『ハンナ・アーレント』考える人考えない人
ブラック企業という悪い言葉も、すっかり世の中に浸透してきた。致死に至るような残業や休日出勤を強いたり、パワハラやセクハラが横行する企業は、従業員から訴えられたり、社会的批判を受けたりするようにもなった。「KAROSHI(過労死)」という言葉も、世界共通語になってしまった。「HENTAI(変態)」に続く、不名誉な日本語の世界進出だ。
ブラック企業の経営方針は、人権を無視した非道な考え。ただ、そのブラック企業を生み出す土壌には、ブラック会社に従順に従う「ブラック社員」の無心の協力もあるのではないかとも考えられなくもない。
自己肯定感の低い日本人。上から命令されるがままに、汚れ仕事も忍耐で受け入れてしまう。企業にとっては、黙って管理される社員ほど便利なものはない。ブラック社員は自分で自分の首を絞めて、仕事がしづらい状況を積極的に築いていく。やがてその当事者自身の心身が蝕まれていく。
果たして苦境に立たされたとき、人はただ我慢してそれを受け入れるしかないのか? はたまた自分のポジションを守りながら、理不尽な命令に抗う手はないのだろうか?
後者を進めて行くには、労力やリスクは不可避。でももし自分の権利を勝ち得たときには、驚くほどスマートに道が開けてしまうこともある。人生の荒波に立ち向かうには、「自分で考える力」が、絶対的に必要となる。
ブラック社員を語るときに、ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』や、『イェルサレムのアイヒマン』などが引用されていることが多い。ブラック社員論から、彼女の名前を知ることになった。アーレントのアイヒマン裁判のレポートは、現代日本のブラック企業問題を紐解くヒントにもなりそうだ。
そもそもアイヒマン裁判とは、ナチスドイツの戦犯裁判。ユダヤ人虐殺を指示したアイヒマンを裁いたもの。当時の世界が注目したアイヒマンを、世論は人殺しのモンスターとして捉えたかった。
アーレントは自身もユダヤ人で、その身も追われながらアメリカに亡命している。ニューヨーク誌のライターとして、その裁判を傍聴することになる。映画はアーレントのレポートをめぐる騒動に焦点が置かれている。
アーレントが伝えるアイヒマン像は、モンスターなどではなかった。アイヒマンはただの小役人で、上からの命令にただただ従順に従って、ユダヤ人弾圧に加担したにすぎない。アーレントは、アイヒマンは凡庸な人間だと語る。私もあなたもアイヒマンになりかねない。己の立ち位置について考えることが必要なのだと。
アーレントのレポートが、現代日本人に重要な意味を持たせる。我々日本人は、日々の忙しさにかまけて、考えることをしなくなってしまった。ともすると、自分自身の人生が、幸せに送れる方法すら、模索しなくなってしまっている。
この映画を観て初めて知ったのは、このアーレントのレポートがものすごい弾圧を受けたということ。彼女の放ったレポートは、世界に衝撃を与えてしまった。「ナチス=悪」というレッテルに一石投じてしまった。
フィクションならともかく、現実はハッキリ勧善懲悪が成立するはずもない。冷静に考えれば当たり前なのだが、当時の世論はそれを否定したがった。私もあなたも、極悪非道の人殺しになるなんてとんでもないと。
アーレントのレポートは、政治学を飛び越えて、哲学の分野にまで及んでくる。いつの世にも哲学は必要だ。人間はときには、答えのでない問いを考え巡らせる必要がある。
映画に出てくるアイヒマンは、当時の記録フィルムをそのまま使った本人そのもの。アイヒマンは、「どうせ俺は死刑だろ。裁判だなんて、こんな茶番が!」といった態度が伺える。
実際にアイヒマン自身が手を汚して人を殺めたかどうかはわからない。ただ、彼の指示で大勢の人が殺されたことは事実だ。罪は罪として大きい。
アーレントが示す教訓からすると、我々もいま自分がやっている仕事が一体どんなものなのか、果たして社会の役に立っているのか、立ち止まって考えることも必要かと考えさせられる。日銭のために魂を売り渡してはいないかと。
人々がアーレントに反意を示す様が陰湿で恐ろしい。彼女を攻撃する様子は、現代のSNSでの誹謗中傷の姿とかぶる。人は「この人を攻撃してもいい」とサインがおりると、半狂乱に攻め込むところがある。同調圧力の恐怖。
アーレントは自分のレポートの正当性を信じている。毅然と持論を貫いて行く。生き方としてはカッコいいが、失うものや労力が大き過ぎる。彼女の問題意識の高さがそうさせている。
アーレントはよくタバコを吸う。大学の講義中でもプカプカはじめてしまう。現代だったら考えられない。それほどストレスフルだったのだろう。
当時のナチス下で、上からの命令に逆らうなんて、とんでもなかったのかもしれないが、アイヒマンは自分の置かれている仕事を深く考えなかったのは重要。インテリが戦犯となり、不幸になった。
アーレントは、憎きナチスのSSを冷静に見つめ、考え抜いて客観的なレポートを書いた。それが反感を買い、弾圧されて不幸になった。
考えなさ過ぎが不幸になるのは当然だが、考え過ぎても不幸になるのが皮肉だ。
アーレントは高尚に物事を捉えようとした。でも民衆が求めていたのは、もっと原始的で野蛮な吊し上げだった。世の中よりも先走った考え方は、たとえ正しくとも排除されてしまう。
アーレントの社会哲学は、現代人にとても重要なものになった。保身を考えるのは邪道なのかもしれないが、もしかしたらアーレントは、もっと自分の人生がラクになる生き方をしてもよかったのではないかとも思えてしまう。
正論は時として人を不幸にする。映画観賞後は、意外な感想が心をよぎってしまった。興味深いものだ。
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