*

『あん』 労働のよろこびについて

公開日: : 最終更新日:2021/11/15 映画:ア行, 映画館

この映画『あん』の予告編を初めて観たとき、なんの先入観もなくこのキレイな映像に、どんなストーリーであっても良作に決まっていると直感した。のちのクレジットで河瀬直美監督と知り、ああなるほどと思った。悲しいかな今の映画のほとんどは、工場の流れ作業のように量産的に作られている。表面的な映像はキレイになっても、それはあくまで使っている機材の性能や技術が良くなっただけにすぎない。心を込めた命ある映像というのは一瞬でわかるものだ。

映画は桜の季節から始まり、一巡りして桜の季節で終わる。多くの文芸作品が桜を死の象徴としたように、この作品でもメタファーとして機能している。登場人物が少ないのもいい。そのキャラクターをよく知ることができるから。小さなどら焼き屋の店長(永瀬正敏さん)と、そこへ通う中学生の女の子(内田伽羅さん)、そして樹木希林さん演じるアルバイトのおばあちゃん。画面の向こうにはこの登場人物達は確実に息をして生活している。その空気感を映画はきちんととらえている。映画を観に行ったというよりは、その人たちに会いにいったといった感じ。

おばあちゃんがバイトに始めて入った日、どら焼きの餡が工場で作られた業務用だと知る。おばあちゃんはとても慌てる。「どうしてこんなことになっちゃったの。どら焼きにとって餡は心でしょ」って。そして手間隙かけてあずきをゆでていく姿は本当に楽しい。映像だからこそ伝わる、美味しそうなものが出来上がっていく過程。並んだどら焼きをみて子ども達が喜ぶ。子どもは世の中でもっとも優れた審美眼をもつ。幸せな映像が続く。

おばあちゃんにはある秘密があり、店長さんは守ってあげられなかったと嘆く。でもおばあちゃんは、働けたことが本当に楽しかったと言う。登場人物の誰もが優しい。その優しさは辛く悲しい経験を知っているから。とかく人は自分の非力さを嘆くけれど、相手はそれどころか感謝してくれたりすることもある。何かになれなくとも、生きている意味がある。なんとも悲しい言葉だ。労働すること、誰かに喜んでもらえること。風の音、木の声を聴くこと。現代人がすっかり忘れてしまったことに、登場人物達は感謝して生きている。

河瀬直美監督作は芸術的だが、この作品は彼女の作品の中でももっとも観やすく、映画に見慣れていない人にも静かに届くものがあるはず。

エンドロールにかかる秦基博さんの主題歌『水彩の月』もいい。寡黙な映画の心を補完してくれる。

映画の上映が終わった後、出入り口でどら焼き販売をしていた。どら焼きの映画を観たら、どら焼きが食べたくなるだろうから、階下の食品売り場からどら焼きを持ってきて販売すれば売れるだろうという店の目論みだろうが、観客の誰一人としてそんなものに足をとめる者はいない。そりゃそうだ。映画ではさんざっぱら手作りの手間隙かけて作ったどら焼きをみている。誰がどのようにして作ったかわからない、工場で作られたかもしれないどら焼きなんて、ここにいる人は誰ひとりとして食べたいとは思わない。作っている人の姿が見えるどら焼きが食べたいに決まってる。映画を観もしないで「どら焼きの映画だからどら焼きが売れる」と安易に考えている、心ないアイディアマンの姿が浮かんで興ざめもいいところだった。観客をなめるなよ。

映画は、目先のことにとらわれず、もっと静かにじっくり物事に向き合うことのたいせつさを語っている。儲かることだけが幸せではないと信じたい。人生を送るということは、もっとゆっくり時間の流れに身をまかせるものだったのかもしれない。

関連記事

『インセプション』 自分が頭が良くなった錯覚に堕ちいる映画

クリストファー・ノーラン監督の『インセプション』。公開当時、映画館で観たがさっぱり乗れなかっ

記事を読む

『アリオン』 伝説になれない英雄

安彦良和監督のアニメ映画『アリオン』。ギリシャ神話をモチーフにした冒険活劇。いまアリオンとい

記事を読む

no image

人を幸せにしたいなら、まず自分から『アメリ』

  ジャン=ピエール・ジュネ監督の代表作『アメリ』。 ジュネ監督の今までの作風

記事を読む

『おおかみこどもの雨と雪』 人生に向き合うきっかけ

『リア充』って良い言葉ではないと思います。 『おおかみこどもの雨と雪』が テレビ放映

記事を読む

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』 自分のことだけ考えてちゃダメですね

※このブログはネタバレを含みます。 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』シリーズの四作目で完結

記事を読む

『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』 マルチバースとマルチタスクで家庭を救え!

ずっと気になっていた『エブエブ』こと『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』を

記事を読む

no image

『リップヴァンウィンクルの花嫁』カワイくて陰惨、もしかしたら幸福も?

  岩井俊二監督の新作『リップヴァンウィンクルの花嫁』。なんともややこしいタイトル。

記事を読む

『ニュー・シネマ・パラダイス』 昨日のこと明日のこと

『ニュー・シネマ・パラダイス』を初めて観たのは、自分がまだ10代の頃。当時開館したばかりのシ

記事を読む

『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』 特別な存在にならないという生き方

立川シネマシティ[/caption] 世界中の映画ファンの多くが楽しみにしていた『スター・ウ

記事を読む

no image

『名探偵ホームズ』ストーリー以外の魅力とは?

  最近、ジブリ作品が好きな自分の子どもと一緒に『名探偵ホームズ』を観た。 か

記事を読む

『シビル・ウォー アメリカ最後の日』 戦場のセンチメンタル

アメリカの独立系映画スタジオ・A24の作品で、同社ではかつてな

『1987、ある闘いの真実』 関係ないなんて言えないよ

2024年12月3日の夜、韓国で戒厳令が発令され、すぐさま野党

『三体(Netflix)』 神様はいるの?

Netflix版の『三体』をやっと観た。このドラマが放送開始された

『T・Pぼん』 マンスプレイニングはほどほどに

Netflixで藤子・F・不二雄原作の『T・Pぼん』がアニメ化

『ならず者(1964年)』 無国籍ギリギリ浪漫

話題のアニメ『ダンダダン』で、俳優の高倉健さんについて語ってい

→もっと見る

PAGE TOP ↑