはそぐわない内容の映画ではある。映画で商売をしている人には申し訳ないが、『ルックバック』のような映画は、ヘッドホンとタブレットで鑑賞した方が向いている。今回は映画に集中できなかったので、次にこの映画を観るときは、鑑賞環境に気をつけたいと思う。
そういえば自分や自分の家族は、映画などを鑑賞するとき、気配が無くなるほど集中してしまっている。これはこっちが変わっているだけで、世の人の映画鑑賞の姿勢は、もっと大雑把なもの。映画鑑賞に映画館を選ばずに、配信を待つ映画ファンが多くなった傾向はチケット代の高騰だけでなく、映画館こそが映画鑑賞のベスト環境ではなくなってきたことにもある。もしかしたら自分が映画館へ出向いた日時にも問題があったのかもしれない。自分は普段映画館へ行くときは、午前中に行く。というかどこへ出かけるときでも、午前中から動き出す。レジャーとなると、人の流れはたいてい昼ごろから動き出す。午前中から動くと、ゆっくり用事が済ませられる。今回の『ルックバック』鑑賞は、公開3日目の午後。口コミも拡がって、まだ先着特典も残っている。もっとも軽いノリの客層が集まりやすい時間帯だったのかもしれない。映画鑑賞はいろいろ工夫が必要だ。
『チェンソーマン』の主題歌が『キックバック』だったから今度は『ルックバック』なのかと混乱してしまう。この『ルックバック』というタイトル。若い人が主人公の話なのに、「振り返る」とはなんとも後ろ向きなイメージ。タイトルの由来はオアシスの代表曲『Don’t look back in anger』からとか。デイヴィッド・ボウイの『look back in anger』と言う曲もある。どちらにせよ海外作品からのインスパイアというのだけで、単純な自分は反応してしまう。
『ルックバック』は、映画が始まった瞬間から泣けると噂だった。泣く映画は自分は苦手。泣くと疲れてしまう。でも幸いなことに、自分はこの映画で泣くことはなかった。『ルックバック』は、自分にとっては感情に訴えかけてくるタイプの映画ではなく、巧みな仕掛けでみせてくる演出の技術を感心する映画だった。
『チェンソーマン』のときもそうだったが、藤本タツキさんの作品は、発想の源泉となる影響作品のセンスの良さに、まんまと引っかかってしまう。みんなが好きそうな、この要素とあの要素を集めてみました。作品の中で上手にコラージュしてみました。さあ、好きでしょう。……はい、好きです。悔しいけれど。なんともあざとい。観客としては、本当にまんまと手の内で踊らされてしまっている。
マンガ家を目指す主人公たちの話ということで、どうしても作者の半自伝的要素は否めない。主人公2人は女性に設定しているけれど、作者と性別を変えるのは照れ隠しでよくある手法。とくに男性作家は、自身を女性にしたがる。主人公2人の名前が、「藤野」と「京本」といことで、作者の「藤本」の苗字から分配引用されている。藤子不二雄の逆版。藤野と京本も、作者自身の性格を極端に二分割しているようにも感じられる。主人公2人で作者1人分。『ルックバック』をすっかり半自伝的作品として観てしまっていた。
藤野は小学校の学級新聞に載せる自作の4コママンガが好評で、すっかりいい気分になっている。京本は引きこもりの同級生。藤野は自分が学校でいちばんマンガが上手いと思っていた。あるとき藤野は、京本のプロ並みの画力に面食らう。
藤本タツキさんのマンガの特徴として、倫理観が危ういところがある。でもその道徳的にちょっとズレがあるところが、いかにもカウンターカルチャー的で魅力だったりもする。ひと昔前の芸人さんで、後輩や一般人などの弱い立場の者を虐めて嗤いものにする芸風があった。観客は、虐められている方ではなく虐める方に感情移入する。なんとも陰湿な芸風。今だったらすぐ問題になる。
人より絵が上手いというのは、世渡りの武器になる。陽キャで運動もできる。そういった人は、どんなに絵が上手くても絵の世界へはなかなかいかない。もっと派手な方法で、自分を演出して味方をつくっていく。自分の子どもたちもみな絵が上手いが、自分から絵を描こうとはあまりしていない。特技のひとつと軽く捉えている。思い返せば自分も学生のころ、絵が上手いとチヤホヤされた記憶がある。でも自分より絵の上手い人は学校にはたくさんいる。ここで勝負しても勝てる見込みはないと、早々に描くのを諦めてしまった。自分をアピールする方法は、それ以外にもあるはずだと。
主人公のひとりである藤野の性格の悪さが目立つ。彼女の描くマンガは面白いとのことだけど、人の死を茶化すものばかりで、不謹慎で嗤っている。それこそ昭和の芸人みたい。藤野は自分がいちばんの才能の持ち主だと思い上がっている。自分より絵の上手い人に出会って、負けず嫌いの闘志が湧く。そこで絵を描くことに没頭する姿はとても美しい。そこは良いヤツだ。画力も上がっている。人は15000枚くらい絵を描かなければ画力は上達しないと聞いたことがある。己を振り返れば、人生で描いた絵の枚数なんて、せいぜい300枚くらいだろう。画力が上がった藤野はどれほど努力したのだろう。画力アップの描写がリアル。
藤野は、自分より才能のあるもうひとりの主人公・京本に、自分の才能を褒められたところから物語が動き出す。藤野はまた高飛車に戻ってしまう。それからは藤野は京本の前では親分気取り。後輩虐めを芸風とする芸人の親分みたい。いつも上から目線で人に指図する。それは終始変わらない。藤本タツキさんのマンガの登場人物は優しくない。でもその危うさが観客の心を掴むのも確か。そばにいたら絶対に嫌な人だけれど、客観的に眺めるには興味深い登場人物たち。友人が進路の話をしているとき、なぜあんなに自己中心的な意見しか言えないのだろう。藤野の性格の未熟さや不器用さが、かえって観客の心を動かす。もっと素直に生きればいいのにと。一緒にマンガが描きたいと言えばいいのに。もどかしい。もちろん藤野の言葉が露悪なのも、彼女の可愛らしいところでもある。
自分も映画学生のころ、自分には才能があると思い込んでいた。でも、明らかに自分より能力の高い人から、自分が認められたとき、調子に乗って高飛車になっていた。自分の才能なんてたかが知れている。高慢ちきな態度をとって自己防衛するしかない。偉そうな態度をとっていると、周りも諦めて偉い人のように扱ってくれる。要は周囲が大人になってくれているだけのこと。まさにお山の大将。藤野にとって京本は、いつも自分の下の存在として捉えていた相手。藤野をたてる京本ちゃんの方が遥かに大人だ。
2人の主人公に作者の両極端な性格の現れを感じる。自分は常に陽キャで、上の立場でありたい願望が藤野。陰キャな自分は京本に背負わせて否定したい。自分の黒歴史は抹消したい。なんならその存在自体、抹殺してしまいたい。
京都アニメーションの放火殺人事件をモチーフにした出来事を後半扱っている。もちろんアメリカで多発する銃乱射無差別殺人にもアイデアはもらっている。京本ちゃんが通う大学は、作者自身が通った美術大学がモデル。同業のクリエーターとしては、いつ狂人が自分のところにやってきて、理不尽な被害に遭わされるかも知れない。いや、もしかしたら最悪のところ、自分自身が加害者になってしまうかも知れない。そんなネガティブな思いはすべて消してしまいたい。
藤本タツキさんの『ルックバック』着想に、「煮え切らない気持ちを整理するためにこの作品を書いた」というようなことを言っていたような気がする。そして執筆に向ける原動力は、怒りの感情だとも。モヤモヤした感情を、文章や表現の形にすることでセラピー効果があるという。『ルックバック』は、商業芸術のフィールドで、セルフセラピーがなされているのかもしれない。だからこそ個人に響くのかも。
自分はこの映画を観たとき、悲しみよりも怒りを感じた。こんなふうに希望ある若者の芽を摘まれてたまるものか。その理不尽さに腹が立った。仏教では悲しみの感情は、怒りの感情の一部だと言う。どちらも煩悩の種類。きっと京本ちゃんは、マンガ家になるよりも、自分がずっと藤野の庇護のもとにあることに危機感を覚えたのだろう。たった1人で独立して夢を目指すことは勇気がいる。それでも京本ちゃんはひとりで生きることを選んだ。きっと藤野はそれを裏切りと取って許せないのだろう。作中で描かれない行間の感情を補完する。
藤野はマンガ家として成功を遂げる。アイデンティティとしては、現在マンガ家として大成功している作者の立場そのもの。京本ちゃんは、捨ててきた何かの象徴でもあるし、同じ夢を見ながらも袂をわかった仲間たちの象徴でもある。どうだ、私は成功したぞ。そして私の元から去った者たちよ、お前たちは負け組だ。そんな奴らはみんな実質的にも消えてしまえ。心理的な復讐。そんな傲慢さも感じ取れてしまう。藤野は競争社会で、茨の道で生きる覚悟を決めている。
幸せを感じる感覚は、人によってそれぞれ違う。社会的に有名になった藤野は、客観的にはなんだか不幸そうに見える。藤野がいいアシスタントがいないと愚痴の電話をしている。小難しい理由をつけて文句をいっているが、単純に人間関係がうまくいっていないのがわかる。作中では理不尽な目に遭う京本ちゃんだけど、それ以外は幸せだったのではないだろうか。きっと京本ちゃんは、この後の人生でも名声を得ることはないだろう。それでも本人が幸せを感じているなら、そっとしておいてあげてほしい。成功ばかりが幸せでではない。自分なりのカスタムメイドな幸せを築き上げることは、人生の真の目標かも知れない。勝ち負けで言うなら藤野は勝ち組で、京本ちゃんは負け組になるだろう。そして多くの人が後者に属する。でもそれでいいじゃないか。なんだか作品を通して勝者から論破されている気分にもなった。
京アニ放火殺人の加害者が、「どんな仕事も向いてなくて、アニメの仕事しかないと思っていた」と言っていた。アニメの仕事なら特別大丈夫なのだろうか? 実際仕事となると、アニメ制作だろうがなんだろうが、どんな仕事でも日常となってしまう。この映画のラストシーン、ルックバックとタイトル回収するように、藤野の作業している背中が延々と映る。窓の外の風景は、昼から夕方になり夜となっていく。それでも藤野の背中はずっと同じ。まるで置き物みたい。集中している人の背中は静かだ。その中で繰り広げられているであろう脳内での闘いは外には見えない。キツイ仕事。どんな仕事でも大変なことには変わりない。夢の職業に就いても、それを形にしていくのは現実の作業でしかない。仕事は仕事。それ以上もそれ以下もない。
後から原作を読んで、内容がまるきりアニメと同じでありながら、読後の印象が違うのに驚いた。原作マンガでは『ルックバック』のタイトル通り、絵を描く主人公の背中の描写が強調されている。クリエーターにとって、人生のほとんどは創作活動にあてられる。それ以外の他者と繰り広げられる人生は、添え物のようになってくる。藤野と京本ちゃんとのやりとりが断片的なのは、物語の行間をつくる作風の工夫でもあるが、クリエーターからみた人生観はこれくらい現実世界を意識していないものなのかもしれない。でもやっぱり誰かと創作するのは楽しい。藤野は京本ちゃんと一緒にものづくりをしているときがいちばん幸せだった。それはビジネスや利害関係のない創作活動。
特典でもらったネームにはなかった、完成版のマンガだけにある後半の見開きの回想場面の絵で感動してしまった。きっと作者も後から編集者の人に言われて付け足した部分なのかもしれない。アニメ版でもあまり印象に残っていないような場面。クリエーター当事者は気づかない、ものづくりをする人にとって日常でありながら、もっとも幸福な時間が描かれている。原作マンガ、エモい。
『ルックバック』は感動作のようでいて、怒りに満ちた感情を鎮めようとしている儀式のような作品に思える。ささくれた感情が響いてくる。haruka Nakamuraさんのレクイエムが、エンディングにかかる。レクイエムの効果は、亡くなった人の魂を鎮めたり、残された者の慰めを促すためだけではない。荒ぶる感情も納めていく力がある。藤本タツキさんが執筆中、ずっとharuka Nakamuraさんを聴きながら作業をしていたという。作品を描くことによって、作者も救われていっているのかもしれない。殺伐とした世の中だからこそのエンターテイメント。荒んだ心を見せつけられ、それを慰める儀式的な映画だった。
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