『時をかける少女』 永遠に続く人生の忘れ物
細田守監督の最新作『竜とそばかすの姫』が公開されるにあたり、彼の出世作である『時をかける少女』をあらためて観た。久しぶりの鑑賞だった。当時理解できずに、なんとなくモヤモヤしたままにしていた感情が、今回ちょっと薄まったような気がする。
アニメ映画『時をかける少女』は、単館上映の独立系配給で小規模で上映された。映画公開後、口コミで好評が拡がり、上映館も拡大していった。自分も遅ればせながら、近所のシネコンでこの映画を観た。自分はジブリ映画が好きだったので、そのまま受け入れていた。タイムパラドックスものは大好物。それを学園ラブコメにイノベーションしている本作は、とても楽しかった。原作を大幅にアレンジして、ほとんどオリジナル作品の展開にしているところも良かった。でもなんだかモヤっとする。
高校生たちがワイワイやっている学園もの。女子たちが集まってる姿も、「これ、おじさんが描いてるんだよな」と、いちいち細田守監督の顔が浮かんできてなんとも落ち着かない。主人公の真琴がひとりだけポロシャツを着ているのにもひっかかってしまう。他の女子は制服にワイシャツを着ているのに、真琴だけポロシャツ。主人公だから判別しやすいようにするために別の服装にしたのか? 観客はファッションでも、その登場人物の性格を判断する。真琴だけ校則違反なの。ヤンキーなの?
真琴がマイルドヤンキーなのだとして観ていけば、どうやらモヤり感が薄まる。真琴を演じているのが仲里依紗さんというので、そのままかも。つい最近までアイドル像は、みな清純派でなければいけないような妄想があった。だからアニメの主人公がマイルドヤンキーというのも新鮮すぎ。人物像をぼかしたから、訳がわからなくなってしまった。真琴はボーイッシュにやっていきたい。だからイケてる男子とばかり遊んでる。ポロシャツ着てるのも、自分の女性性をやんわり否定している。小学生ぐらいのまま、ずっと男の子のように駆けずり回っていたい。ちなみにワイシャツ着てる普通の女子たちも、ピンクやブルーなど色違いで、静かに個性を出している。
真琴はもう高校生。周りの友人たちは、男女の目で真琴を見始めている。真琴の周りの方がずっと大人になっていて、当の主人公がいちばん幼いというのが興味深い。真琴は表面的な付き合いで、調子良く浅い人間関係を立ち回る。一見上手にさまざまな人と交流しちるようにみえる。自分でもうまくやっていると言っている。だからいざ相手が大事な話をしようとすると、その場から逃げることばかり考えてしまう。彼女自身、自分はずっと子どものままでいいと信じていた。かなりイタイ主人公。
自分のことしか考えていなかった主人公が、周りの人たちのことをようやく見ていこうとするまでの物語。管理教育の厳しい日本ならではの青春映画。このアニメ映画を欧米の10代に観せると、「どうもよくわからない」と感想が返ってくる。世界的に10代といったら、性に興味があって仕方がない。それが自身の恋愛感情を否定して、ずっと子どものままでいい、自分だけ良ければいいと引きこもりたがる主人公に、感情移入などできるはずがない。
真琴は、先に大人になってしまった友だちたちの間を、ひらりひらりとかわしていく。明るい性格なので、孤立することはない。でも一歩間違えば、いじめられていた高瀬くんとさほど変わりない。タイムパラドックスで、真琴と高瀬くんの立場が入れ替わったのは偶然ではない。
この高瀬くんを演じているのが松田洋治さんなのが絶妙。松田さんが声優となると、ジブリアニメの凛々しい青年のイメージだが、彼が青年時代に演じた役は、病んだ役ばかりだった。当時、松田洋治さんが画面にでてくるだけで、不穏な気持ちになったのは自分だけではないはず。
誰かを好きだと決めることは覚悟が必要。このアニメ映画のカタルシスは、主人公が大人になることを受け入れるところにある。そこでビルドゥングスロマンの系譜に繋がってくる。
アニメ版『時をかける少女』の真琴の相談役の叔母さんの名前は芳山和子。原作の主人公の名前。オリジナルストーリーのアニメ版と原作がここで繋がる。原作にほぼ忠実な映像化の大林宣彦監督・原田知世さん主演の実写版を思い出す。
数日後テレビで偶然この実写映画版が放送されていた。これまたかなり久しぶりの鑑賞。この映画を観たのは小学生の頃、テレビ放送で、一回しか観ていないにも関わらず、かなりちゃんと内容を覚えていた。あの頃この映画を初めて観た自分と同年代の息子と一緒に観た。「昔の映画だから特撮がダサいね」と息子は言う。いやいやお父さんだって当時同意見だったよ。大林監督の特撮場面は、観客のこちらが不安になるくらいミステイクもお構いなし。不安感を煽るのが制作意図なら大成功。
この1983年版の実写版『時をかける少女』を今観ると、内容の薄さが気にかかる。芝山和子が大人しすぎる。タイプリープものを日本の作品で描く。読者や観客を混乱させないために、主人公の個性を薄めたのだろうか。でもこの芝山和子さんが、このまま大人になって、アニメ版の叔母さんになるのだったら、なんとなく頷ける。
アニメ『時をかける少女』は、良い意味でも悪い意味でも日本アニメの分岐点になった。このあと、青空を背景に学生の主人公が立っているアニメ作品のポスタービジュアルを何十枚も見せられる。日本のアニメといえば、青空学生一択。
海外のアニメの映画祭に行けば、日本の作品が強いのではという幻想はもうなくなった。海外のアニメ作品は、自国の内紛や社会問題を扱った、個性的だったり芸術的だったりする作品ばかり。日本のアニメといえば、毎回青空学生。審査員も「ああ、またあれね」となる。ただ世界中のどのアニメ作品も、ターゲットにしているのは大人層。アニメーション映画は本来子ども向けのカートゥーンだったはずなのに、子ども向け作品が制作されない。自分も子どもを持ったとき、子どもに観せられる作品があまりに少なくて困った記憶がある。
アニメ『時をかける少女』は制作時は20代前後の客層を狙っていただろう。でも実際には30代40代のお客さんの心も動かした。現在進行形で青年期を迎えている人だけでなく、人生の忘れ物をした大人たちが、アニメ映画で青春期の果たせなかった想いを代替え刷新していく。
日本は我慢や同調圧力に合わせていくことで、平和や安全を約束される。先日海外のオリンピック選手が、日本に亡命を望んでいたにも関わらず送還された。彼らは日本にユートピアを見たのだろうか。日本社会はある意味ジョージ・オーウェルの世界に近い。我慢があってこその調和。それでも戦争や内紛が絶えなかったり、治安が悪い社会よりはずっといいと、日本人は選んできた。閉塞感はその副作用。
社会的閉塞感を癒すためには、日本アニメの閉じていていながらも、甘く優しい世界観の方が向いている。現実逃避をしなければ、不安で頭がおかしくなってしまう。アニメの世界で中和。世界中である一定のファンがいる日本アニメ。生きづらさのガス抜きのジャンルとして、マイノリティーの服薬として、まだまだ必要なのだろう。これが本流とは違っても、それはそれで需要があるのが現代というもの。まさに文化の多様化、文化の細分化。
ふと、未来からやってきた少年が、本当は何がしたかったのかを想像してみる。きっと実年齢は高校生より上で、もしかしたら中年かもしれない。未来には整形美容も進化しているだろう。若者のふりをした大人が、もう一度青春をやり直す。自分も実際仕事をする仲間にひとまわりふたまわり年下が集まると、全体的に活気が出て、自分も若返ったような気分になり、マンパワーが上がる錯覚に陥る。きっと未来人も、青春ごっこをやり直したかっただけなのかもしれない。永遠の子どもであること。それがこの映画のテーマ。日本アニメのテーマなのだろう。人生100年時代ならでは。ちょっと不気味。
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