『PERFECT DAYS』 俗世は捨てたはずなのに
ドイツの監督ヴィム・ヴェンダースが日本で撮った『PERFECT DAYS』。なんとなくこれは映画館で観た方がいいような気がして劇場へ足を運んだ。集まっている客層は中高年以上がほとんど。もしかしたら自分がいちばん若年にあたるかもしれない。ヴェンダースの映画といえば、もっとトンがった客が来るものかと思っていた。日本では、ヴェンダースの映画を観に来たというより、主演の役所広司さんを観に来たというお客さんが多いのかもしれない。どっちにせよ『PERFECT DAYS』は若者には渋すぎる。
ヴェンダースの作品の特徴として、母国のドイツで撮られている作品よりも、アメリカや日本でつくられている作品が多いような印象がある。あたかもそこの国の作品のように化けて、その国の文化に溶け込んだ物語をつくっていく。そしていつも主人公は社会の輪に馴染めず苦しんでいる。作品そのものもそうだが、主人公は国や社会からアウェイな居心地の悪さの中で、どうやって生きていくかが、だいたい映画のテーマになっている。
ヴェンダースはずっと以前から、小津安二郎監督のファンで、大きく影響を受けていると公言している。いまだ小津監督作品が世界中で評価され続けているのも、ヴェンダースのおかげかもしれない。今回の『PERFECT DAYS』の画面比率も、ブラウン管時代のスタンダードサイズで制作されている。昭和時代の日本映画のイメージ。ヴェンダース監督が完全に日本人に擬態化して、日本映画を撮っている。
そもそもこの映画は、東京の公衆トイレの美化を進める企画『THE TOKYO TOILET』でできたもの。その企画でのデザイナーズ・公衆トイレ(?)のプロモーションビデオをヴェンダースに撮って貰えないかと依頼から始まる。日本財団が実施したユニクロと電通によるもの。なんともハナにつく。ヴェンダースはその企画から、プロモーションビデオの短編ではなく、一本の長編映画にしたいと要望をだす。きっとこんなキレイな公衆トイレならば、毎日手入れをする地道な仕事をしている人がいるだろう。その人は高給ではないだろうから、どうしてそんな仕事を選ぶのかも気になってくる。この『THE TOKYO TOILET』の闇の部分、裏側のほうが、ヴェンダースにとっては興味深かい。目先の見栄えばかりが先立つデザイナーズ公衆トイレ。ヴェンダースの着眼点は正しい。
この映画のプロモーションで来日したヴェンダース監督。自分が抱いていた今までの彼のイメージを覆してくれた。ヴェンダース監督は、良い映画こそはつくるけれど、なんとなくいけ好かないイメージがあった。インディーズ映画の監督で、全身ブランド服に身を纏い、スノビッシュな印象ばかりが前に出てくる。我こそオシャレ番長と言わんばかり。今回の来日での彼の印象は、いつもニコニコしている品のいいお爺さん。きっとスタッフもキャストも、この監督に会いたくて、毎日撮影現場に向かってしまうのだろう。もしかしたら「スカしたハナにつくヴェンダースのイメージ」こそ、メディアがつくり出したものなのかもしれない。
役所広司さんが演じるこの映画の主人公・平山さんは、トイレ掃除の仕事をしている。日々の仕事を、誰に評価されるわけでもなく、人知れず高い精度で黙々とこなしていく。仕事は早朝から午後には終わり、夕方は銭湯の一番風呂に浸かって、晩になれば居酒屋でひとり夕食を食べる。四畳半の古いアパートに帰って、読書をしながら寝落ちする。部屋にはテレビもネットももちろんない。スマホは使わず、ガラケーを所持している。写真が趣味で、使っているカメラもデジタルではなく、手間のかかるフィルム。移動での車内では、好きな古い洋楽をカセットで聴いている。20〜30年文化が止まっている。それらを所持する方が高くつく贅沢さもある。
平山さんのルーチンワークの日常は、なんとも気持ちよさそう。映画を観る前までは、のんびりしていて羨ましいように感じた。ドキュメンタリータッチで描かれるこの映画。平山さんが朝を迎えて、目を覚ますところから始まる。彼のルーチンワークの日常はあまりに忙しく、なにかの鍛錬をしているかのよう。映画は平山さんのかわりばえのない日々を、毎回カメラワークの視点を変えつつ捉えていく。ヴェンダースがこの映画の解説で、「平山さんは僧侶のようだ」と言っていた。
そういえば自分も若い頃、本気で僧侶になりたくて、仏教を学んだことがある。俗世の煩わしい人間関係がめんどくさくて、そのしがらみから逃げたい一心だった。でも僧侶の世界を知れば知るほど、さらに人間関係が厳しそうな職業に思えてきた。寺院の中の共同生活という、狭い社会に閉じ込められる。僧侶となれば位もはっきりしている。上下関係は俗世間よりもっと厳しい。きっと好きな映画も観れなければ、音楽も聴けない。もちろん本も読めない。出世して、法事などで思わぬ高収入など得られれば、かえって欲も生まれてきそう。俗世から離れるつもりが、更なる誘惑が増えてくるばかり。高みにつけはつくほど、俗世に飲まれそう。どうやら自分は僧侶に向いていない。
自分はこの映画の主人公のような、サブカル爺さんになりたいと憧れている。今後の生き方、将来の指南書にしようと映画を観た。実際映画を観てみると、平山さんの生活はほとんど今の自分と変わらない。自分も若い頃から整理整頓された生活を好んでいた。映画や音楽、本が好きなのは、人間が好きなのではなく、自分の考えを整理させるための行動にすぎない。いわばセルフセラピー。平山さんの行動パターンは、自分も体験しているものばかり。雑踏から横道にそれてみると、静かでキレイな場所がある。ニッチな選択肢は意外と多い。他人との距離感が適度にありつつ、それでもけして孤立しないという関係を保つにはかなりのセンスがいる。自分も傷つけず、周囲からもひんしゅくをかわない。この処世術を保っていくのは修行に近い。
老害という言葉がある。若い人とのコミュニケーションで、自分がハンドリングしようとするその姿勢。多くを語りすぎて、とどのつまり説教ばかりしてしまう。「近頃の若者は……」と言い出したら、もう限界おじさんの出来上がり。実際に人と交わりたいのなら、話し手にまわるのではなく、聞き手になっていった方がいい。老いては子に従えではないけれど、目下の人に質問するのが上手い人ほど話がしやすい。わからないものは素直に聞いていけばいい。
この映画の平山さんは、寡黙でほとんど喋らない。いつもニコニコしているので、人から好かれる。平山さんは読書家なので語彙もある。たまに喋ると、とても大事なことを言う。ほんとに僧侶っぽい。でも実際は平山さんほど気の利いたことは言わなくてもいい。いつも機嫌が良ければ、他人はその人を信用する。そんな平山さんでも、感情的になることがある。それは日々のルーチンワークが崩れたとき。彼にとっては世界が破壊されたことと同じ。普段怒らない人が怒り出すのは、客観的に見るとかなり微笑ましい。
姪のニコが突然彼の生活に転がり込んでくる。静かな生活のほころび。それも楽しい。どうやら平山さんは、過去に逃げてきた世界があるらしい。トイレ掃除を職人技のように丁寧にこなしていく彼だから、きっと仕事もできたのだろう。実家の太さも匂わせる。セレブな暮らしをしているであろうニコと、底辺で静かに暮らす平山さん。二人が画面にいるとき、シンクロして同じ仕草をするのが可笑しい。この血のつながりの表現は、小津安二郎監督作品へのオマージュ。若い頃の自分は、家族描写でのコメディ誇張と侮っていた。でも実際家族などの近親者は、真似したわけでもないのに、似たような言動をしてしまう。例えば生まれたばかりに生き別れした血縁者が数十年後に再会する。それまで違った人生を送っていたにもかかわらず、お互いが無意識にそっくりな言動をしていたりして、お互い他人ではないとはっきりわかるらしい。それはきっと遺伝子に組み込まれている何かの情報がさせること。自分もよく娘と気配が似ていると言われている。
平山さんはいろいろ経験したのち、セレブの世界から去ってきた。ニコはまだこれから自分で体験してから、自分の道を選んだらいい。できれば自分の今いる世界でうまくやって欲しい。平山さんは自分とよく似たニコを突き放す。セルフ出家した平山さん。これからの人生で、もう何処にも行くつもりはない。あとは穏やかに死が来るのを待つだけ。心臓が止まるとき、鼓動がとても規則的になっていくと聞いたことがある。平山さんのルーチンワークは、死への準備とも受けとめられる。
世の中にはプロ並みかそれ以上の才能を持った素人さんがいる。その才能は、しがらみのない素人だからこそ、その才能が開花したのかもしれない。もしプロになっていたら、この輝きは生まれてこないだろうという矛盾。この映画にもそんな芸達者な素人さんが登場する。場末のスナックのママが、突然アメリカン・ブルースを歌い出す。日本語に訳されたその曲は、歌詞の舞台背景がどこの国だかわからなくなって、まるでファンタジーソング。不思議な無国籍音楽になってくる。そんな芸達者な素人を演じているのは、もちろんプロ。あがた森魚さんのギターで石川さゆりさんのブルースが聴けるとは思わぬ収穫。そういえばブルースと演歌はよく似てる。
自分たちは日本人だから、平山さんの懐古趣味な音楽センスがカッコよく感じてしまう。でももし平山さんが演歌ばかりを聴いていたら、すっかりしょっぱくなってしまう。ブルースも演歌も、歌われている心情が同じなら、平山さんはちっとも気取っているわけではない。
ロハスやミニマリズムという思想は、セレブから生まれてきたものと揶揄される。けれど国民や地球規模での人類の将来を懸念した、きちんとした政治家は、すでに脱成長を目指している。このまま経済ばかりに目を向けていると、人類はいずれ破滅する。そんなことにいち早く気づく人が、自らの生活を見直していく。けれどまだ誰もそのことに気づいていなければ、その人はただの変人でしかない。平山さんが生きる世界は、今よりちょっと不便な世界。今の時代は過度に便利になりすぎている。どこを取捨選択していくかも、今後の大きな取り組み課題。はたして平山さんが生きている間に、彼の生き方が評価される日は来るのだろうか。
人は一人では生きていけない。平山さんには関わる人がいる。仕事の同僚、銭湯の常連客、居酒屋の旦那……さまざま人と触れ合っている。俗世は捨てたと思っていても、生きている限り、人との関わりは完全には断つことはできない。ラストシーンで、平山さんの抑えていた感情が込み上げてくる。自分はずっと、もう用無しの人間だと思い込もうとしていた。俗世間はとっくに未練はないと思っていた。でもそんなことはなかった。自分の感情を見て見ぬふりをして、ずっと蓋を閉めていた。
これまでのヴェンダース映画で、人との繋がりから逃げたした主人公は大勢いる。彼らが彼らの属している世界から去って、物語が終わっていく。そんな去っていく人の表情は、今までのヴェンダース映画では描かれてこなかった。役所広司さんがすべてのヴェンダース映画の主人公たちの代弁者となってしまった。
どんなに完全なる日常を自己演出してみたところで、それが完成することはなさそうだ。一人で過ごすのが好きだとしても、やっぱり一人は寂しいということらしい。平山さんは日々の中にある美しいものをいつも探している。そうしているだけで寂しい気持ちは薄らいでいく。たとえ相手が人でなくとも、コミュニケーションはとれる。ヴェンダースは、日本語の「木漏れ日」という言葉を気に入ってくれたみたい。なんだか嬉しく思う。
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