なんとも面白い映画だ。冒頭からグイグイ引き込まれてしまう。

主人公はフランシス・マクドーマンド演じる、娘を暴行惨殺された母親。操作がまったく進まない警察に対して、抗議文を町の「3つの看板」に掲載したことから、さまざまな波紋が生まれてくる。

あらすじを聞いただけでは、あまりにも重苦しい内容で、鑑賞するにはそれなりのパワーが必要だろうと覚悟していた。実際に観てみると、ただただ悲劇的な暗い映画ではなく、ヘビーな内容を笑いのセンスで描きだしている。死人がでてる事件や、怖い場面もある映画なのに、どことなくコメディタッチ。シリアスなテーマと笑い。ともすると、ただ不謹慎な作品になりそうなものを、そうならずに描ききる演出のバランス感に知性を感じる。

自分がこの映画『スリー・ビルボード』の予告編を観たとき、実話を元にした作品なのかと思ってしまった。でもこれは脚本も書いているマーティン・マクドナー監督のオリジナル作。なんでも監督が、作中に出てくるような警察への抗議文を張り出した看板を見かけたことがきっかけとか。

この看板広告を掲げた人はどんな人か? そんな想像から、この『スリー・ビルボード』の構想が膨らんだらしい。久しぶりに、作品が生まれるきっかけの理想的な状況のエピソードを聞いた。インスピレーションは、なにげない日常生活の中こそに潜んでいる。

この映画の興味深いところは、事件の真相を追求するスリラーの要素があるのに、勧善懲悪ではないところ。ヒールかと思っていたヤツが善人だったり、イヤなヤツが主人公の味方になったりもする。主人公だって、悪いことをたくさんやったりする。観てる方は「あれ? いつもの映画の人物描写のパターンと違うぞ」ってなってくる。それでもそんな登場人物たちをみて、嫌いになっていくどころか、なんとなく好きにさせてしまうところに、演出家や演者たちのユーモアのセンスある。

この映画は、役者先にありきで当て書きしているのだろう。この役者さんだからこそ、この役を演じてもらいたいというモチベーション。役者側も演出家を信じて、安心して役を楽しんでいるようだ。この映画を作りたい人が集まって作っていく。余裕すら感じる。

フランシス・マクドーマンドのインタビューで言っていた。普段、夫のジョエル・コーエンのところに、「あなたの映画に出たい」と言ってくる若手役者を横目で見ていたけれど、私自身がマーティン・マクドナー監督に、「あなたの作品に出させてもらえないかしら?」って頼んじゃったのよ。マクドナー監督からしても、名女優からのラブコールを無限にするわけにはいかない。

人気の原作があって、それを映画化すればいい。配役は今人気の役者を使えばいい。話題になって儲かればいい。というのが最近の映画製作の流れ。その中で、『スリー・ビルボード』は、本来あるべき幸せな映画製作の過程を経ているのかもしれない。映画は「はじめに人ありき」なのだと。

人間、良いところもあれば悪いところもある。ものごとは早々シロクロはっきりつくものではない。やるせないかな人生。それでも腐らずに生きていくには、あまりこだわらずにユーモアで笑い飛ばしていくことが大切なんだろう。

映画にはレイシズムや性犯罪、DVやら、小さな田舎町の村社会の閉塞感など、社会問題がてんこ盛りに織り込まれている。それでも作品は、声高に何かを訴えることもなければ、すんなり問題解決するような安直な結末も、あえて用意してない。派手さやセンセーショナルな方向にもいかない。『スリー・ビルボード』のカタルシスは、予想してものとは違ったカタチで静かに現れる。

『スリー・ビルボード』は、背負っている暗いテーマがあるのに、鑑賞後にはなんだか楽しい気分にさせられる明るい感覚がなんとも言えない。

暗いのに明るい。問題提起してるのに、声が小さい。いろいろ言ってるみたいだが、煙に巻いてる。悲しみとおかしみ。人なんてシロとクロを行き来するいい加減なもの。目に見えない内側がどんなに激しくとも、人生は静かに進んでいく。各自の体温は、本人にしかわからない。