『永遠の門 ゴッホの見た未来』 ギフテッドとインフルエンサー
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映画:ア行
東京都美術館で開催されている『ゴッホ展』に行った。収集家のヘレーネ・クレラー=ミュラーのコレクション。富豪だったヘレーネがゴッホの絵に心酔して、多くの作品を買い取ったもの。ゴッホの絵が世に出るきっかけとなった。
ゴッホの絵は地味で、その魅力はひと目で理解できないような気がする。彼の作品は生前には売れることなく、死後になって評価されるという不遇の画家であることは有名。ヘレーネの芸術的慧眼がゴッホの才能を見いだしたのか、それとも金持ちの気まぐれか、どちらにせよヘレーネの仕事によって、こうして130年前のヨーロッパで描かれたゴッホの絵が、現代の極東に住む我々の目の前にあるのだと思うとロマンが拡がる。
ある作家が有名になるきっかけは一体どんなものだろう。おそらくゴッホのような天才は、今も世界のどこかで埋もれていて、不遇の人生を送っているのかもしれない。
ゴッホの画家人生は晩年の10年。「画家になる決意をした」と言い伝えられている。聞こえはカッコいいが、実のところ「画家になるしかなかった」のかもしれない。画家になったところで貧しい生活は変わらない。生活感がそもそもなかったのかもしれない。
ヘレーネは当時のインフルエンサー。彼女がゴッホの絵を大量に購入したことで、一躍ゴッホの絵が注目された。当時の大衆も果たしてどこまでゴッホの絵が理解できただろう。いつの世もメディアの力によって価値観が刷新されていく。
ゴッホの油絵の魅力は印刷物では伝わらない。絵の具をたっぷり塗りたぐった力強いタッチは、絵画の二次元表現ではなく、立体的三次元的なもの。かつてハイビジョンが一般放送に導入されたころは、ここまで高画質で映像を伝えることができるなら、美術館で絵画を鑑賞することもなくなるのではと無粋なことが言われていた。実際に美術館に足を赴いて肉眼で絵画鑑賞することと、映像の情報を観るのでは、体験としてはまったく別。ゴッホが如何にしてこのタッチに帰結したか考察するのも楽しい。
名画と言われているゴッホの絵を観ていると、どんどん気持ちがふさぎこんでくる。色鮮やかな色彩や、光の表現を工夫された技術からは、苦しみの中にいる制作者の藁をもすがるような想いが伝わってくる。晩年の療養所で描かれた絵ほど、色と光に満ちている。それは生きているのが辛く、このまま消えてしまいたいなかで、やはり生きたいという気持ちの現れ。命懸けだからこその迫力。
ゴッホの絵を観ていたら、それにまつわる映画はないものかと探してみた。2019年にウィレム・デフォー主演の『永遠の門』という作品があった。ゴッホは37歳で自殺をしているのだが、デフォーでは少し歳をとっているのではと懸念した。苦労続きの人生だった解釈のこの映画のゴッホは、見た目が初老でも説得力がある。もうデフォーがゴッホというだけで悲しくなってくる。
監督はジュリアン・シュナーベル。自身も画家であり、バスキアの伝記映画も撮っている。この『永遠の門』は、ゴッホの新解釈。ゴッホの自殺説も否定している。
確かにゴッホの絵を観ていると、死にたい人の描く絵ではないと感じる。苦しみに耐えながらも、なんとかして生きる術を模索している。きっとこれらの絵を描いているときのゴッホは、生きようとする願望で溢れていたのだろう。
自分がゴッホの存在を意識したのは、子どもの頃に観た黒澤明監督の『夢』に登場するゴッホ。映画監督のマーティン・スコセッシが演じていた。自身で耳を切ったあとの晩年の天才画家。スコセッシのゴッホは力強く、溢れるエネルギーを抑えきれずに耳を切ってしまったようにみえる。想像も及ばない存在。
デフォーのゴッホはギフテッドの才能を授かりながら、その副作用に苦しんで疲弊し切っている。感受性が強すぎて、人との距離が保てない。他人には見えないものが見えるから生きづらい。狂人とされてしまう。現代の解釈なら、それは脳障害だとはっきりわかる。精神疾患も脳障害も、人それぞれ症状が違う。十把一絡げに療養所に押し込まれては、人間的な尊厳すら失われる。治療も逆効果。映画はゴッホは狂人ではなかったのだと声高に語っている。映画の中のゴッホは、変人のように見えるけれど、語り出すとハッとする知的な発言ばかりする。人よりも遥かな知恵を持つ人が、そこで馴染めないがゆえに狂人扱いされてしまうことの恐ろしさ。映画はゴッホの一人称で綴っていく。
ゴッホの対照的な存在として、オスカー・アイザック演じるゴーギャンとの交流が描かれる。辛いばかりだったゴッホの人生で、ゴーギャンとの芸術談義が唯一楽しいものだったと言わんばかり。情熱的で外交力のあるゴーギャンは、自分をうまく売り込んで名声を掴んでいく。パリは野望を抱く芸術家が集っている。大物パトロンを誰が掴むか。芸術家の青物市場。
人が苦手なデフォー・ゴッホは、パリでの生活は苦痛でしかない。静かな村里に住まいを移す。おそらく実際のゴッホも130年前に見ていたであろう景色を、デフォー・ゴッホと追体験する不思議。
変わり者のゴッホは村で嫌われる。保守的な陰湿な場所。でも実際のゴッホは果たしてどうだっただろう。なにせ死後に名声を得た人物なので、人となりを探るには多大な想像力を必要とする。
ゴッホの絵は風景ばかりではない。人物も描いている。農民の生活に寄り添っている。おそらく自分と同じような貧しい人々。そんな彼ら彼女らにシンパシーを感じる作品たち。実際にゴッホが村の嫌われ者だったら、あの絵は描けなかっただろう。鳥の巣を描きたくて、近所の子どもに駄賃をあげてとってきてもらった逸話もあるくらいだから、他人とのコミュニケーションは取れていたと思われる。
映画『永遠の門』のゴッホは、今もなお現実社会に存在する日の目を見ない芸術家たちのメタファー。現代ですら脳障害について医療は未解明のまま。もしゴッホがそれなりのケアを受けていたら、きっとあの名画たちは存在しなかった。でもきっとどんなに恵まれた環境下にあっても、ゴッホの生きづらさは癒えることはないのだろう。あの絵ではなくとも、別の作品にはなっていたはず。
実際のゴッホの理解者は弟のテオの存在が大きい。映画ではその役目をゴーギャンが担っている。テオはゴッホの亡くなった一年後に、後を追うように亡くなっている。もし映画のような距離感のテオだったなら、テオはすぐには死んでない。映画のラストにはヘレーネらしき人物も通り過ぎる。ヘレーネにとっては、ゴッホの苦しみ抜いた人生は軽い。名声とはそんなもの。
このまま消えてしまいたいと願いながらも、なんとしても生きたいと争う本能。悲痛の叫びが、あの色と光の中にある。ゴッホの絵は、気が滅入るが魅力がある。そこには知性があるから。ゴッホは自分の生きづらさや障害を自覚していたからこそ、自ら望んで療養所に行ったのだろう。治療したい一心で。でもまだ世の中は精神疾患の研究が追いついていたなかった。
ジュリアン・ベルナール監督のゴッホ像があまりに説得力があったので、新事実が掘り起こされたのかと勘違いしてしまう。ベルナール監督は、この映画はフィクションだと語る。
美術館や博物館にある歴史的な品々に触れ、当時に想いを寄せる。人それぞれの解釈があっていい。いろいろ考えを巡らせるのは、芸術鑑賞の醍醐味だ。
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