『太陽がいっぱい』 付き合う相手に気をつけろ
アラン・ドロンが亡くなった。訃報の数日前、『太陽がいっぱい』を観たばかりだった。観るきっかけは、パリ・オリンピックのとき、自分の好きなフランス映画を挙げている人がネットで散見されたことから。そういえば自分は『太陽がいっぱい』を観たことがないと気づいた。いまさらながら映画ファンの常識として、この作品は観ていた方が良さそうだと思った。
自分はアラン・ドロンについてはあまり詳しくない。むしろ自分の親世代が、アラン・ドロンがどうのこうのと語っていたのを、小さい頃に耳にしていた。今回『太陽がいっぱい』を観ることで、アラン・ドロンを調べてみて、88歳で存命中だと知ったくらい。その矢先に今回の訃報。奇遇なものだと驚いてしまった。最初は何かのアルゴリズムで、アラン・ドロンのフェイクニュースでも引っかけてしまったのかと思ってしまった。
自分の普段のSNSは、映画専門アカのようになっている。きっと自分と同世代から若い世代の人が閲覧者に多いのだろうが、この訃報のときは、アラン・ドロン専門アカのようにドロン一色になってしまった。みんなこれほどにアラン・ドロン愛があったのか。
タイトルばかりが先走ってしまうくらい有名な『太陽がいっぱい』。自分の親世代の二枚目俳優といえば、アラン・ドロンといったところ。それこそ当時の女性ばかりでなく、男性からも人気があった印象を受ける。石原裕次郎さんの映画のタイトルから派生した『太陽族』も、この映画のタイトルの影響なのだろう。そうなるとアラン・ドロンの存在は、ものすごく当時の日本のカルチャーに影響を与えている。
そもそも「二枚目俳優」とはなんだろう? 今まで当たり前のように聞いて使っていた言葉だが、その由来を考えたこともなかった。「二枚目俳優」も今の言葉で言えば「イケメン俳優」の意味。コメディ俳優や道化俳優、顔が売りでない役者のことを「三枚目」という。グーグル先生曰く、二枚目三枚目というのは、歌舞伎用語とのこと。何ごとも知らないまま、ルーツも考えないまま、日常会話で使ってしまっている。ボーッと生きているんじゃないよと、チコちゃんに怒られてしまいそう。「二枚目俳優」というのも死語に近いし、「二枚目俳優=アラン・ドロン」みたいなところがあるので、今後廃れていく言葉でもあるのだろう。
『太陽がいっぱい』のポスターで、クルーザーの舵をとっているアラン・ドロンのビジュアルがとても有名。あたかも青春を謳歌している若者の映画のよう。マット・デイモン主演の『リプリー』が、『太陽がいっぱい』のリメイク作品とわかっていると、まるで同じ作品とは思えない。最近ではNetflix版の『リプリー』もある。自分もずっと以前にマット・デイモン版の『リプリー』は観ていた。『太陽がいっぱい』を観始めても、『リプリー』と同じ原作とは思えずにいた。もしかしたら自分の勘違いだったのではと、記憶を疑いはじめるくらい。
映画に前知識がないことの幸せもある。現実社会を生きていれば、予想のつかない出来事に突然遭遇することもある。『太陽がいっぱい』は、ただただ調子に乗ってイキってる青年たちの映画のように前半は思わせる。それが良かった。この映画が、犯罪小説が原作に持つとを知らない方が、中盤からの展開に驚きもある。でもそれはセンセーショナルな驚きだけではない。前半の退廃的な若者心理の描き方があってこそ、この犯罪の動機に説得力が出てくる仕掛けとなっている。
男2人女1人の若者の恋愛模様を描いたフランス映画は、1960年代に多かった。J-popの編成も1人の女性ボーカルにバックバンド男性2人のスタイルが多いのは、こういったフランス映画の影響があったからなのかもしれない。このスタイルのJ-popの歌う曲は、若者の恋愛や友情の悩みを歌うものが多い。奇数の割り切れないグループ像は、不安定な若者心理の象徴でもある。
アラン・ドロンが演じるリプリーは、大富豪の御曹司フィリップの付き添いとして雇われている。リプリーとフィリップは意気投合して、大はしゃぎして悪さもしたりしている。同等の友人として遊んでいるようでいて、ことあるごとに貧富の差を見せつけられる。フィリップには美人の婚約者もいる。同年代の青年で、似ているところもたくさんあるのに、実家の太さという徹底的な身分の違いという、見えない壁の存在が圧力をかけてくる。拭うことのできない現実。仲良くしているようでいても、フィリップもリプリーを見下しているのがわかる。男社会独特の、どちらが上か下かを決めたがる本能。当然リプリーは自尊心を傷つけられていく。
金持ちにおもねる心理は、人間でもある。力のある人に気に入られて、自身の身分もあげてもらいたいという願望。素直に権力者に見込まれればいいが、現実はそうも甘くない。
ずっと以前勤めていた会社に海外の御曹司が会長だった企業があった。その御曹司の日本の住まいは、J-popアーティストの豪邸を買い取ったもの。そこでときどき要人を招いてホームパーティをするらしい。同僚の数人が、休日返上でホームパーティの給仕を買ってでる。もちろん給料は出ない。そこの会社の特徴なのだろうか、それ以外にも、部長クラスの人には必ず腰ぎんちゃくが付いている風習があった。力のある人にぶら下がる。とても労力のいる仕事。あえてその働き方を選ぶ。よくわからないなと、自分ははたから見ていた。その会社もコロナ禍で倒産してしまった。諸行無常の響きあり。あのときの御曹司や部長たち、それにくっついていた人たち、今はどうしているのだろう。
たとえば御曹司のように、生まれた時から力を持っている人は、人生ずっと周囲からちやほやされているもの。貧しい平民が、そんな生まれついての王様に媚びへつらったところで、王様に気に入られるような特別な存在になれるはずはない。側近の座を狙うライバルはいくらでもいる。なれるかどうかもわからない地位を得るために、自尊心を低くしてしまうのは、人生にとって大きなマイナス。
『太陽がいっぱい』のリプリーも、初めは軽い気持ちで御曹司の側近を買って出ただろう。ただ実際、身分の違いの激しい相手と行動を共にするのは、精神的にキツいものがある。きっとリプリーは、最初は犯罪なんかするつもりはさらさらなかったのではないだろうか。金持ちにぶら下がる貧乏青年というその立場が、どんどんリプリーの心を蝕んでいった。油断し切っている金持ちのおぼっちゃまには、隙がいくらでもある。貧しい自分よりも、金持ちのフィリップになりたい。愛憎一緒くたの心理。
この映画の不思議なところは、アラン・ドロンがあまりにカッコいいので、観客の我々は彼の犯罪の成功を願ってしまいそうになるところ。容姿がいい人とそうでない人で、同じことを話していても、相手の納得度が雲泥の差が出ることは、心理学でも証明されている。アラン・ドロンのような二枚目が、人間のクズみたいなことをやってのける。つくり手がどこまで計算していたのかわからないが、この見た目と行動のミスマッチが、リプリーというキャラクターをめちゃくちゃ魅力的にしてしまっている。現代のキャスティングなら、悪事をするキャラクターは、配役の段階で一目で悪人ヅラをしている。世の中そんなに単純ではない。清潔感があって、好感が持てる外観が演出されていればこそ、詐欺師の仕事は上手くいくもの。
パトリシア・ハイスミスの原作には、『太陽がいっぱい』の続きがある。この悲しき人間のクズ・リプリーを主人公にした物語が複数あるとのこと。そのリプリーシリーズのタイトルに『アメリカの友人』も入っている。あのヴィム・ヴェンダース監督で映画になった作品だ。そちらではデニス・ホッパーがリプリーを演じている。まったく雰囲気の違う作風で映画化されているリプリーの人生。これは『アメリカの友人』も観なくてはならなくなった。
物語に登場する悪者たち。観客の深層心理にある破滅願望は、そういったフィクションの人物が、代わりに背負ってくれていた。彼らのおかげで、観客の我々は人生の道を踏み外さないで済んでいる。こんなことはしてはダメだと理屈では分かっている。それでもあえて破滅に向かいたい欲望。エンターテイメントは現実逃避の役割を果たしながら、現実ではできないことを代わりに実現してもらうカタルシスもある。
小説がメディアに誕生してから、犯罪が激減したという記録もある。今まで自分の人生しか知らない人は、他人をうらやみ犯罪に走る可能性が高かった。小説を通して、さまざまな人生を知ることになり、自分ばかりが不幸ではないことを読者は知っていく。現実世界で自分が見えている他人の人生は、氷山の一角でしかない。あの物語の人物に比べれば、まだまだ自分の方がマシ。そう思えてくれば生きやすくもなる。そして冷静にものごととらえる力もついてくる。それはある意味、知性を獲得したことのも言えてくる。
『太陽がいっぱい』は、自分が生まれる前の映画。そのときの日本の空気感がどんな感じで、観客はこの映画をどう受け止めていたのかは、想像するしかない。古い映画を観ることで、その時代背景に心を運ばせる機会ともなる。どうしてこんな映画がつくられたのだろうかと。
自分が生まれるころの映画は、犯罪に手を染める主人公の話が多かった。高度成長期と言われた時代も、鬱屈とした感情がくすぶっていたのかも知れない。『太陽がいっぱい』の、爽やかなビジュアルの中で描かれる闇の世界。このミスマッチがこの映画を名作とさせたのだろう。はたして観客の倫理観はどの視点でこの映画を捉えていたのか? もしその時代に自分がいたらどう感じていたか? 想像するとかなり楽しくなってくる。
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