『一九八四年』はジョージ・オーウェルの1949年に発表された、近未来の完全管理社会を描いたディストピアSF小説。のちに影響を与えた作品の多さに驚かされる。テリー・ギリアム監督の『未来世紀ブラジル』やら、ジョージ・ルーカス監督の『THX1138』、アンソニー・バージェスの小説でスタンリー・キューブリック監督が映画化した『時計じかけのオレンジ』。トリュフォーの『華氏451』やゴダールの『アルファヴィル』もそうかな。とにかく絶望的な未来像。

現在は2017年。作品で描かれている未来『一九八四年』もはるか昔になってしまった。さてジョージ・オーウェルが警鐘した完全情報管理社会の未来予測はどうなったかといえば、残念ながら半分くらいは現実のものとなっている。原作が書かれた1940年代は、このディストピアのモチーフは旧ソ連の社会主義国家だった。

作品にでてくるテレスクリーンなる個人の生活を管理する通信機器は、いまや携帯電話やスマホがその役を担っている。作中のように絶えず管理の声こそ出さないが、簡単にハッキングできてカメラ付き盗聴器にもなってしまう。しかもご丁寧に一人一台、誰もが日々「携帯」してくれている。

アメリカでトランプ大統領が就任して、やれ全体主義的だとか排他的差別的と、極端な考え方が語られるようになった。日本でも不寛容な風潮は、ネットの世界では既に確立している。自分と考えが合わない相手をとことん攻撃して押し潰してしまう。

健全な社会は、多種多様な考え方が織り混ざって、いろいろ論議しながら決められていくもの。それが許されない社会の顛末は歴史が語っている。

いま『一九八四年』を読むと、「こんな社会イヤだよね」というより、「こんな社会に向かっていく群衆心理」の方が気になってしまう。世界を震撼させるような大殺戮をした独裁者だって、その国の国民がちゃんと選挙で選んでる。国民が望んだり、無関心から許したりしたからこそ生まれた社会。転がり落ちるのはゆるやかな選択ミスの積み重ね。

『一九八四年』の世界では階級社会ができている。主人公は中流階級。最下層階級はプロールと呼ばれ、人口の85パーセントがそれにあたる。現実での一般市民といったところ。支配階級の検閲が入った映画や音楽などの娯楽を与えられ、他の暮らしと比べたことがないので、今の生活には特に不満もない。

むしろ中流階級の主人公たちの方が、なまじ管理社会のシステムを知っているため不幸にも思える。自分より下の身分があると思わせて、不満を封じ込ませる巧みな政治。娯楽はいつの時代、どこの国でもプロパガンダに最適だ。

作中では絶えず世界中が戦争をしている。何処と戦争しているのかではなく、かんじんなのは戦争状態であること。それは架空の戦争でも構わない。

この小説はまさに1984年に映画化もされている。あまりに暗く重い内容なのと、どうも現代からみるとシャレにならない深刻な問題で、エンターテイメントとして楽しめそうもない。本作を元ネタにしている『未来世紀ブラジル』が、コメディタッチなのは、そうでもしなければヘビー過ぎたからなのだろう。扱いたいテーマだけど扱いにくい。

ジョージ・オーウェルは40代で亡くなっている。なんでも結核持ちだったとか。警鐘のエンターテイメントとはいえ、こんなペシミスティックなことばかり考えていたら、そりゃあ具合も悪くなる。悲観的にものごとを捉えるのは良くないが、最悪の事態をシミュレーションした危機回避は大切だ。パラノイアとリスクヘッジの狭間。

仕事でもなんでも、なにかに取り組んでいると、不本意なトラブルに遭遇することはままならない。そんなとき、事前に最悪の危機を想定していると、なんなく回避できたりする。執われない程度に、最悪を予測して行動することの重要性。

アメリカではトランプ大統領就任以来、国民が新大統領の言動に注意深くなったと聞く。政治に無関心だった人でさえ、政治家を監視する癖がついてきたらしい。

韓国では、時の大統領の不祥事に国民が怒り、大規模デモで罷免させ、逮捕劇にまでなったのは記憶に新しい。そこまで国民が一丸となって動けるのはすごい。でもそれだけ国民が追い込まれていることでもある。

日本はといえば、政治家の不倫を暴いて、徹底的に責めて辞めさせるような、ウサ晴らしのイジメみたいがせいぜい。実はものごとの本質や建設的な展開はそこにはない。各々が自分で考え、判断することの大切さ。

なんだか『一九八四年』が現実味を帯びてきたぞ。管理社会の土壌は既に完成してる。

そんなとき、ふと定食屋のおばちゃんの言葉にハッとする。「難しいことはわからないよ。わからないけどね」とさんざ前置きをして一言「やっぱり戦争はイヤだね」って。そうなのよ。おばちゃんの意見がいちばん正しい。

「歴史の認識が浅い」とか、衒学者たちにくどくど言われても、ちっともピンとこない。「頭が悪い」とみくだされても、そうだろうな〜と閉口するしかない。

「殺したり殺されたりするのはイヤだよね」そのおばちゃんの言葉の方がズキンと響く。シンプルでわかりやすい。たとえ反対意見を理屈をこねくりまわして論破してもあまり意味はない。イヤなものをイヤと感じる直感。それだけ。

おばちゃんは、自分が政治的な話をしているなんて、さらさら思っていない。日々の生活の話が自然と政治とつながっている。政治に無関心なのは、自分自身の人生にちゃんと向き合っていないから。プロールじゃないけど、与えられた映画や音楽(作中にはないけどスポーツ観戦も)などに興じて現実逃避してる場合じゃない!

「それより、働いても働いてもラクにならない今の世の中。偉い人、どうにかしてくれないかね〜」おばちゃんの言葉はどれも胸をすく。