『惑星ソラリス』偏屈な幼児心理
2017年は、旧ソ連の映画監督アンドレイ・タルコフスキーに呼ばれているような年だった。子どもの頃から好きな坂本龍一さんの病み上がり復帰作アルバム『async』は「タルコフスキー映画の架空のサウンドトラック」と言われていた。『solari』なんてそのもズバリのタイトルの曲さえある。
夏には『サクリファイス』と『ストーカー』のソフトの廉価版が発売された。芸術性が高くて、なかなか需要の低いタルコフスキー映画が購入しやすくなった。
そして年末のEテレ『100分 de 名著』では、スタニスワフ・レムの原作『ソラリス』が取り上げられた。もうタルコフスキー映画が観たくて観たくて仕方なくなった。で、『惑星ソラリス』のブルーレイを買ってしまったのが12月29日。奇しくもタルコフスキーの命日。
『惑星ソラリス』は10代の時に一度だけ、訳も分からず観ていたが、すんなり受け入れることができた。それこそ数十年ぶりに観直したのだが、ほとんど覚えていたくらい。自分が『惑星ソラリス』を観たのは80年代。ハリウッドのブロックバスター・ムービーが全盛期。テンポが早い展開がブーム。タルコフスキー作品は、これでもかと間をとった長回しの連続。そんな作風が新鮮だった。そしてその頃日本ではアート作品も人気があった。早すぎるカット割りの映画ばかりになってしまった現代からすると、このゆったりさが丁度よくなってしまったりもする。退屈も大事。
そういえばのちにジョージ・クルーニー主演でスティーブン・ソダーバーグ監督、ジェイムズ・キャメロン製作総指揮で『ソラリス』というタイトルでリメイクされた。ずっとわかりやすくなったソダーバーグ版『ソラリス』は、なんとも物足りなかった記憶がある。わかりやすければいいというものじゃないらしい。
スタニスワフ・レムの原作は、惑星ソラリス上空の宇宙ステーションの中での密室劇だ。タルコフスキーは自然描写が好きなので、主人公が地球にいる原作にはない場面が上映時間の三分の一を占めている。主人公クリスは、林の中のログハウスに住んでいる。未来が設定なのに自然に囲まれた生活をしているというのは、現代的な未来描写だ。未来都市として、東京の首都高を走っている描写が延々続く。当時タルコフスキーは、東京に未来像を見たのかも知れないが、2018年の現代からするとこの風景はディストピアの象徴にしかならない。
惑星ソラリスの海は知的生命体だ。主人公クリスは精神医で、ソラリス上空の宇宙ステーションの異常を調査するために派遣される。ソラリスのコンタクト方法は、その人の記憶や妄想を実態化すること。先にステーションにいた研究者が連れてた小人は、一体何を想像した具現化なんだろう? 不気味な中にも笑えてしまう。タルコフスキーの演出はいたってシリアスなのだけれど、それゆえにクスッと笑える瞬間がある。
クリスは惑星ソラリスで、自殺したはずの妻ハリーと出会う。レムの原作は、ソラリスによって具現化されたハリーの自我に焦点を置いている。妻のハリーは、クリスの記憶から生まれた生命体なのに独自の意思があり、ハリーであってハリーでない自分に悩み苦しんでいる。
AIにも心があるのでは? 将来コンピューターにも人権が発生するのでは?と、ハイパーテクノロジーの行く末を問われている現代にも通ずるテーマだ。宇宙というマクロ・コスモスを描くのもSFだけど、人間の心を探求していくミクロ・コスモスも、しっかりとしたSFだ。
原作は主人公クリスとその妻ハリーとの関係を主軸に描いている。にもかかわらずタルコフスキーの映画版のクリスの記憶は、妻ハリーを飛び越えて、若かりし頃の自分の母親や、父親との生活へと回帰していく。中年のクリスが、若い母親に面倒をみてもらう姿は滑稽だ。ラストシーンも原作とは違い、疲れ切ったクリスが老いた父親の膝にすがりつく姿で終わっていく。しかもソラリスの海に住み着いてしまったようにもみえる。
レムの原作はクリスとハリーの恋愛物語。でもタルコフスキーの映画版は、パートナーを思いやるどころか、両親に甘えたい心にまで幼稚化してしまう。レムはタルコフスキーと大げんかして「あんなヤツ大っ嫌いだ!」と言っていたらしい。原作者としては物語のテーマをすぎ変えられてしまったのだから、不愉快極まりないだろう。
タルコフスキー作品はどれもSF的なのに、タルコフスキー本人はSFには興味がないらしい。原作の尊重というよりは、原作を元に自分のやりたい方へとどんどん持って行ってしまっている。そもそも『ソラリス』の映画化の監督を、受けてしまったこと自体が間違いだったのではないだろうか? そのタルコフスキーのやる気のなさが、『惑星ソラリス』を独特の雰囲気の映画にさせてしまった。まさに偶発的な映画。こういったユニークな映画を製作するのは、現代のような商業第一主義な映画界ではもう難しい。この作風を真似しようとしてもなかなかできない。まさにレシピのない偶然誕生した料理。
タルコフスキーは「自分の存在自体が芸術だ!」とか発言している。ブルーレイの特典についてるコメントを観るとと、関係者たちも頑固なタルコフスキーには困っていたのがうかがえる。インタビューがタルコフスキー没後にされたものらしいので、皆言いたい放題。
自分の人生でも「この人、天才だな〜」と感じる人は数える程しかいない。その人たちは皆、物事の道理を誰よりもわきまえていて、心優しい人ばかり。人一人のできることは限りがある。極端な才能を発揮する人は、そのしわ寄せが必ず生じている。天才がエキセントリックに見えてしまうのはそのせい。想像力や洞察力のない人は、過激な言動をする人が天才だと思ってその形ばかりを模倣しようとしてしまう。でも天才というのは、その個性的な自分に常に悩まされているものだ。天才は天才ゆえの悩みがある。
タルコフスキーが果たして天才だったかどうかはわからない。でも頑固者でとっつきにくい人だというのは想像できる。旧ソ連では暮らせなくなって、晩年はヨーロッパ中を転々としながら死んでいった。しかも享年54歳。自分はタルコフキーはてっきり爺さんだと思っていたので、あまりに若くして亡くなっているので驚いてしまった。今の自分に近い年齢だ。作品が老成しすぎてる。
小難しい作風のタルコフスキー作品。妻という人生のパートナーと向き合うよりも、両親に子どもの頃と同じに甘えたいという妄想に浸ってしまう幼児性。頑固に孤立することを大人になることと思ってしまった芸術家は、無意識のうちに幼稚化してしまっていた。故郷を追われ、根無し草の孤独な人生。そりゃ早死にもするだろう。
ニーチェじゃないけれど、大人になるということは様々なことを諦めるのではなく、子どもの感性をパワーアップさせた人なのではと思う。楽しかったりワクワクする感情に素直になる。ともすると眉間にシワを寄せるのが大人だと勘違いしがちだが、大いに笑いはしゃぐことができるのが大人になることなのではないだろうか。
己が子どもに戻って、親の膝にすがるなんてもってのほかだ。それなら自分が親になる姿を夢想した方が建設的だ。タルコフスキーがどこまで意図して原作を改変したのかは、さっぱり見当がつかない。とりあえずこの映画は、自分にとっては人生の反面教師の姿。
惑星ソラリスは具現化した死者と出会える場所。でもそもそもクリスが惑星ソラリスについた瞬間に、彼はもう死んでしまっていたのかもしれない。
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